「いや西洋かぶれかよ?! まじめな顔してコーヒーなんて飲んで、ウケるんですけどwwwww」
……と、コーヒーを飲むことが嘲笑の的となった時代があったのを、ご存知でしょうか?
冒頭のセリフは、明治時代の流行歌「オッペケペー節」の一節を、現代語風(※筆者意訳)に言い換えたもの。
むやみに西洋鼻にかけ (中略) まじめな顔してコーヒー飲む おかしいね オッペケペーポーペッポーポー
※川上音二郎『オッペケペ節』より
西洋のものが珍しかった当時、コーヒーは日本人の味覚からかけ離れた異質な飲み物でした。当時の文献の中には、経験したことのない苦味を「まるでセンブリ(※胃腸薬)のようだ」と表現しているものもあります。
時代は流れ、今や日本は世界有数のコーヒー消費国となりました。カフェに入れば当たり前のようにコーヒーがあり、自宅や職場でコーヒーを楽しむ人も多くいます。
日本にコーヒーが普及した背景には、とある喫茶店の存在がありました。
その名は、「カフェー・パウリスタ」。明治44年に銀座で創業し、一時閉店を経て現在も銀座で営業を続けている、「日本における現存最古の喫茶店」です。
今回は、「カフェー・パウリスタ」が日本にコーヒーを広めた経緯や、同店に通った文化人のエピソードをたっぷりご紹介。
また、カフェー・パウリスタを運営する日東珈琲株式会社の代表・長谷川勝彦氏にもインタビューを敢行! 昭和以降の喫茶店文化の変化についてお話を伺いました。
きっかけは、ブラジル移民政策。「カフェー・パウリスタ」創業経緯
カフェー・パウリスタを創業したのは、「ブラジル移民の父」と呼ばれる水野龍(りょう)氏。1859(安政6)年、高知県に生まれ、18歳で上京。1888(明治21)年に慶應義塾を卒業した後は岡山県庁に勤務。その後政界に入り、板垣退助の自由民権派の闘士として活動した人物です。
水野氏は、明治時代に行われたブラジルへの日本人移民政策に尽力したことから、ブラジル・サンパウロ州政府よりコーヒー豆の無償提供を受けることに。これを機に、カフェー・パウリスタを創業しました。
当時の日本の時代背景も含め、パウリスタ創業までの流れをご紹介します。
ブラジル移民政策が行われた経緯
そもそもなぜ水野氏は、移民政策に尽力したのでしょうか?
水野氏は主に2つの理由から、ブラジル移住の必要性を感じていました。
ひとつは、当時の日本は人口増加により食糧難の危機に陥っていたから。そしてもうひとつは、日露戦争の帰還兵士から失業者が出ると予想されていたからです。
もともと日本では、働き口を求めた日本人たちのハワイ移住が盛んに行われていました。しかし、1898(明治31)年にハワイがアメリカ合衆国に併合されてからは、ハワイへの移民受け入れ数に制限がかけられてしまいます。
食糧難と失業者、この2つの問題を解消するため、日本政府は新たな海外移住先を模索していました。そして水野氏も、移住の必要性を説く論文を雑誌に寄稿したりと、移民事業の必要性を訴えていました。
そんな中、政府の通産局長だった杉村濬(ふかし)氏が、新たな移住先を検討するためにブラジルへ赴きます。杉村氏がブラジルからの帰国後に書いた報告書には、「ブラジルのコーヒー農園は日本人移民に好適である」「現地も日本人の入植を希望している」とありました。
ちなみに、なぜブラジルが移民受け入れを希望していたかというと、1862(文久2)年の奴隷解放宣言によりコーヒー農園で働いていた奴隷たちが解放され、農園の働き手が不足していたからです。
杉村氏の報告書を読んだ水野氏はブラジルに大いに興味を持ち、「現地をこの目で確かめてみたい」と思い立ちます。そして中日ブラジル公使や外務省との調整を経て、1906(明治39)年、ブラジル視察に向かいました。
水野氏は、サンパウロ州のコーヒー農園視察や州政府との会談を経て、先方が熱心に移民の受け入れを希望していること、ブラジルの国としての活気を肌で感じたことから、「移住先としてブラジルが最適である」との考えを強くしました。
水野氏はブラジル視察からの帰国後、『南米渡航案内』という冊子を執筆。移住先としてのブラジルを世間に広く紹介するとともに、移民事業を推し進めるために、皇国殖民合資会社を設立します。
なお、水野氏がブラジル視察に訪れた同年、ともに移民事業に尽力してきた杉村氏は病気で亡くなりました。この出来事も、水野氏が「移民事業を実現させなければ」と、よりいっそうの使命感を抱くきっかけになったようです。
1907(明治40)年、水野氏はサンパウロ州と日本移民輸送契約を正式に調印。ブラジルへの移民希望者を募集し、翌年初のブラジル移民船「笠戸丸」を出港させました。
以降、約100年にわたり、多くの日本人がブラジルへ移住し、コーヒー農園で働くこととなります。
当時、日本人移民を取材したあるブラジルの記者は「日本人の礼儀正しく友好的な態度に驚いた」との言葉を残しており、日本人移民はブラジルに好意的に受け入られました。
しかし、実際にコーヒー農園で働く日本人たちの住環境や労働環境は、過酷なものだったそう。水野氏は、ブラジル移民の環境改善にも力を尽くしました。
コーヒー豆無償提供を受け、カフェー・パウリスタを創業
ブラジル移民政策に尽力した水野氏は、ブラジル・サンパウロ州政府からコーヒー豆の無償提供を受けることになりました。
水野氏は移民事業でかなりの赤字を被っており、その補填のため……というのが理由のひとつ。加えて、「コーヒー豆の生産過剰」というブラジル側の事情もありました。
当時のブラジルは、世界シェア50%以上を誇るコーヒー生産国。しかし生産過剰により、収穫したコーヒー豆をすべて市場へ出せば、世界的にコーヒー豆の価格が暴落してしまう状況にありました。
価格暴落を防ぐため、1906年にサンパウロ・ミナスジェライス・リオデジャネイロの3州によって「タウバテ協定」が結ばれ、コーヒー豆の供給量はコントロールされることに。
ちょうどその時期にブラジルへやって来たのが、日本人移民を引き連れた水野氏です。
移民事業の赤字補填も兼ねて、倉庫に保管してある使い道のないコーヒー豆を水野氏に無償で提供し、コーヒーを飲む習慣がまだない日本に広めてもらおう。サンパウロ州政府はそう考えました。
こうして水野氏は、1912(大正1)年から12年間、合計846トンものコーヒー豆の無償提供を受けることになります。
しかし、当時の日本で嗜好飲料といえば、汁粉やゆであずき、甘酒など。
従来の日本人の味覚からかけ離れた「コーヒー」という飲み物を、どのようにして広めればいいのか——?
水野氏は大隈重信の後押しを受けつつ、コーヒーの販売方法や普及策を検討。そして、コーヒーの宣伝所として1911年(明治44)年12月12日に銀座の地に誕生したのが、「カフェー・パウリスタ」です。
パウリスタはポルトガル語で「サンパウロっ子」。コーヒーの樹と果実で囲んだ星の中に女王の横顔が描かれたカフェー・パウリスタのトレードマークは、サンパウロ州の紋章を模しています。
水野氏はブラジルに移住し、言葉も通じない環境で苦労しながらコーヒー農園で働いている日本人を思い、コーヒーを「第二の国産品」と考えていました。コーヒーの普及を通じてブラジル移民の苦労に報いると同時に、日本人の食生活を豊かにし、日本文化の向上につなげたい。水野氏はそう考え、コーヒーの普及に力を尽くします。
日本人の多くは「カフェー・パウリスタ」で本物のコーヒーを知った
日本一の大男が街を練り歩く! 革新的な宣伝活動の数々
「鬼の如く黒く、恋の如く甘く、地獄の如く熱きコーヒー」。これは、創業当初のカフェー・パウリスタのキャッチフレーズです。
この言葉は、フランスの外交官タレーラン・ペリゴールのコーヒー賛辞「悪魔の如く黒く 地獄の如く熱く 天使の如くきよらかで 愛の如く甘く」を模したフレーズだそう。
コーヒーを、そしてカフェー・パウリスタの存在を広めるべく、水野氏は宣伝活動に力を入れます。新聞や雑誌に積極的に広告を掲載したほか、「日本一の大男を募集!」という企画で当選した身長180cmの青年に、シルクハットに燕尾服、白手袋をつけさせ、街頭でコーヒーの試飲券を配るなど、かなり奇抜な宣伝活動も行いました。
また一般家庭へのコーヒー普及に向けて、アイスコーヒー用の「コーヒーシロップ」や缶入りコーヒー(粉)を開発。コーヒーを淹れる器具とともに販売し、配達も行ったそう。博覧会や学校の文化祭などに出張して、コーヒーの試飲会を催すこともありました。
1日4,000杯!カフェー・パウリスタは大繁盛
カフェー・パウリスタは、パリの「カフェー・プロコープ」(パリに現存する最も古いカフェ)を参考に作られました。
3階建ての白亜の洋館へ一歩足を踏み入れると、その先には、北欧風のマントルピースがある広間が広がっています。白大理石のテーブルにロココ風の椅子が置かれ、店内はなんとも豪華な雰囲気。そこへ、海軍の下士官風の白い制服を着た美少年給仕が銀の盆を携え、美しい白陶のカップになみなみと注がれた、本格的なブラジルコーヒーを運んでくる……。
当時はまだ西洋文化は珍しく、「トマトを食べると発狂する」「写真を撮ると魂が抜かれる」と考える人もいたほど。そんな時代に登場した西洋風の喫茶店に、人々は度肝を抜かれました。
他店では1杯30銭ほどで出していたコーヒーを、カフェー・パウリスタでは1杯5銭で提供しました。当時は「もり、かけ、銭湯3銭」(もり、かけ=もりそば、かけそば)の時代。5銭は、一般市民でも十分手が出せる金額です。
誰でも5銭出しさえすれば、豪華で文化的な雰囲気の店内で、西洋のハイカラな飲み物・コーヒーが飲めるとあって、カフェー・パウリスタは一気に評判になりました。多い時には、1日4,000杯ものコーヒーが出たのだとか……!
パウリスタのテーブルには砂糖が入った大きな壺が置かれており、好きなだけコーヒーに入れられるようになっていました。従来の店では砂糖を入れる際には追加料金が必要だったため、この点も人々を驚かせました。
客の中には、コーヒーを注文せずに水を飲み砂糖を嘗めつつ店内でくつろいだ上、砂糖を紙に包んで持ち帰る者も少なくなかったのだとか……(笑)。
本来は注意されるべき行動ですが、あまりに店が繁盛していたため従業員も注文していない客を把握しきれず、こんな事態が起きてしまったようです。
明治〜昭和初期の銀座を詳細に記録した『銀座細見』の著者・安藤更正氏によると、カフェー・パウリスタ登場以前は「コーヒーといえば角砂糖の中へ豆を焦がしたような粉を少しばかり入れた奴」だったそう。
安藤氏は、「日本人がコーヒーについてカレコレ言えるようになったのは、何といってもこのパウリスタのお蔭である」とも記しています。
カフェー・パウリスタを愛した文化人たち
当時の銀座は、新聞社や雑誌社が集まったマスコミの街だったことから、カフェー・パウリスタには多くの文化人が足を運びました。その一部を紹介します。
芥川龍之介・菊池寛は、打ち合わせでカフェー・パウリスタを頻繁に利用
カフェー・パウリスタの向かいには大手新聞社・時事新報社がありました。
文藝春秋を立ち上げた文壇の大御所・菊池寛は時事新報社に勤めており、作家との打ち合わせでよくパウリスタを使っていたそうです。一日に5〜6杯のコーヒーを飲んでお腹をダブつかせていた……なんてエピソードもあります。
菊池寛を最も多くパウリスタに呼び出したとされているのが、芥川龍之介です。
芥川の小説には度々パウリスタが登場しますが、これは芥川が菊池に原稿を渡す際に、パウリスタを利用していたからです。
アイルランド人の友人との交流を書いた芥川の小説『彼 第二』の中から、パウリスタが登場する一節を引用します。
ある粉雪の烈しい夜、僕等はカッフェ・パウリスタの隅のテエブルに座っていた。その頃のカッフェ・パウリスタは中央にグラノフォンが一台あり、白銅を一つ入れさえすれば音楽の聞かれる設備になっていた。その夜もグラノフォンは僕らの話にはほとんど伴奏を絶ったことはなかった。
「ちょっとあの給仕に通訳してくれ給え。誰でも五銭出す度に僕はきっと十銭出すからグラノフォンを鳴るのをやめさせてくれって。」
「そんなことは頼まれないよ。第一他人の聞きたがっている音楽を銭ずくでやめさせるのは悪趣味じゃないか?」
「それじゃ他人の聞きたがらない音楽を金ずくで聞かせるのも悪趣味だよ。」※芥川龍之介『彼 第二』より
「僕」とアイルランド人の友人が、雪の夜に2人でパウリスタへ行ったシーンです。
グラノフォン(グラモフォン)=蓄音機のこと。当時のパウリスタには、5銭白銅貨を入れると好みの曲が聞ける自動ピアノが置かれていたそうで、お金を入れると蓄音機から音が流れ出るシステムになっていたのかな……? と推察されます。
サブスクサービスがある今はスマホ1台で音楽聞き放題ですが、当時は音楽を聞く機器を個人で持つ人はそう多くありませんでした。
名曲喫茶が本格的に流行るのはもう少し先の時代(1950年代)ですが、もしかしたらパウリスタは「音楽を聞く場所としての喫茶店」の起源とも言えるかもしれません。
森鴎外、永井荷風など『三田文学』の面々の溜まり場だった
1910(明治43)年、永井荷風が編集主幹となって創刊された文芸雑誌『三田文学』。カフェー・パウリスタは、荷風を始めとする『三田文学』の面々の溜まり場でした。
『三田文学』は、森鴎外、谷崎潤一郎、芥川龍之介などすでに活躍している作家の作品発表の場でした。そして、久保田万太郎、水上瀧太郎、佐藤春夫など新たな才能を世に送り出したことでも知られています。
小説家・広津和郎の自伝的文壇回想録『年月のあしおと』から、当時のカフェー・パウリスタの光景が窺える一節を引用します。
その頃、今の交詢社のあるところに時事新報があり、その前にパウリスタはあった。珈琲だけを専門に飲ませる店として東京で一番最初に出来た店だったので、そこに腰をかけていると、いろいろな人が入ってきた。永井荷風の姿をよく見かけた。鼻眼鏡をかけた佐藤春夫にはじめて会ったのもそのパウリスタの二階であった。
※広津和郎 『年月のあしおと』より
『三田文学』は、慶應義塾大学の文学科を中心に刊行されてきた文芸雑誌です。創刊に携わった森鴎外、編集主幹の永井荷風は文学科の教授を務めており、彼らに感化された慶應義塾の学生の多くが、カフェー・パウリスタに通いました。
慶應義塾大学出身で『三田文学』のメンバーでもあった小説家・佐藤春夫は、授業をサボって毎日カフェー・パウリスタに通い詰めていたそう。『詩文半世紀』に当時の様子を記しています。
公園(註:芝公園)のどこかで一休みすると、我々の足は申し合わせたように一斉に自然と新橋の方面に向かい、駅の待合室で一休みしつつ旅客たちを眺めたのち、「パウリスタ」に行ってコーヒー一杯にドーナツでいつまでも雑談に時をうつしていると、学校の仲間が追々とふえてくる。
みな正規の授業をすました上級生たちである。後年パリでエッチングの名家となった長谷川潔の、若い美しい妓とさし向いで人目につかぬ片隅に居るのを見かけたこともあった。芝公園を出て新橋駅待合室経由パウリスタというものが、我々の定期行路となっていた。
※佐藤春夫『詩文半世紀』より
ちなみに、当時カフェー・パウリスタがあった「京橋区南鍋町2-13」は、現在の住所でいうと「中央区銀座7-7-1」にあたります。Googleマップで調べたところ、芝公園からは約2.3km、徒歩で約30分かかるようです。
散歩がてら銀座のパウリスタに向かい、芸術談議に花を咲かせる文化人たちを横目にコーヒーとドーナツを堪能……。当時の大学生が羨ましい!!
カフェー・パウリスタの、これまでとこれから。日東珈琲代表インタビュー
カフェー・パウリスタは銀座を始め、福岡・神戸・名古屋・道頓堀など全国に喫茶店を展開していきました。
しかし1923(大正12)年の関東大震災で、銀座店は大きな被害を受けます。また同時期に、サンパウロ州政府からのコーヒー無償提供の期間が終了。これを機に、喫茶店をすべて閉店し、コーヒー豆の焙煎・卸業に舵を切りました。
その後、第二次世界大戦の影響によりコーヒーの輸入が禁止され、日本のコーヒー文化は一時途絶えます。
しかし、1950〜60年代ごろから起こった喫茶店ブームにより、一般市民が日常的にコーヒーを飲む文化が再び生まれました。
現在、銀座に店舗を構えるカフェー・パウリスタは、1970(昭和45)年にオープンした店舗です。カフェー・パウリスタを運営する日東珈琲株式会社代表・長谷川勝彦氏に、1970年以降のカフェー・パウリスタについてお話を伺いました。
※補足・社名について
戦時中、敵国の言葉として外来語が制限されたため「株式会社カフェーパウリスタ」は社名を現在の「日東珈琲株式会社」に変更。
——喫茶店をすべて閉店し、卸売業にシフトした後のことを教えていただけますか?
長谷川勝彦氏(以下「長谷川」):卸売業にシフトしたあと、戦前〜戦中は、ホテルや軍などへコーヒー豆を卸していました。
戦後、コーヒーの輸入が解禁されたあとは、コーヒーは割り当て制になったんです。「割り当て」は戦前にどのくらいの量のコーヒー豆を買っていたかによって決まり、割り当てに応じて、政府が一括で仕入れたコーヒー豆が各企業に割り当てられました。当社は割り当てを多く持っていたので、コーヒーを扱う店の多くは、当社から仕入れを行っていました。
——1970(昭和45)年に、現在も銀座で営業を続けている「カフェー・パウリスタ」を再オープンされた理由を教えてください。
長谷川:「カフェー・パウリスタ」を再開したのは、代表を務めていた祖父が亡くなり、父が会社を継いだタイミングです。
卸売業は黒子的な存在。有名ホテルや喫茶店など、多くの場所で当社のコーヒーを扱っていただいていますが、それが当社のコーヒーだとお客様に伝わることはありません。
当社のブランドを再考する中で、一般のお客様に向けた小売を考えた時に、やはり喫茶店は必要なのではないか? と考え、「カフェー・パウリスタ」の再建を決めました。
——大正期のカフェー・パウリスタは多くの文化人に愛されてきましたが、1970年の再オープン後にも著名人が訪れたことはありますか?
長谷川:1978(昭和53)年に、ジョン・レノンとオノ・ヨーコ夫妻が3日続けて来店されたことがありました。
プライベートで訪れているお客様にサインをお願いするケースはほとんどないのですが、3日連続で来てくださったこともあり、当時の店長が思い切ってサインをお願いしたんです。
すると快く引き受けてくださり、パウリスタのカップ&ソーサーに、連名のサインを書いていただけました。
——3日連続で来店されたなんて、よほどパウリスタさんのコーヒーが気に入ったんですね!
長谷川:ええ、ありがたいことです。3度とも「パウリスタオールド」を注文されていたので、もしかしたらお2人とも苦くて濃いコーヒーがお好みなのかもしれませんね。
それと、後日談があって……翌日、サインしていただいたカップ&ソーサーを入口に飾っていたら、その日の午後に若い青年がやってきて「このセットを300万円で売ってください」と言ったんです。店長は「そんなに価値があるものなのか?!」と驚き、万が一盗まれてしまったら困るからと、展示をやめました。
現在、店舗にはサイン入りカップの写真を展示していて、カップの現物は本社に保管してあります。
——銀座の地で長らく喫茶店を経営してきた中で、何か変化を感じることはありますか?
長谷川:喫茶店の使われ方の変化を感じますね。昔は仕事で喫茶店を使う方が、非常に多かったんです。会議の場所として喫茶店を使う会社も多かったですし、営業先に行く前には必ず喫茶店に立ち寄り、客先から帰ってきても会社に帰る前にまた喫茶店で一服する……なんて方も、けっこういらっしゃいましたね。
会社にコーヒーの出前をすることもあったんですよ。昔は重要なお客様がいらっしゃる会議では、喫茶店のコーヒーを出す会社が多かったんです。コーヒーとあわせて、パウリスタのカップも一緒にお持ちしていました。
——会社でコーヒーの出前を取る文化があったんですね、知りませんでした……!
長谷川:あとは、個人経営の店が減りチェーン店が増えたのも、大きな変化だと感じます。従来の日本にない「チェーン」の考えがアメリカから入ってきたことで、日本の外食産業や喫茶店業界の様相は、大きく変わりました。
チェーン店の良さは、どの店でも一定のクオリティが担保されている安心感です。私自身も、仕事で地方へ行った際など、行き慣れたチェーン店に入ることはよくあります。
——確かに、チェーン店は安心感がありますよね。
長谷川:しかし、口コミサイトやSNSの登場により、再び状況は変化しました。
店内の写真やメニューの内容、味の感想など、従来は店に入ってみなければわからなかった情報が事前に調べられるようになり、個人店にもスポットが当たるようになったんです。
これは、画一化に対するアンチテーゼのようなものなのかもしれない……とも感じています。
——日本にコーヒーを普及させ、喫茶店文化を築いたカフェー・パウリスタの、今後の展望を教えてください!
長谷川:当社は、ブラジルコーヒーの宣伝・販売所としてスタートしました。今後もブラジルコーヒーの素晴らしさを、日本に広めていきたいと考えています。
創業者の水野氏がコーヒーの普及活動に力を尽くしたのは、言葉も通じないブラジルの地で、日本人が苦労して作っているコーヒーを「第二の国産品」と考えたからです。その思いを引き継ぎ、今もブラジルコーヒーにこだわっています。
コーヒーは農作物なので、場所や環境によって味わいは変わります。ブラジルでは幅広い場所でコーヒーが作られていて、ひとえに「ブラジルコーヒー」と言っても、その味わいには多様性があるんです。そこが大きな魅力ですね。
——創業時から変わらず、ブラジルコーヒーへのこだわりを持ち続けていらっしゃるんですね。
長谷川:現在のカフェー・パウリスタの主力商品「森のコーヒー」は、創業時から掲げている「生産者とお客様の架け橋になる」というパウリスタのスピリットを、新しい形で表現したい思いから生まれたものです。
一般的なコーヒー農園では、森を切り開きコーヒーだけを植えます。しかし「森のコーヒー」は、あえてコーヒー以外の植物をそのまま残し、自然な生態系を保つことで、農薬や化学肥料を使わずに、コーヒーを栽培しています。
自然農法により作られたコーヒーは自然な甘みと深い味わいがあり、ブラジルコーヒー本来の魅力に満ちています。「カフェー・パウリスタ」を通じて、安心安全でおいしいブラジルコーヒーを、これからもたくさんの人に届けていきたいですね。
以上、日東珈琲代表・長谷川勝彦氏のインタビューをお届けしました。
日本にコーヒーを広め、喫茶店文化の礎を築いたカフェー・パウリスタ。時代を経ても多くの人に愛されるのは、歴史を大切にしてブランドを守りながらも、新たな挑戦を続け、お客様へ価値を提供し続けているからなのかもしれません。
普段何気なく口にしているコーヒーにも、歴史あり。
鬼の如く黒く、恋の如く甘く、地獄の如く熱きコーヒーの奥深い魅力に、あなたもハマってみませんか?
※参考文献
『日本で最初の喫茶店「ブラジル移民の父」がはじめたカフエーパウリスタ物語』長谷川泰三
『喫茶店の時代』林哲夫
『銀座細見』安藤更正
『彼 第二』芥川龍之介
※補足
「慶應義塾大学」の表記について、「大学部」「大学科」と時期により名称が異なりますが、本稿では「慶應義塾大学」に統一しています。