海の帝国、イギリスの脅威
19世紀における世界第一等の海軍はイギリス海軍です。イギリスはスペイン無敵艦隊に勝利して以来、海の覇者となり、中東からインド、東アジアにまで海上交通網をめぐらせていました。
海の貿易路は本国に莫大な富をもたらす、まさにイギリスの至宝でした。ことに清国向けの阿片を運ぶインドから太平洋への航路は巨額の利益を産みました。麻薬を運ぶイギリス商船は常に危険にさらされており、それら商船を守るため、イギリス海軍は東洋艦隊を編成していました。
誰もが世界最強と認めるイギリス海軍が、東洋艦隊を日本に派遣したのは、横浜近郊で起きたイギリス人殺傷事件(生麦事件)の賠償問題を解決するためでした。実際には解決どころか戦争になり、東洋艦隊も損害を受けて撤収するような事態に発展しましたが、それがきっかけとなって、のちに明治新政府とイギリスとが友好関係を結ぶようになるという、実に奇妙な展開を見せています。
まぎれもない砲艦外交
イギリスは清国で公然と阿片を売り、清国側がそれを咎めれば戦争という手段に訴えました。そういう相手であるイギリスから、生麦事件に対して強硬な態度で抗議が申し入れられたのは言うまでもありません。これに対して、薩摩藩はまったく責任を認めませんでした。薩摩藩に対する賠償要求とは別に、イギリスは幕府へも賠償を求めましたが、幕府としても謝罪して賠償金を払うべきかについては異論百出でした。結局のところ、外交を担当していた老中の小笠原長行が独断で賠償金を払ってしまい、薩摩藩が謝罪するかどうかはイギリスが直接、薩摩藩と交渉することとしました。
幕府は一部とはいえ薩摩藩に直接交渉させることで、国の中央政府としての責任を回避しています。それによって諸藩の自治権が強固なため、幕府の支配が日本全国に及んでいないことを国際社会に露呈してしまいました。こうして、戦争になりかねない難しい外交問題が薩摩藩に委ねられたのです。
当然、イギリスは薩摩藩にも謝罪と賠償金を要求しました。しかし、薩摩藩は殺害の実行者を隠匿するなどして調査にも応じませんでした。幕府とは異なった強硬姿勢です。
交渉が難航したため、ついにイギリス側は東洋艦隊を薩摩へ派遣することにしました。まぎれもない砲艦外交です。
薩摩藩の戦備
来るなら来て見ろと言わぬばかりの薩摩藩でしたが、口先だけではありません。戦争に備え、様々な準備をしていました。
薩摩は砲術に関しての先進地域です。さぞかし砲台の強化に力を注いだろうと思うのは早計で、陸上で運用する山砲や野砲では、艦載砲の射程には及ばないことがわかっていたので、砲台にはあまり期待をかけていませんでした。それでも鹿児島城下には11の砲台が設けられ、合計89門の砲を据えました。
大砲の数は揃っても、弾が届かなければ仕方ないことです。射程は艦砲の方が長いので、東洋艦隊は陸上からの砲撃が届かない沖合から攻撃してくると仮定したうえで、様々な対応策が検討されています。
まず第一に着目すべきは電気水雷の開発です。瓶(かめ)に火薬を詰め込み、それを木箱に納めて海の上に浮かべるのです。接触信管がないので、沿岸から目視で敵艦の接近を確認し、なんらかの方法で起爆装置を作動させる必要がありました。陸上の地雷なら導火線で点火するのが確実ですが、海上に浮かべる水雷は導火線の火が消えてしまうから無理です。そこでエレキテルの電極を使って、電気火花で点火することにしました。恐ろしく長いコードを作る必要があり、その防水処理と暴発防止の絶縁処理に、かなり苦心したことでしょう。
第二に、決死隊の斬り込み作戦です。横浜で黒船の水兵たちを観察したところ、甲板掃除をする時にも常に顎を動かしていました。たぶん、噛みタバコだと思いますが、薩摩藩士らは物を食べていると考えました。そんなにしょっちゅう食べてばかりいるのだから、きっと大食漢の集まりに違いない。また、ずいぶん人慣れした様子で、小舟が近づくと手を振ったり、警戒心が乏しかったというのです。陽気な水兵が乗っていたのはアメリカの軍艦ではないかと思います。イギリス東洋艦隊は白く塗装されており、黒船ではないからです。
ともあれ、以上の情報から、なにか食物を見せながら小舟で接近すれば、必ずや乗船させるであろうから、斬り込みは可能であると結論して、正式に計画されました。
物売りに変装して斬り込みを仕掛けても、軍艦には小銃を持った警備兵がいますから、決死隊の生還は期しがたいです。決死隊には主に禁固刑を受けていた政治犯が配属されました。彼らは全員が攘夷派で、外国人に敵愾心を燃やしていたので適任ですし、死んでくれれば処刑する手間も省けて一石二鳥というわけです。私事で恐縮ながら、筆者の曾祖父、大山弥介(のちの巌)は当時の政治犯で禁固刑を受けており、決死隊に配属されたなかの一人でした。
第三に、欧米人の生活習慣に着目した、格闘戦の研究です。すべての欧米人は足に靴を履いており、その靴には例外なく作り物の踵がついています。また、寝る時と入浴する時以外は常に靴を履いたままで、それは靴なしに歩行することが不可能だからだと考えました。だとすれば、靴の踵を切り落とすか、靴を脱がせてしまえば容易に生け捕ることができるのではないかといったことを、これも大まじめに検討されたということです。ただし、靴を脱がせる軍事教練をやったことは史料に見当たらないので、検討にとどめられたようです。
延々と続く予備交渉
薩摩藩が砲台を構え、さらに三つの秘策をも準備万端整えた文久3年6月27日(グレゴリオ暦1863年8月11日)午後2時、イギリス東洋艦隊の軍艦7隻が鹿児島湾に入りました。このとき生麦事件から一年近い時を経ています。
東洋艦隊の目的は、軍事的恫喝を伴う砲艦外交で、艦隊派遣が即座に戦争を意味するわけではありません。
この頃の海軍には大航海時代の名残があり、冒険航海も任務のうちでした。未知の海域を冒険し、交易ができそうな港や、捕鯨基地に適した島などを探し、入り江の水深を測るなどして海図を作り、民間船舶の安全な航行に寄与しました。イギリス東洋艦隊もまた、そのような測量技術を持つ、伝統的な艦隊でした。
六月二十八日(八月十二日)午前七時、英国艦隊は谷山郷沖を抜錨し、小艦を先頭として、水深を測りながら、神瀬と天保山(砂揚場)中間を過ぎ、進みて前之浜沖に来り、鹿児島城下の前面千二百「ヤード」の所に、旗艦を中央に単縦陣を張つた。(『元帥公爵大山巌』第五章「薩英戦争と決死隊」より)
彼らは錦江湾に入るとすぐ水深を測り、海図を作りはじめました。なおかつ小さい順に縦一列に並び、座礁事故の被害を最小限にするための措置をとりました。
こうした測量は戦争準備のためでもあります。海岸にどれだけ接近できるのか、砲撃戦を展開する際にも重要な問題でした。
こうして双方とも戦争を辞さない態度を示しながら、同時にイギリス側から交渉の議題が提示されるなど、書面による予備交渉が行われてもいました。
薩摩藩は交渉の席を用意しており、その会見場でニールを殺害する手はずになっていました。軍使の首を以て挑戦状に替えることは、古来、東洋における戦の作法でした。言葉の通じない相手に対しても、挑戦の意思は明確になりますからね。
言葉は通じなくとも、薩摩藩の殺気は通じていました。ニールは上陸を拒否し、薩摩藩の使節を乗艦させるよう要求、それではせっかくの趣向が無駄になるので薩摩藩も乗艦を拒否、仕方なく、書簡の往復で少しずつ交渉が続けられていました。
西瓜売り決死隊出動
ちまちまとした予備交渉が続くなか、たくさん西瓜を載せた小舟が、東洋艦隊の各艦に接近していきました。小舟に乗った屈強の薩摩兵児たちは、西瓜売りに変装した決死隊です。
久光、茂久二公は、決死隊総員を二之丸に召して謁を賜ひ、懇ろに慰諭せらるゝ所あり、且つ賜ふに酒肴を以てして、其の行を壮ならしめられた。衆皆感激して退き、演武場に会合して、更に実行の順序方法を熟議したのである。それに依れば、一同は身を商賈に扮し、盛夏三伏の候であるから、西瓜其の他の果物、並に鶏卵魚肉等を小船に積み、各艦に漕ぎ寄せて之を与へ、陸上よりの号砲を合図に艦内に闖入し、縦横奮撃して英人を殪し、悉く七艦を奪ひ取らうといふのである。(『元帥公爵大山巌』第五章「薩英戦争と決死隊」より)
藩主父子の激励が行われるなど、当事者は大真面目なのでしょうが、現代人から見れば喜劇にほかなりません。
二艘の小船が旗艦の艦側に達して、西瓜を与へんとし、彼れは無用なりとし、互に手真似で示してゐる時、年少なる通弁の「シーボルト」が甲板上に出で来り、何の用向かと尋ねるから答書を持つて来たのだと告げると、通弁は直に甲板下に去り、暫くして再ぴ出で来り、答書を持参する者だけ一人艦上に登れと言つて梯を下したから、言下に一人が登つた。(『元帥公爵大山巌』第五章「薩英戦争と決死隊」より)
手真似でも「西瓜は要らない」のは通じたようでしたが、書面での交渉が続いていましたから、回答書を持参した日本人だけは、乗船させねばならぬ理由がありました。
通弁は足下答書を持参するかと問ひ、否と答へる。又一人が登つた。足下答書を持参するか、否と答へる。斯くして又一人、二人、三人、四人と続々登るので、彼は大に怒つて其の登り来るのを遮つた時、奈良原喜左衛門が丁度登つて来て「シーボルト」に向ひ答書を持参する者は島津侯の一門であるから、多少の従士を率ゆるは礼である、何うして唯だ一人で遣はすことが出来るかと釈明したので彼は又甲板下に去つた。想ふに事情を艦長に告げたのであらう、暫くして彼は数人の士官と共に再ぴ出で来り頗る激したる語気で、諸君悉く登艦して宜しいと言つた時には、既に大抵登艦の後であつた(『元帥公爵大山巌』第五章「薩英戦争と決死隊」より)
こうして東洋艦隊旗艦ユリアラス号には、40人ほどの西瓜売りが乗り込みましたが、他の6艦に向かった西瓜売りは、乗艦を拒絶されていました。
旗艦以外の六艦に向つた勇士は、登艦を許されないで、其の小船は空しく艦側を徘徊してゐるから、一斉に決死隊の斬込み計画を施すの術がない。是に於て止むを得ず使者を旗艦に遣り、答書に誤謬の点があるから持ち帰れと命じた。奈良原、海江田を始め元帥等は、髀肉の歎に堪ヘなかつたのであるが、亦奈何ともすることが出来ないので、命に応じて引上げ、他の六艦に向つた小船も、之を見て相共に帰途に就いた。(『元帥公爵大山巌』第五章「薩英戦争と決死隊」より)
斬り込むのが一艦のみでは、たとえ艦を乗っ取ったとしても、他の6隻から砲撃されて撃沈は免れないところです。それでは無駄死なので、「回答書に不備がある」として引き揚げが命じられ、斬り込みは中止されました。
薩摩側から提示された回答書の内容は、ほぼ挑戦状といえる内容でした。リチャードソンを斬った1人に対する死刑要求には、被疑者が行方不明であるという理由で拒絶、また、通商条約に大名行列を妨害してもかまわないという項目は存在しないので、かえってリチャードソンの方が犯罪者であると主張しています。
イギリス側から、誰でもかまわないからハラキリするようにという示唆もあったのですが、回答書には「死刑囚を替え玉にすることも拒否する」と明記されており、イギリス側の要求には何一つ応じていません。これではイギリス側の面子は丸つぶれです。
たまたま嵐が迫っていたので、薩摩藩の汽船3隻が湾内に避泊中でした。ニールはキューパー提督と協議のうえで、これら三隻を拿捕することにしました。イギリスが要求した賠償額の数倍に値する資産価値があり、拿捕すれば薩摩藩も真剣に交渉せざるを得ないのではないかといった判断でした。そのときすでに夕刻だったので、拿捕は翌朝に実施されることになりました。
秘密兵器・電気水雷
7月1日(新暦8月14日)夜、鹿児島は嵐に襲われました。
此の夜の風雨を利用して宇宿彦右衛門、川上六郎、大山彦助等は、密かに沖小島と燃崎の間の海中に、電気仕掛の水雷三個を敷設して、予め英艦敗退の帰路を絶つた。(此の水雷は、先代斉彬公の研究に基いて完成せられたもので、是日敷設した三個の水雷は、何れも厚さ一寸五分の松板を以て作り、其の高さ六尺、幅三尺、火薬三百斤を装填したものであつた。)(『元帥公爵大山巌』第五章「薩英戦争と決死隊」より)
嵐の海で仕掛けた電気水雷に詰めた火薬が「三百斤」というと180kgですから、木造船には致命傷を与えます。これが3個仕掛けられ、うまくすれば3隻の軍艦を沈めることで東洋艦隊の戦力を一挙に半減させることになります。
翌朝、暴風雨が吹き荒れるなか、東洋艦隊の4艦が汽船3隻を拿捕し、各船はそれぞれイギリス艦に曳航され、小池沖の錨地へと拉致されていきました。
東洋艦隊による拿捕行動を陸上から目撃した薩摩藩は、断固開戦を決意し、大久保利通を砲台に走らせて開戦の命令を伝えようとしました。大久保が天保山砲台に接近するや、砲台は状況を察し、命令を聞くまでもなく砲撃を開始、続いて各砲台も一斉に砲撃を始めました。
東洋艦隊のパーシューズに命中弾があり、とっさに錨を切り捨てて沖合に逃れているものの、他の六艦は、まず拿捕した3隻を焼き払い、猛然と反撃を開始します。旗艦から信号旗で各艦に目標を伝達して1砲台に砲撃を集中、順次沈黙させるという方針でした。
縦一列に並んだ東洋艦隊は、薩摩側が想定していたようなアウトレンジではなく、近距離から激しい攻撃を加えてきたので、電気水雷はまったく意味をなしませんでした。
勝敗を決した一発
そのうち旗艦ユリアラスが単艦で南進し、新波戸、弁天波戸砲台を攻撃しました。激しい風雨にさらされ、激浪が押し寄せる砲台は、連絡橋を破壊されて孤立してしまいましたが、砲術師範、成田彦十郎の指揮する29ドイム臼砲の巨弾がユリアラスに命中、この一弾によって艦長、副長ともに戦死してしまいます。
東洋艦隊の損害は旗艦のみには留まらず、祇園州砲台への攻撃を続けていたレースホースが激しい浪に煽られて浅瀬に乗り上げ、砲台とわずか200ヤードの距離で擱座しました。船底が破れ浸水したため艦は傾斜し、舷側の備砲が使えません。それでもレースホースは水兵をマストにあげて銃撃するなどして戦闘を続行しました。さすがはイギリス海軍です。
薩摩側はレースホースが上陸戦を挑むものと見て、砲台の兵員を砲台の背後に伏せさせて、やってくる水兵の靴を脱がすため、待ち構えていました。対する東洋艦隊は、3艦がレースホースを救助し、1時間あまりかけて海上に救出しましたが、この間もアーガスに3発の命中弾があり、小破しています。
怒りに燃えた東洋艦隊は日没後も付近の舟を焼き、鹿児島城下への砲撃を続行、民家約350戸、武家屋敷約160戸を焼失させたほか、薩摩藩御自慢の武器製造所、尚古集成館にも大被害をもたらしました。
この1日の戦闘で、東洋艦隊は思いもせぬ損害を受けました。この当時、横須賀製鉄所ができるまでは、西太平洋には大型船ドックが存在しなかったので、傷ついた軍艦は根拠地に戻るまで応急修理程度のことしか出来ません。イギリス側の人的損害は、即死13人、負傷50人、のちに7人の負傷者が死亡しており、計20人の戦死者を数えました。
薩摩側は焼けた市街地のほか、汽船3隻をはじめとして各種の船舶が全滅、損害額ははかりしれないほどでしたが、人的被害は死者1人、負傷7人と少なく、戦術的には勝利したといえます。また、あらかじめ消火活動を諦め、市内の全住民を退去させ無人化しておいたので、非戦闘員の死傷者はほとんど出ていません。
思わぬ結末へ
思いのほかの損傷を受けた東洋艦隊は、ともかく引き揚げるにせよ応急修理が必要であり、いったん錦江湾を南下していきました。このとき桜島側の沖小島砲台から東洋艦隊を挑発するように砲撃を開始、そのまま東洋艦隊が接近すれば電気水雷が威力を発揮することになる場面でしたが、傷ついた艦隊は進路を変え、沖合からの砲撃に終始したので、ついに電気水雷は出番がないままでした。戦闘2日目は薩摩側に死者1人、負傷2人が出ています。
3日目に東洋艦隊は錦江湾を出て、外海に去ったことが確認されています。
薩摩藩は、水葬されたユリアラスのジョスリング艦長らの遺体を発見し、また、パーシューズが切り捨てた錨を分捕ったことから、いよいよ勝利を確信しました。この錨は、のちにイギリス側に返還されています。
誇り高いイギリス海軍が敗北を認めることはありませんでしたが、薩摩人が世界最強のイギリス海軍に戦いを挑んだことは、イギリス人の認識を大いに変化させました。
また、薩摩藩も長射程の大砲を持ちながら、堂々と接近戦を挑んだイギリス海軍に対して、その見敵必殺の精神を大いに賞賛しました。
よく知られているように、薩摩藩は長州藩と手を携えて明治維新の原動力となっていきますが、イギリスはその陰で様々な便宜を図っています。薩摩藩とイギリスが互いに認め合うことになったのは、薩英戦争という血みどろの出会いがきっかけでした。
その後、明治新政府が設立され、日本はイギリス人が想像した以上の速度で西洋の技術を吸収していきました。文明開化をなしとげ、強力な海軍を保有するようになった日本は、イギリスにとってパートナーに相応しい近代国家に成長していました。
イギリスにとってドル箱であったインドを脅かすのは、陸路でインドを攻撃し得るロシアでした。日本も東アジアへ勢力を拡大するロシアを、最大の脅威と感じていました。
日本とイギリスが攻守にわたる同盟を組むのは、双方ともに対等な立場でのことでした。そのきっかけは、やはり薩英戦争だったでしょう。
斬り込み中止で、なにが起きなかったか
薩英戦争で「なにが起きなかったか」といえば、中止された西瓜売り決死隊による斬り込みです。もし、実行されていたら、おそらく全員が壮絶な戦死を遂げていたことでしょう。相手は銃を肩にして居並んでいる水兵たちで、西瓜売りは脇差し一本を持っただけでしたから、敵うはずがない。水兵を何人か斬れたとしても、そこまでです。
無謀な斬り込みで生命を失うはずだった人物のなかに、
大山弥介 のちの巌、元帥陸軍大将
西郷信吾 のちの従道、元帥海軍大将
黒田了助 のちの清隆、首相
この三人がいるのです。これらの人物を失っていたとしたら、日本は日露戦争を戦えなかったのは間違いありません。そして、日露戦争がなければ小国日本が、大国ロシアを破ったことで、世界じゅうの虐げられた民族を勇気づけることもなく、いまごろ全人種平等の理想を掲げることさえ困難な世界に生きているでしょう。
ちなみに西瓜売り決死隊の政治犯たちは、ウマウマと戦勝ムードに乗って釈放され、大山弥介は江戸への遊学を許可されるなど、まさしく丸儲けでした。鹿児島の町は丸焼けでしたけどね。