Culture
2021.02.15

幕末とは、いつからいつまでなのか。江戸時代の「おわりのはじまり」を辿る

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ふつう、江戸幕府の末期を「幕末」と呼びます。中世史の研究者は鎌倉時代の末期のことを「幕末」と呼びますが、一般社会では圧倒的に「幕末=江戸幕府の末期」と認識することが多いでしょう。この記事でも幕末を「江戸時代がおわる頃」として書きます。

いったい「幕末」とは、いつからいつまでなのか。それは専門の研究者でも時代区分論争が起きて、意見が分かれるところです。まずは、いつからが幕末なのか「おわりのはじまり」について考えてみましょう。

たいがいは、嘉永六年(1853)のペリー来航を契機として幕末が始まったと説明されます。たしかに大きな蒸気軍艦が、モクモクと煙を吐きながら江戸の間近に迫ってきたインパクトは大きいですし、そこから幕末が始まったと考えるのも、けして間違いではありません。しかし、いきなり大砲を載せた黒船が日本に脅しをかけてきたと考えるのは間違いです。

それ以前に、日本が狼藉を働いているのです。救助した漂流者を引き渡そうとして接近した非武装の商船を、沿岸から砲撃して追い返したという、モリソン号事件がありました。話も聞かずに殴りかかってくる相手に「まずは、こちらの話を聞け!」と言いに行くのに、そりゃあ軍艦で行きますよね。でも、それだけ日本が頑なになったのにも、それなりの理由がありました。

アイキャッチ画像:シカゴ美術館より

ロシアが日本の北方を攻撃!「文化露寇」

ロシアのコサックと呼ばれる集団は、16世紀中頃から毛皮資源を得るためウラル山脈の東側へ進出、17世紀にはシベリアを横断して極東へ勢力圏を広げました。それ以後のロシア帝国は進路を南に向け、清国と国境を争うようになりました。また、オホーツク海にも進出、寛政四年(1792)には日本との通商を要望する使節としてラクスマンが根室に派遣、幕府は長崎への入港を許可する信牌を与えて帰しました。

出典:メトロポリタン美術館

文化元年(1804)には日本人漂流者から日本語を学んだレザノフが長崎に来航、幕府との交渉に及びます。しかし、日本側は頑なに通商を拒絶しました。

レザノフは交渉を中断して北米大陸に向かいましたが、その間にロシア艦隊の一部は樺太や択捉島を襲い、人家を焼き、食料を奪う「文化露寇」が発生、松前・南部・津軽の諸藩兵と交戦しました。その後もロシアとの摩擦は続き、千島へ測量に訪れたゴロウニンを抑留するなど、ロシアとの関係は険悪になりました。

長崎港に英国軍艦が侵入「フェートン号事件」

英国軍艦フェートン号がオランダ国旗を掲げて長崎港に侵入、オランダ商館員を捕らえ、食糧・薪水の提供を要求しました。そのときオランダはナポレオンが君臨するフランスの支配下にあり、英・仏は戦争中でした。長崎奉行の松平康英は英艦の要求を呑んで補給に応じ、人質を無事に解放させたうえで退去させましたが、その夜のうちに事件の責任を負って切腹しました。また、長崎警固の任にあった佐賀藩でも家老が切腹しており、事件の衝撃は非常に大きいものでした。

日本人を乗せたアメリカ船を砲撃「モリソン号事件」

文政八年(1825)、ついに幕府は無二念打払令を発し、日本近海に出没する外国船を発見した際は追い返すよう諸藩に命じましたた。それにより、天保八年(1837)には、浦賀沖に現れた非武装の米国商船モリソン号を沿岸から砲撃して追い払ったのでした。

出典:メトロポリタン美術館

のちにモリソン号は七名の日本人漂流者を送還するために日本を訪れたことがわかって、幕府の対外政策は見直され、遭難船に対する燃料と飲料水の補給を認める薪水給与令が定められたのでした。

その時期の国内情勢はどうかというと

大飢饉発生。大坂で大塩平八郎らが立ち上がる

天保四年(1833)から十年にかけて冷害による凶作が続きました。そのせいで天保の大飢饉が発生、農村では稲作を諦めて商品価値は低いが冷害に強い雑穀を植えるなどの対策がとられました。しかし、米価が暴騰した都市部では、市中に餓死者が続出してしまいます。元大坂東町奉行所与力で陽明学者の大塩平八郎は窮民救済を訴えましたが、大坂東町奉行は幕府が命じたまま大量の米を江戸へ回送してしまい、救済策を講じませんでした。

大塩は門弟や近隣の農民とともに、米を買い占めていた豪商らを襲い、金品や穀物を奪って窮民に分け与えました。幕府は近隣諸藩を動員して鎮圧させましたが、この大騒動によって大坂市内の家屋およそ一万戸が焼失しています。市内に潜伏した大塩らはまもなく隠れ家を襲われて自決しました。

この大塩の乱を契機として,越後では生田万の乱が発生するなど、各地で暴動が起こる不穏な時代が到来したのでした。

幕府を批判した学者が逮捕される「蛮社の獄」

蘭学を好む人々の集まりを蛮学社中といい、略して蛮社といいました。渡辺崋山・高野長英ら蘭学者たちは、非武装商船を砲撃したモリソン号事件を契機として、崋山は『慎機論』を、長英は『戊戌夢物語』を著し、世界情勢に無関心な幕政のあり方を批判したところ、崋山らは逮捕され、やがて自殺に追い込まれました。この事件は、蘭学が弾圧の対象となったことで、幕府内の守旧派と開明派との対立が明らかとなる事件でもありました。

水戸藩主・徳川斉昭が国防の強化を訴える

水戸藩主徳川斉昭は、天保十年、第12代将軍徳川家慶に「戊戌封事」と呼ばれる幕政改革の意見書を提出しています。その内容は、天保四年以来の凶作から天保の大飢饉が襲い、各地に一揆が頻発していることや、天保八年の大塩平八郎の乱やモリソン号事件など内外の事件を記し、国防の強化を訴えるものでした。斉昭は内外の難問が山積している状況を『春秋左氏伝』から引用した「内憂外患」という語で表現しています。

おわりのはじまりを辿って

こうしたことがあったうえで、嘉永六年(1853)にペリーが来るのです。幕府からすると「おわりのはじまり」ということになりますが、そこに至るまで、いくつかの重大な選択を過たずに妥当な判断をしていたら、いまとは違った歴史が紡がれていたことでしょう。よく「歴史にifは無い」といわれますが、「何が起きたか」を調べていくうちに、提案されながら実現しなかった事々を知ることもまた少なくありません。そのような「何が起きなかったのか」を知ることもまた歴史を知るうえで大事なことなのです。

書いた人

1960年東京生まれ。日本大学文理学部史学科から大学院に進むも修士までで挫折して、月給取りで生活しつつ歴史同人・日本史探偵団を立ち上げた。架空戦記作家の佐藤大輔(故人)の後押しを得て物書きに転身、歴史ライターとして現在に至る。得意分野は幕末維新史と明治史で、特に戊辰戦争には詳しい。靖国神社遊就館の平成30年特別展『靖国神社御創立百五十年展 前編 ―幕末から御創建―』のテキスト監修をつとめた。