文久3年政変
一般に「八月十八日の政変」と呼ばれる一種のクーデターは、その名前だと何年の出来事かイマイチわかりにくいので、この記事では「文久3年政変」 と呼ぶことにします。
生麦事件発生からおよそ1年後、鹿児島で薩英戦争が起きたのが文久3年7月(1863年8月)で、政変はその翌月のことでした。
ざっとおさらいすると、
嘉永6年 ペリー来航/阿部正弘による幕政改革
安政元年 日米和親条約調印
安政2年 安政江戸地震 藤田東湖圧死
安政4年 阿部正弘病死/改革への反動
安政5年 日米修好通商条約調印/安政の大獄
安政7年(万延元年) 桜田門外の変
文久元年 和宮江戸入り、公武合体へ
文久2年 島津久光の幕政改革要求/生麦事件/岩倉具視失脚
文久3年 薩英戦争/政変? ←イマココ
こんな感じです。
文久年間は、目まぐるしく政局が動き、大事件も多く、「天誅」と称するテロ行為も横行しましたが、見過ごしに出来ないことをいくつか触れておきましょう。
まず、鎖国に戻すことを条件として和宮降嫁に賛成した岩倉具視は、いわゆる尊皇攘夷派に憎まれたうえ、孝明天皇からも「幕府に肩入れしている」と看做されたため、文久2年8月に蟄居を命じられ、失脚していました。
公武合体をスローガンに掲げれば、尊皇攘夷派の批判をかわせるのではないかという幕府の目論見は崩れました。天皇は攘夷を望んでいるのに、幕府はなにをグズグズしてやがるんだ! と、まあ、こんな具合に即時の攘夷を決行すべきだと主張する威勢の良い人たちが支持を集めていたのです。
カルト化した攘夷運動は倒幕を目指す
勢いづいて物を言う人たちは、とかく周囲の無責任な人たちが煽りがちです。煽られることで過激な行動に走ってカルト化するのは、むかしも現在もかわりません。幕末の「尊皇攘夷」を唱えた人々も文久年間にはすっかりカルト化し、現実との乖離が大きくなってきました。ついに「幕府を倒して攘夷を実現させる」などと、この時点の情勢を考えれば、寝言に等しいことを豪語する者さえ現れました。
文久3年2月(1863年4月)には、京都の等持院霊光殿に置かれていた室町幕府の将軍、足利尊氏、義詮、義満の三代の木像の首が抜き取られ、三条河原に晒される事件がありました。暗殺が横行する世相でしたから、誰も殺さない、傷つけない、たわいない悪戯ともいえましょうが、幕府の将軍の首をとる=幕府を倒す、そのような意図を明らかにした衝撃的なことでした。
空振りしたサプライズ
木像梟首事件から間もない4月、孝明天皇は「外患祈禳」のため石清水八幡宮に行幸しました。外患とは国外からの圧迫のことで、祈禳は「いのり、はらう」という意味です。
天皇の側近くに仕えていた堂上(御殿にあがれる公家)の東久世通禧は、その行幸のことを以下のように回顧しています。
八幡行幸は四月十一日に行はれて、鳳輦初めて京師の外へ出させられたのである。主上は深宮に在して一たびも宮域の外を見させられぬ御事なれば、生駒山の連峰、淀川の長流など御覧遊ばして定めて奇異の思ひを遊ばしたで有らうと思ふ。(東久世通禧 述『維新前後:竹亭回顧録』p195より)
天皇は土を踏まないとまでいわれていた頃のことです。めったに建物の外へ出ない「生きた御神体」だった天皇が、御所の外までお出ましになることは、たいへん珍しいことでした。
このとき、国事寄人侍従の中山忠光という公家が京都を脱走して長州に走っていました。忠光が長州系の尊攘派浪士を糾合し、天皇の身柄を石清水行幸の途上で拉致し、かつまた天皇に供奉(お供)する将軍家茂を襲殺しようと計画しているとの噂が流れたせいで、行幸は何度か延期されました。しかし、議奏権中納言の三條実美が強く行幸を求めたので挙行されました。
天皇の行幸に将軍が供奉するならば、神前で天皇から将軍へ節刀を授与して、攘夷の決行を確約させる……節刀は、天皇が代理者として認めた将軍や遣唐使に授けるものですから重い意味づけがありますけれども、そういうサプライズが準備されていました。
しかし、家茂は空気を読んで欠席し、その代理として将軍後見職の一橋慶喜が指名されましたが、にわかの腹痛で宿舎を出られず召命を謝辞、せっかくのサプライズは空振りでした。
行幸は本意でなかった?
孝明天皇は4月22日に青蓮院宮尊融親王(のち改名して中川宮朝彦親王)への宸翰(天皇自筆の手紙)で「石清水行幸は過激派公卿の要請によることで、朕の意ではない。速やかに島津久光を召しよせ、尊融親王と協力すれば、激徒らも反省するところがあるだろう」との思し召しを示されました。
天皇の思し召しとはいえ、久光は薩英戦争に備えていた時期で、ハッキリいうと、それどころじゃないのです。大英帝国を相手に本土決戦ですからね。久光の上洛は無理なので、在京の藩士らでどうにかするしかありません。
攘夷の期限が定まる
幕府は和宮降嫁と引き換えに、攘夷を約束しました。しかし、欧米列強との軍事力格差を考えれば、武力による攘夷は無理です。無理なのですが、孝明天皇が石清水八幡宮への行幸で幕府にプレッシャーをかけてきたので、幕府としても具体的な期限を定めて「攘夷を決行します」と宣言しなければなりません。その期限は文久3年5月10日と定められました。
攘夷の目的は「鎖国に戻す」ことです。期日を目前にした5月9日、幕府は諸外国に対して横浜鎖港を申し入れました。すでに貿易拠点として繁盛しはじめた港湾都市を鎖すというのです。
まだ閉店時間じゃないのに店の都合で客に「出ていけ」というような理不尽な申し入れで、当然ながら諸外国がOKを出すはずはありません。幕府としては、ひとまずカタチばかり攘夷を試みたとは言えます。そればかりか横浜鎖港交渉のためにヨーロッパまで使節団を送ったのだから、本気で鎖港を考えていたのでしょうが、諸外国を説得できるわけがありません。
攘夷決行の期限が来た5月10日、関門海峡を通航する洋式帆船が無差別に砲撃を受けた下関事件が発生します。長州藩が文字どおりの攘夷を、その期日に決行したわけです。
即時の攘夷を唱えるカルト化した人たちは、とうとう天皇を攘夷戦争の総司令官に担ぎ出そうとまで言い出しました。
初め将軍が上洛した上攘夷のお受をすると勅使に約束しながら、上洛すれば事を左右に託して一向取合ぬ。水戸を目代として下しても何の効もなく、一橋に勅旨を授け関東へ下しても是亦河原の礫で何の沙汰もなく、揚句には水戸も一橋も辞職して仕舞った。そこで将軍自ら下って鎖港をせよ畏りましたと御暇乞をして下れば、是また一向手を下した様子も見えぬ。此上は将軍も頼むに足らず天皇御親征の外なしと云ふ議が出て来た。(東久世通禧 述『維新前後:竹亭回顧録』p198より)
ここでいう「親征」は、天皇みずから采配を振る戦いのことを言います。たとえ形ばかりの出馬であったとしても、戦に敗れたとき「アレは臣下が勝手にやったことだ」とは言えなくなります。言い方を変えれば、天皇に明確な戦争責任を負わせるということです。
カルト化した人々にとって、幕府の横浜鎖港交渉など攘夷のうちには入りません。そして、「将軍も頼むに足らず」との思いから、やがては「幕府を倒してしまえ」とヒートアップし、あげくには戦争責任も天皇に負わせようという、実に虫の良い話だったのです。
クーデターで「なにを起こさなかったか」
孝明天皇から「激徒らも反省」させる役割に御指名を受けたとはいえ、薩英戦争と同時進行だった薩摩藩は、独力でカルト化した攘夷派を京から一掃することが困難でした。そこで、京都守護職をつとめる会津藩と秘密提携を結んで、クーデターを計画したのです。
台湾の梁媛淋氏による『幕末政局中會津藩的角色—文久三年(1863)八月十八日政變與京都守護職』(日本語版)
によると、薩摩藩は8月16日にクーデターを計画していたものの、孝明天皇が「時期尚早」として決行に同意せず頓挫しています。
17日になると、元侍従の中山忠光を担いだ攘夷派浪士らが五條代官所を襲撃します(大和の変)。折しも孝明天皇が神武天皇陵と春日大社への参拝(大和行幸)を計画していたときのことで、過激な攘夷派は大和行幸こそ倒幕戦争を勃発させる好機だと考えていたのでした。
この事態に至って孝明天皇は意を決し、18日の未明、今度は会津藩の主導、薩摩藩の協力でクーデターが決行されました。
十八日の朝いつもの通り起て手水などつかって居ると、何か世間が騒々しい体である。何事が起ったかと家来を呼び、世間が騒々しい何事か変事でもあるかと聞けば、何事も存じませんが未明より甲冑を着た武士ども槍を持って頻りに奔走いたす体、また鉄砲の音も聞えたと云ふ。其は只事では有まいと急に装束を着て、堺町御門まで来ると、長藩の堺町御門の堅めは他家と交替になったと云ふ事で、皆な門前に屯ろして居て門は閉鎖してある。吾は東久世なり開門して通すべしと言ひたれど通さず、其形勢がいかにも尋常の事とは見えぬ。(東久世通禧 述『維新前後:竹亭回顧録』p202より)
この回顧録を書いた東久世通禧は、クーデターで排除された7人の堂上たちの1人です。有名どころでは三條実美が7人のなかにいます。
兎に角平家の都落ちも斯んな体で有たらうと思った。従来歩行と云ふものは余りせぬ堂上の身で、風雨の中を草鞋を穿てたどりゆくのだから実に其艱苦名状す可らず。(東久世通禧 述『維新前後:竹亭回顧録』p207より)
世に「七卿落ち」と呼ばれた光景です。幕府を倒すだのと威勢の良いことをいっていたのに、草鞋を履いてトボトボ都落ちとはお気の毒です。
しかし、このあと情勢が変化して通禧は復権し、維新後の明治新政府でも要職を占めています。人生、わからないものです。
さて、クーデターで京の情勢は大きく動き、大和の変、但馬の変も、ほどなく鎮圧されました。なにが起きなかったか、というよりは、予期された倒幕戦争を起こさせなかったというべきでしょう。
文久年間の社会情勢で幕府を倒したところで、それにかわる新政権を樹立できたとは思えません。それよりは公武合体策によって既存の幕藩体制をバージョンアップさせる方が、この時点では、よほど現実的だったといえるでしょう。