「思えば大奥とは、女人たちの運命のるつぼでございました」
「大奥」と聞くと、そんなナレーションが流れるテレビドラマを思い出す方もいるかもしれません。江戸城の奥にある、将軍以外は男子禁制の女の園。ドラマではドロドロとした愛憎劇や人間模様が描かれますが、実際に陰謀めいた政治工作が行われたこともありました。幕末、その大奥に薩摩島津(しまづ)家から、将軍の御台所(みだいどころ、正室)として入ることになったのが篤君(あつぎみ)です。篤姫(あつひめ)、天璋院(てんしょういん)の名でも知られます。
篤君といえば、2018年の大河ドラマ『西郷どん』で北川景子さんが演じて話題になりましたが、何といっても2008年の大河ドラマ『篤姫』で、宮﨑あおいさんが好演した印象が強いかもしれません。2021年の大河ドラマ『青天を衝け』では、鹿児島県出身の上白石萌音さんが演じます。本記事では幕末の混乱を背景に、密命を帯びて大奥に入った篤君が、葛藤の末に選んだものを中心に紹介してみましょう。
▼大河ドラマ『篤姫』の原作
新装版 天璋院篤姫(上) (講談社文庫)
将軍家御台所を島津から
「島津斉彬(しまづなりあきら)に年頃の娘はあるか」
そんな問い合わせが幕府より薩摩の島津家にあったのは、嘉永3年(1850)のことでした。島津斉彬が藩主に就任するのは翌年なので、当時は世子(せいし、世継ぎのこと)という立場です。幕府の照会は、12代将軍徳川家慶(いえよし)の世子・家定(いえさだ)の正室を求めてのことでした。つまり、次期将軍の御台所を探していたのです。
幕府が外様大名である島津家に声をかけるのには、理由がありました。
27歳の家定が正室を迎えるのは、実はこれが3度目です。それまでに2度、京都から摂関(せっかん)家である鷹司(たかつかさ)家の娘、同じく一条(いちじょう)家の娘が輿入(こしい)れしましたが、いずれも早死にしてしまいました。家定は、今度は公家の娘ではなく、祖父の11代将軍家斉(いえなり)の御台所であった広大院(こうだいいん)のように、長命で、子孫が繁栄する(家斉は53人の子どもをもうけ、その中には広大院が生んだ子もいました)先例にあやかりたいと望んだのです。その広大院は、薩摩島津家の出身でした。
将軍家御台所候補の照会は、島津家にとってありがたい話です。実現すれば、外様ながら藩主は将軍の岳父となるわけで、実際、広大院が御台所だった時代には、幕府と島津家の関係も良好でした。しかし、問い合わせを受けた斉彬は困惑します。適齢期の娘がいなかったからでした。
斉彬は早くから洋学に関心を抱き、開明的な人物として知られていました。また水戸の前藩主・徳川斉昭(なりあき)や、老中の阿部正弘(あべまさひろ)らと親しく交わって、幕府からもその見識を深く信頼されています。このタイミングで徳川家と縁戚になれば、幕府内において斉彬の意見はさらに重みを増し、国許で進めている改革事業(近代化政策)も、さらにはずみがつくでしょう。斉彬にすれば島津家から将軍家御台所を送り込むこのチャンスを、ぜひとも成功させたいところでした。
そこで斉彬が選んだのが、島津家一門で今和泉(いまいずみ)島津家の当主・忠剛(ただたけ)の15歳の娘、一子(かつこ)です(当時は市〈いち〉と名乗っていたとも)。斉彬は一子を養女とし、名を篤姫と改めました。篤姫は広大院の島津家時代の名前であり、吉例に従ったのでしょう。そして幕府には実子として届けて将軍家御台所の候補とし、内諾を得ました。
養女となって6年後の婚儀
斉彬は篤姫について、次のような言葉を残しています。
「幼い頃より怒ったところを見たことがなく、不平不満をもらすこともない。寛大な心の持ち主と見える。軽々しいところがなく、温和で、人との応対も上手である。まことに将軍家御台所にふさわしい」
御台所候補として、斉彬が「これならば」と太鼓判を押すことのできる人柄だったのでしょう。
ただし、島津斉彬の実子であったとしても、そのまま島津家から輿入れすると、家の格式が将軍家御台所には不足しているといわれて、正室ではなく、側室である「御部屋様(おへやさま)」として扱われる可能性がありました。将軍家斉の御台所であった広大院は、そのため摂関家の近衛(このえ)家の養女となってから輿入れしています。篤姫も、この前例にならうことになりました。
篤姫は嘉永6年(1853)8月下旬に鹿児島を出立(しゅったつ)、途中、京都の近衛家に寄り、10月下旬に江戸の薩摩藩芝藩邸に到着します。同年6月には浦賀にペリーが来航し、7月に将軍家慶が他界、家定が13代将軍となりました。家慶の死去があったため、婚儀はしばらく延期となります。安政2年(1855)には婚儀を行うことが本決まりとなりますが、同年10月に安政江戸大地震が起こり、婚儀はさらに1年延期となりました。
安政3年(1856)、篤姫は正式に京都の近衛家の養女となり、称号を「篤君」、名前を「敬子(すみこ)」に改めます。本記事でも以下、篤君と呼ぶことにします。
同年11月11日、篤君はようやく江戸城に迎えられました。鹿児島を発ってから3年、島津斉彬の養女となってからは6年の月日が流れていましたが、篤君にとっては花嫁修業の時間であったかもしれません。そして12月18日、婚儀をあげます。時に家定33歳、篤君21歳。しかし、家定も篤君も、実はそれぞれに秘密を抱えての結婚でした。
家定が抱えていた問題
家定の秘密は生来の気質にかかわるものなので、別に本人が隠していたわけではありません。ただ、婚前の篤君にどこまで伝えられていたのかは、不明です。
家定は、12代将軍家慶の4男に生まれました。家慶には26人もの子どもがいましたが、皆病弱で、生きのびたのはなんと家定のみです。しかし家定もまた病弱なうえ、言語が不明瞭で、軽い脳性麻痺ではなかったかといわれています。そのためか、人前に出ることをひどく嫌いました。家定が心を開いて話ができたのは、生母の本寿院(ほんじゅいん)と乳母の歌橋(うたはし)、そして父・家慶のみであったといいます。
さらに「癇症(かんしょう)」の気質でもあり、ちょっとした刺激にもすぐに感情が激しやすく、父母の前でも眉間(みけん)に筋が入り、常に落ち着かない様子でした。その一方で、自ら調理する趣味があり、カステラなどの菓子や、炒り豆、ふかし芋などを好んでよく作ったといわれます。
こうしたことから家定は、「暗愚な将軍」というレッテルを後世貼られましたが、仮に脳性麻痺であったとしても知的障害はなく、最近ではむしろ頭脳は明晰だったのではないかという研究者の指摘もあります。ただ健常者にとっても重責の将軍職に就いて、しかも外国の脅威に対処しなければならない難しい日々は、病弱な家定の心身には重い負担であったことは間違いありません。篤君の夫・家定は、そんなさまざまな問題を抱えていました。なお大河ドラマ『青天を衝け』では将軍家定を渡辺大知さん、家定の父・家慶を吉幾三さん、乳母の歌橋を峯村リエさんが演じています。
篤君の容易ならぬ任務
一方、篤君が抱えていた秘密は、養父・島津斉彬からの密命でした。すなわち「家定を説得して、次期将軍を一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)にすることを認めさせる」というものです。
実は家定の父である12代将軍家慶も、病弱な息子に将軍職は荷が重すぎるので、英明な資質の一橋慶喜を後継者にと考えていました。慶喜は前水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の7男で、一橋家に養子に入っています。また慶喜の生母は、家慶の御台所の実の妹なので、慶喜は家慶の甥っ子にあたりました。家慶は聡明な慶喜を大変可愛がり、慶喜の慶の字も、家慶が与えたものでした。
しかし嘉永6年のペリー来航直後、家慶は後継者を明言しないまま病没。そのため従来の幕府のしきたり通り、世子の家定が13代将軍に就任します。ちょうど篤君が鹿児島から江戸に出て来る頃のことでした。
前述のように、篤君は江戸に来てから婚儀まで3年待ちますが、その間に政治情勢は大きく変化します。嘉永7年(1854)にペリーが再来航し、幕府は恫喝(どうかつ)に屈するかたちで日米和親条約を締結、開国に踏み切りました。老中阿部正弘(あべまさひろ)は、かねてより外国の脅威を訴えていた水戸の徳川斉昭を「海防参与」という役職につけて幕政に参加させ、福井藩主の松平慶永(まつだいらよしなが)や、薩摩藩主の島津斉彬らの意見も参考にしつつ、難局に臨みます。阿部をはじめとする面々は、病弱な将軍家定ではこの難局を乗り切るのは難しく、家定の後継者には一橋慶喜を立てるべきだというのが一致した意見で、このため彼らは「一橋派」と呼ばれました。
そうした中で島津斉彬は、家定に輿入れする篤君にも、一橋慶喜を後継者にするための援護射撃を求めたのです。斉彬にとって篤君の輿入れは、本来は幕府の求めに応じることで、幕府と島津家の関係を良化する目的がありましたが、ここにきて、より政略的な色彩を強めることになりました。しかし江戸城内、特に大奥には一橋派を快く思わない人々が多く、篤君の家定への内密な働きかけは、実は容易ならぬことだったのです。なお大河ドラマ『青天を衝け』では、一橋慶喜を草彅剛さん、阿部正弘を大谷亮平さん、徳川斉昭を竹中直人さん、松平慶永を要潤さん、島津斉彬を新納慎也さんが演じています。
御台所の1日
ところで、篤君が夫の家定を説得するにしても、将軍と御台所は城内の生活で、一緒にいる時間はどのぐらいあるものなのでしょうか。御台所の1日のタイムテーブルを簡単に紹介してみましょう。
7:00:起床・御中﨟(ごちゅうろう、御台所の世話役)の「お目覚めになってもよろしゅうございます」の掛け声で目
を覚ます
髪すき・御髪(おぐし)あげの御中﨟が寝たままの御台所の髪をすく
うがい、洗顔
入浴・「御湯殿」で湯桶につかる
朝食・「御休息の間」で髪結をさせながら食事をとる
化粧・「大納戸(おおなんど)」で化粧をする。最後に鉄漿(おはぐろ)をつける
朝お召し・お召し替えがすんだら、将軍の大奥入りを待つ
9:00:礼拝・「御小座敷」で将軍を迎え、ともに「御仏間」に入る
化粧・「大納戸」で化粧直し
朝の総触れ召し・朝の総触れ(将軍への謁見)に向けてお召し直しをする
10:00:朝の総触れ・奥女中を従えて「御小座敷下段の間」に行き、将軍を迎える。ともに「御清(おきよ)の間」で神 前に礼拝したのち、「御小座敷」で女中たちを引見
お昼召し・お昼に向けてゆったりとした服装になる
自由時間・「御休息の間」にて読書、茶の湯、生け花、琴、双六など好きなことをする
12:00:昼食・「御休息の間」で食事をとる
対面・「御対面所」で縁者などと会う
自由時間・それ以外は、午前の自由時間と同じようにして過ごす
14:00:将軍の御成り・「御小座敷」で将軍と歓談。お菓子なども出された
18:00:夕お召し・4度目のお召し替え
夕食・1人の場合は「御休息の間」で食事。将軍が奥泊りする際は、「御小座敷」の奥にある「蔦(つた)の間」で ともに食事をする
20:00:夜の総触れ・「御小座敷」で将軍とともに過ごす
21:00:お寝召し・最後のお召し替え(御台所は1日に5度のお召し替えがあり、多くの時間を割いた)
就寝・将軍が一緒の時は「御小座敷」に用意された床に入る。それ以外の場合は「御切形の間」で寝る
以上がおよその御台所の1日です。平常であれば朝、午後、夜に将軍と顔を合わせる機会があることになりますが、常に女中たちも同席していますので、その場での密談は難しいでしょう。唯一、将軍と御台所が二人きりになれるのは、将軍が奥泊りをした夜、ということになります。
そこで、家定はどのぐらいの頻度で奥泊りをするのかが問題になりますが、これについては元中﨟の女性が次のような証言を残しています。
「十三代様は、あまり御好みがございませぬから、御泊りが遠うございました。月に二度あったり一度あったり、よほど遠いのでございます。中﨟も、たった一人、お気に入ったのがございました」
病弱なこともあってか家定は奥泊りを好まず、月に1度か2度でした。証言に出てくるたった1人の気に入った中﨟とは、唯一の側室であったお志賀(しが)の方のことです。彼女は家定が篤君のもとに1度泊まれば、自分のもとには2度泊まらなければ収まらない気性だったらしく、そうなると篤君と家定がともに過ごす機会はさらに減って、ひと月からふた月に1度程度だったのかもしれません。篤君が斉彬から託された任務を果たすチャンスは、かなり限られていたといえるでしょう。
老女幾島と「反一橋派」
島津斉彬は、もちろん篤君にのみ大奥での困難な政治工作を託したのではありません。篤君とともに薩摩から5人の篤君付き女中が大奥に入りましたが、その中の1人に幾島(いくしま)がいます。幾島はもともと島津の姫が京都の近衛家に嫁いだ際、姫付きの女中となり、その敏腕ぶりから、姫の死後も近衛家が手放さなかった人物でした。斉彬はこのベテラン女中を篤君付きにし、篤君をサポートするよう大奥に送り込んだのです。
幾島は篤君付き老女となると、島津家から毎月仕送りされてくる政治資金を、大奥の有力者たちに気前よく配り、一橋派の味方につけようと図ります。その一方で、家定説得の糸口がつかめない篤君に対しては、時に叱咤激励も辞さず、強力に後押しをしました。幾島は顔にこぶがあり、女中たちは陰で幾島を「こぶ、こぶ」と呼びながら、その実行力を怖れていたといわれます。
しかしながら、大奥の「反一橋派」の意識は容易にはくつがえりません。家定の生母・本寿院も、その1人でした。本寿院は亡き夫・家慶の意向もあったとはいえ、世子の家定を差し置いて、13代将軍に一橋慶喜を推した者たちを激しく嫌っていたのです。また、一橋派の中心である前水戸藩主徳川斉昭の大奥での不人気も、大きく影響していました。斉昭はかつて水戸藩の改革において、質素倹約を重んじ、神道を尊重するあまり、寺院の破却を行っています。もし斉昭の息子である一橋慶喜が将軍となれば、将軍の父となった斉昭が大奥の倹約と、奥女中たちが重んじる仏事に口を挟むことは間違いなく、そのため大奥は、慶喜を後継者にすることを断固反対していたのです。
こうした状況の中、斉彬から託された任務を果たそうと、篤君は苦渋の決断をします。それは、なかなか2人だけで話す機会が得られない家定を直接説得するのではなく、「反一橋派」ではあるものの、姑(しゅうとめ)の本寿院の理解を得て、生母から家定に話をしてもらうという大きな賭けでした。
密命よりも大切なもの
嫁である篤君の申し出は、本寿院にすれば同意しがたい内容でしたが、それでも彼女は断らず、家定に伝えて、後継者についての意思を確認したといいます。対する家定の反応は、ある意味、至ってまっとうなものでした。それについて篤君が、島津斉彬に手紙で知らせています。
「家定様のお考えはどうかと思い、本寿院様に相談してお話しいただいたところ、家定様はことのほかご立腹になり、どうして大名がそのようなことを申し出るのか、自分は一橋(を後継にすること)が嫌だし、大奥の皆も嫌っているのだから、このことは叶えることができない。(中略)島津斉彬までこのようなことを申してくるのは、御台所(篤君)もいるというのに、将軍を侮っているようなものだ。どういう了見なのか、とひどくお腹立ちで、すぐに篤君に申しつけ、このことは認めないと斉彬に伝えるようにせよ、と言うのを本寿院様がお止めになり、御台所様がいらっしゃるからこそ、斉彬もこのような大事なことを、深く徳川家のためを思って申し上げたのでしょう(以下略)」
と、本寿院はとりなして、その後、家定の考えを私に伝えた、と篤君は記します。家定の気持ちを知った篤君は、「たとえお叱りをこうむったとしても、(上様の)御為のことなので、自分の身はいといません」と本寿院に訴えますが、「もっともなことだけれども、まずは控えなさい」と、これ以上の説得を制止されました。「大切な任務を承りながら、十分な働きができないことが残念で口惜しく、ご返事申し上げるにつけても面目なく存じます」と、篤君は密命が果たせなかったことを斉彬に詫びて、手紙を結んでいます。
しかしその一方で篤君は、夫の家定の怒りも、もっともなことだと感じていました。
家定はこの時、まだ30歳代前半の若さです。にもかかわらず、早々と後継者を決めろというのは、いわば家定を暗愚、無能と決めてかかっているのと同じことでしょう。それを妻や母の口から言われたら、どう思っただろうか……。家定の悲しみと孤独に、篤君は初めて気づいたのかもしれません。そして、この話は篤君が本寿院に持ちかけたにもかかわらず、家定はあくまで斉彬に対して立腹し、篤君についてはひと言も悪く言いませんでした。それが、むしろこんな役目を負わされた自分を気づかってくれているかのように、篤君には感じられたのです。
(私は間違っていたのではないか? 私が守るべきは密命ではなく、夫である上様ではないのか?)
以後、篤君は後継者問題を口にするのをやめました。そして、正面から夫・家定に向き合うようになります。
山の端の月
たとえば家定は、食べ物を調理して、女中や家臣にふるまうのを好みました。最初は将軍にはふさわしくない奇矯な行動と篤君には感じられましたが、やがてそれがただの遊びではないことに気づきます。家定は、他人を気づかうことのできる人物です。自ら作った食べ物をふるまうのも、普段自分の世話をしてくれている側近の者たちへの、家定なりのねぎらいの表現でした。元来、悪意のない、優しい心根の持ち主なのです。
そのことを悟った篤君は日々、家定との対面を喜び、あらゆる面で家定を支持、応援するようになりました。家定にとっての一番の味方、理解者となったのです。篤君の気持ちはすぐに家定にも伝わり、家定もまた篤君に会うことを楽しみにするようになりました。
家定と篤君の仲睦まじい様子を真っ先に喜んだのは、家定の生母・本寿院であったでしょう。後継者問題では篤君の訴えを制止した本寿院ですが、篤君が病弱な家定を支える存在となってくれたら、こんなに頼もしいことはありません。そして2人の間に世継ぎが生まれれば、後継者問題も一気に解決するかもしれないのです。
同じことを島津斉彬も考えていました。家定と篤君が良好な関係であることを聞いた斉彬は、後継者問題を性急に進めるのではなく、2人の若君の誕生を待つのもよい、と方針を変えたのです。
実際のところ、家定の奥泊りの際に篤君と夫婦の交わりがあったのかは、定かではありません。奥泊りの際、隣室には女中が控えているので、そのことがあればすぐに大奥に伝わったといいますが、そうした記録は残っていないようです。とはいえ、2人でゆっくりと語らう時間を持つことはできたことでしょう。当時、篤君が詠んだのであろうと伝わる歌があります。
立ち迷う 雲もそなたに吹き晴れて さやかに昇る 山の端(は)の月
いろいろな迷いや不安もありましたが、いまはあなたに向かって、そうした雲も吹き晴れて、私の心は山の端に明るく昇る月のようです、といった意味になるでしょうか。篤君と家定がしっかりと心を通わせていたことが感じられます。
そして篤君の変化は、大奥そのものを変えました。それまで「御台所様は一橋派の手先ではないのか」と身構え、よそよそしかった大奥の者たちが、篤君が渾身の力で家定を支える姿を見て、態度を一変させたのです。「御台所様は公方(くぼう、将軍のこと)様を懸命にお支えしようとしておられる。ならば我らは、御台所様をお支えせねばならぬ」。御年寄(おとしより)と呼ばれる大奥総取締役の滝山(たきやま)を筆頭に、一説に1,000人ともいわれる大奥の女中たちすべてが、篤君に忠誠を誓いました。これで篤君は名実ともに、大奥の頂点に立つ将軍家御台所となったのです。
慶喜と慶福
大奥のそうした変化の最中にも、時代は刻々と動いていました。篤君が家定と婚儀をあげた翌年の安政4年(1857)6月、老中の阿部正弘が死去。一橋派の1人で政治手腕を発揮していた阿部の死は、一橋派にとって大きなダメージとなります。
同年10月、アメリカ総領事のハリスが江戸城に登城、将軍家定に謁見して大統領の親書を手渡し、通商条約の交渉開始を求めました。この時、家定は短い沈黙のあと、自分の頭を左肩を越えて後方へぐいとそらし、同時に右足を踏み鳴らし、これが3、4回繰り返されたとハリスは記録しています。しかしながら家定は、自らハリスにこう伝えています。
「遥か遠方より使節をもって書簡の届け来たること、ならびにその厚情、深く感じ入り満足至極である。両国の親しき交わりは幾久しく続くであろう。合衆国プレジデントにしかと伝えるべし」
将軍が外国使節にかけるねぎらいの言葉として、見事なものでした。家定は障害を抱えていたにせよ、頭脳は明晰であったことがここからもうかがえるでしょう。重要なアメリカ使節引見を無事に終えた家定を、篤君も褒め称えたであろうことが想像できます。
また、将軍後継者問題(将軍継嗣問題ともいいます)は大奥では沈静化したものの、表の幕府内部では、一橋慶喜を推す一橋派と、それに対抗して、紀州徳川家の徳川慶福(よしとみ)を推す南紀派とが依然、にらみあっていました。そして、おそらくこの頃のことと思われますが、篤君は2人の後継者候補と、それぞれ対面する機会がありました。
まず一橋慶喜。かつて養父の島津斉彬の密命を受け、慶喜を後継者にすべく尽力した篤君でしたが、初対面の慶喜にあまりよい印象を抱いていません。幕臣の勝海舟(かつかいしゅう)は、のちにこう語っています。
「天璋院(篤君)はしまいまで慶喜が嫌いサ、慶喜はいい加減でウソばかりつき、女は何も分かりゃしないと言ったのが、ツーンと頭に来たのだ」
このコメントは初対面の印象だけでなく、その後の言動も含めてのことでしょうが、篤君は、初対面の時から慶喜の人柄の本質的な部分を鋭く見抜いていました。
一方の徳川慶福は、まだ12歳の少年でしたが、態度や話しぶりが誠実で、純粋なものが感じられ、篤君は好感を抱いたようです。もっとも、のちに自分が率先してこの少年を守り立てていくことになろうとは、さすがの篤君も予見してはいなかったでしょう。
そして、この対面と関係があったのかはわかりませんが、翌年1月、家定は重大な意思表明をします。自らの後継者の発表でした。
突然の死
安政5年(1858)1月16日、家定は自身の後継者について老中に内意を伝えます。すなわち後継者を徳川慶福にする、というものでした。家定はある夜、篤君にこう語ったといいます。
「もし、子あらば、我が子に家を譲りたし」
家定にすれば、我が子でない者を後継者指名することは、不本意だったのでしょう。篤君との婚儀から、まだ1年ほどしか経っていないのです。もう少し時間をかければ、あるいは……。しかし、政治状況がそれを許しません。一橋派と南紀派の対立が深まる中で、万一にも大嫌いな慶喜を推す一橋派が勝利することがあってはいけないと、家定は機先を制したのです。篤君もまた家定とともに悔しさを味わいながら、対面時の好印象もあり、慶福の後継者決定を全面的に支持しました。
同年4月、家定は老中堀田正睦(ほったまさよし)の「(一橋派の)松平慶永を大老(たいろう)に」という進言を退け、「家柄からも人物からも、大老は掃部頭(かもんのかみ)しかいない」として、井伊直弼(いいなおすけ)を大老に任じました。大老は老中の上に立つ役職です。家定の意を受けた井伊は、同年6月、後継者(次期将軍)が徳川慶福に決定し、家定の養子になったと公表します。ここに一橋派は完全に敗れ去りました。7月5日には、家定自ら一橋派の処分を発表しています。
それにしても後継者指名といい、井伊直弼の大老指名といい、この時、幕末史を左右する重要な決断を家定が自ら下し、幕政をリードしていたことに驚かされます。このことからも彼が暗愚な将軍どころか、明晰な頭脳の持ち主だったことがうかがえるでしょう。ところが……。
一橋派の処分発表を行った翌日、家定は突然城内で倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。享年35。まるで、一橋派に対する勝利を見届けたかのような最期でした。直前まで政務を執っていた夫の突然の死を、篤君はどのように受け止めたのでしょうか。結婚からまだ1年半、夫婦として互いにようやく心を通わせ始めた矢先のことでした。篤君が強い衝撃を受け、悲嘆に暮れたであろうことは容易に想像できます。
そんな篤君に、さらに別の訃報が届きます。養父・島津斉彬の急死でした。国許で調練中に倒れた斉彬は、数日後に逝去。篤君にとって斉彬は、自分を将軍家御台所候補とし、さらに後継者問題の密命を託した、良くも悪くも篤君の人生の方向性を決めた存在です。もちろん悲しみは強かったでしょうが、養父の期待とは別の道を選んだことへの、複雑な思いも混じったでしょう。
(家定様を失い、後ろ盾の養父もいなくなった。これからの自分の居場所は、どこにあるのだろうか)
そんな思いに篤君がかられたことも、あったのかもしれません。24歳の篤君は落飾(らくしょく)し、天璋院と称することになります。
母として、大奥の頂点に立つ者として
しかし、長く悲しみに暮れている暇は、篤君にはありませんでした。家定の死から3ヵ月余りのちの10月25日、13歳の徳川慶福が14代将軍に就任し、名を家茂(いえもち)と改めて江戸城に入ります。先代将軍家定の養子になっていた家茂にとって、家定の御台所である篤君は、義理の母にあたりました。そのため毎朝の総触れの際は、家茂は自ら篤君のもとに行き、挨拶をしたといいます。それはまさに母に対する子の礼儀でした。
初対面時の篤君の印象通り、家茂は少年らしい素直さと誠実さをそなえ、さらに人前でも臆することのない強さも持っていたようです。篤君が上に立つ者の心得を説くと、一つひとつうなずきながら吸収していきました。
(上様〈家茂〉は優れた資質を持っておられる。これは育て方次第で、一橋殿を上回る立派な公方様になるやもしれぬ)
篤君が何気なくそう思った時に、ふと耳元で、亡き夫・家定の声が聞こえたような気がしました。篤君は、我に返ります。
「そうか。家茂殿を、この難局を乗り越えていかれる公方様へとお育て申し上げることこそが、母たる私の務め。家定様は、それを私に託されたのですね。それならば、もはや何も迷うことはありません。私の生きる場所は、ここにしかないのですから」
これからの自分の生きる道に気づいた篤君は、大奥総取締役の滝山や老女の幾島、家定生母の本寿院ら、大奥の主だった者たちを集め、今後、自分は母親として家茂殿を立派な公方様へとお育て申し上げる覚悟であること、また大奥をあげてそれに協力してほしいことを呼びかけたことでしょう。もとよりそれは、大奥の誰もが望むことでもありました。ここに大奥は、家茂を育てる篤君を頂点に、再び結束することになるのです。
その後、篤君らの薫陶を受けて青年将軍となった家茂は、「公武合体」という幕府の方針で、孝明(こうめい)天皇の妹宮、和宮(かずのみや)を御台所に迎えることになります。この時、大奥の頂点である篤君と、宮家の和宮との対立が起きたり、また、新政府軍が江戸へ攻めてきた際には、篤君は徳川を守るために奮闘することになりますが、それらについてはまた、機会を改めてご紹介したいと思います。
まずは大河ドラマ『青天を衝け』で上白石萌音さんがどんな篤君を演じるのか、楽しみにしたいですね。