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Culture
2020.11.14

生涯走行距離なんと地球9周分!80代まで走り続けたマラソン選手山田敬蔵の生き様とは

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2020(令和2)年4月2日、一人のマラソン選手が天寿を全うしました。彼の名前は山田敬蔵(けいぞう)、享年92歳。日本が戦後初めて参加したヘルシンキオリンピックや、ボストンマラソンに出場。走ることの楽しさを多くの人に伝えたいと、80代まで走り続けました。約340回のフルマラソンに出場、地球9周分、36万㎞を走りぬいた彼の生涯をお伝えします。

ベルリンオリンピックの記録映画に感銘

山田敬蔵は、1927(昭和2)年11月30日、秋田県北秋田郡大館町(現在の大館市)に9人きょうだいの次男として生まれました。
1936(昭和11)年、9歳のときにベルリンオリンピックの記録映画を鑑賞。マラソンは日本選手が1位と3位と大健闘。「俺も大きくなったら日の丸つけて外国で走るぞ」と目を輝かせる敬蔵少年。小柄で運動が苦手でしたが、不思議なことに校内マラソン大会では毎年上位だったのです。

山田敬蔵の出身地秋田県大館市は、秋田犬発祥の地

満蒙開拓青少年義勇軍として満州へ

1942(昭和17)年6月、小学校を修了した敬蔵は満蒙開拓青少年義勇軍に志願。父と長兄は鉄道員でしたが、次男の自分にそこに入る余地はないと感じての行動でした。
訓練では、腕力重視の土のう(約25㎏)担ぎなどは、全くダメ。しかし2000mや10000m走になると能力を発揮。努力の末、同期200人の中で一番になりました。
こういった子どもの頃の経験が、敬蔵をマラソンへと導きます。

※満蒙開拓青少年義勇軍
旧満州(現在の中国東北部)に、開拓のために送られた10代の少年たちの組織。現地での生活は過酷で、亡くなったり、戦後「中国残留孤児」になったりした人も。

帰国、マラソンを始める

1946(昭和21)年に帰国後、製材工場に勤務。157㎝と小柄な敬蔵も丸太や製品を毎日必死で担ぎ、知らず知らずのうちに足腰が鍛えられていきました。
地元の長距離走の出場を経て、1949(昭和24)年、21歳のとき第4回国民体育大会で初めてフルマラソンに出場し、7位に入りました。
敬蔵の存在は、陸上競技に力を入れている鉱山会社の目に留まり、1950(昭和25)年入社。働きながら、本格的にマラソンを始めます。

日本マラソンの父、金栗四三(かなくりしそう)との出会い

敬蔵に注目していた人は、他にもいました。「日本マラソンの父」と呼ばれた金栗四三。2019(令和元)年の大河ドラマ「いだてん」の主人公です。
日本人初のオリンピックマラソン選手であった四三は、1950(昭和25)年「オリンピック・マラソンに優勝する会」を発足。有望な選手を探していました。
国民体育大会と同年に行われた、金栗賞朝日マラソン(現在の福岡国際マラソン)に敬蔵を招待。2位の好成績を残します。
こうして四三と敬蔵は、子弟の関係に。

余談ですが。食糧難の時代、主催側から食事券は支給されたものの、それでは不十分と、地方から白米を持参した選手も多数。米どころ秋田県出身の敬蔵も、数日分の白米を持参。これが功を奏したのかもしれませんね。

ヘルシンキオリンピックに出場、結果は26位

1952(昭和27)年7月、日本が戦後初めて参加したヘルシンキオリンピックが開催。敬蔵は、フルマラソンに出場。子どものころに誓った日の丸を胸に挑みましたが、結果は2時間38分11秒の26位。当時のことを、後にこう語っています。

成績よりなにより、「人間機関車」ザトベック選手の驚異的な強さをまざまざと見せつけられて消沈していた私を「負けたのだから、頭を下げろ。あとは練習だけ」と叱咤して下さったのが監督の金栗四三先生でした。

引用:ホットアイあきた(通巻364号)「拝啓、ふるさと様。第12回 元オリンピックマラソン選手 山田敬蔵」

チェコスロバキアのザドぺック選手は、2時間23分03秒で優勝。その差は約15分。
世界の壁を実感し、四三と共に更なる練習に励むのでした。

ボストンマラソンに出場、世界最高記録で優勝

1953(昭和28)年4月、敬蔵はアメリカのボストンマラソン第57回大会に出場。監督はもちろん、四三。このマラソンコースには、「心臓破りの丘」と呼ばれる上り坂があります。ここで2人の選手を抜き去り、2時間18分51秒で優勝。当時の世界記録でした。
ヘルシンキオリンピックのザドぺック選手の記録を追い抜いただけでなく、自身の記録を1年で約20分縮めたのは、並々ならぬ努力があったのでしょう。
四三は敬蔵にこんな言葉をかけました。

「これからも走れるだけ走ってくれ」
「走れなくなったとしても、招待を受けることがあったら、その招待を受けなさい」
「たとえ小さい人であっても、努力することによって、日本一、世界一、になれるといういい見本になれ」

引用:佐山和夫『金栗四三 消えたオリンピック走者』192ページ

敬蔵は、それらの言葉を胸に走り続けました。

山田敬蔵が師と仰ぐ、金栗四三の書 提供:山田記念ロードレース大会事務局

金栗四三の書(拡大したもの)提供:山田記念ロードレース大会事務局

ボストンマラソンから4年後、世界記録が抹消に!

その後も敬蔵は、数々のマラソン大会に出場して好成績を上げます。1956(昭和31)年の朝日国際マラソン(現在の福岡国際マラソン)では、8回目の出場で初優勝。
しかし、ボストンマラソン第57回大会から4年後の1957(昭和32)年。コース計測の間違いで正規の距離に約1000m足りないと、そのときの世界記録が抹消!
信じられない事態ですが、敬蔵は

私の記録も参考にとどめられていますが、世界の強豪を相手に優勝できた、それだけで私は十分満足です。

引用:ホットアイあきた(通巻364号)「拝啓、ふるさと様。第12回 元オリンピックマラソン選手 山田敬蔵」

と落ち着いたもの。こんな広い心、持ちたいです。

敬蔵とボストンマラソン

敬蔵とボストンマラソンの関係は、長く続きます。
1957(昭和32)年、1975(昭和50)年、1976(昭和53)年と3回出場。
会社勤めを引退した後、1995(平成7)年から2007(平成19)年まで毎年出場。
1998(平成10)年から2001(平成13)年では、70歳以上の部4連覇。
2003(平成15)年、優勝50周年記念として招待選手に。
さらに、優勝した1953年にちなみ、ゼッケン1953番は永久欠番として、敬蔵出場時のみ使用されました。

間違いは必ず起こるもの。それを許す心と認めて謝る心、それを持っていれば、穏やかな関係が持てるものですね。

前人未到の走行記録を作り、81歳で引退

師と仰ぐ金栗四三は、生涯に25万㎞走ったと言われています。四三の記録を目標に走り続けた敬蔵は、2007(平成19)年、前人未到の35万㎞を走り抜きました(その後更新され、36万㎞に)。
ここまでくると、天文学的な数字です。

障害者スポーツにも貢献。日本盲人マラソン協会(現在の日本ブラインドマラソン協会)の顧問を務め、1988(昭和63)年のソウル・パラリンピックでは、視覚障害のある上杉惇(あつし)選手の伴走をして4位に導きました。

2009(平成21)年、81歳でフルマラソンから引退。
年齢を重ねても走り続ける敬蔵は、市民ランナーの目標でした。

秋田県大館市、ニプロハチ公ドームに展示された山田敬蔵の功績 提供:山田記念ロードレース大会事務局

おわりに

金栗四三は1983(昭和58)年に92歳で逝去。敬蔵と四三が同じ年齢で亡くなったことに、運命を感じます。
今頃は、空の上で2人で走っているのではないでしょうか。

私事ですがライターと並行して、ヨガ講師をしています。今回の記事をまとめながら、「私も80代までとは言わないけど、長くヨガをしていきたい」と強く思いました。
健康第一でがんばります。

※アイキャッチ画像 山田記念ロードレース大会事務局提供

◆協力
山田記念ロードレース大会事務局(秋田県大館市)
山田敬蔵のボストンマラソン第57回大会優勝を記念して、出身地の秋田県大館市で毎年開催されているマラソン大会。

◆参考資料
・ホットアイあきた(通巻364号)1992年11月1日
背景、ふるさと様。第12回 元オリンピックマラソン選手 山田敬蔵
NHK あの人に会いたい マラソン選手山田敬蔵 (番組のダイジェスト版)
福岡国際マラソンプレーバック 1949年第3回大会 戦後の食糧難時代42歳古賀がいぶし銀の走りで逆転
福岡国際マラソンプレーバック 1956年第10回大会 ボストン優勝から3年連続8回出場の山田が初優勝
・明日のスポーツを拓く会編『スポーツの技と心 国民をわかせた選手たち』(教育開発研究所、1982年)
・『洋泉社 MOOK 金栗四三の生涯』(洋泉社、2018年)
・佐山和夫『金栗四三 消えたオリンピック走者』(潮出版社、2017年)

書いた人

大学で日本史を専攻し、自治体史編纂の仕事に関わる。博物館や美術館巡りが好きな歴史オタク。最近の趣味は、フルコンタクトの意味も知らずに入会した極真空手。面白さにハマり、青あざを作りながら黒帯を目指す。もう一つの顔は、サウナが苦手でホットヨガができない「流行り」に乗れないヨガ講師。