お札がくだって乱舞する
慶応3年夏、民衆が踊り狂う騒ぎが東海地方から始まり、秋には関西方面に伝わって、当時の政局の中心であった京都でも同様の騒ぎが頻りに起きました。
伊勢神宮の大麻(タイマもしくはオオヌサ。御札のこと)が空から降ったことを吉祥(なにか良いことが起きる)として、大勢の民衆が「ええじゃないか」と囃しながら、踊り狂うのでした。
富裕な家では乱舞する民衆に酒食を提供するなど、好意的に騒動を見ていました。そりゃあそうです。理性を失った人々の機嫌を損ねたら、打ち毀しや掠奪に走るかもしれませんからね。
その甲斐あって、ええじゃないか騒動は踊り狂うばかりで、暴力を振るうことはありませんでした。一揆や打毀しは政治的要求を伴う集団ヒステリーですが、踊るばかりの「ええじゃないか」はそれらとは異質なもののようです。
ええじゃないかは陰謀か?
天から神宮大麻が降るなんてアリエナイ話ですから、誰かが仕組んだ騒ぎでしょう。倒幕派の志士たちが人混みに紛れることで行動しやすくなった面もありますし、それとは逆に、幕府側による坂本龍馬暗殺もまた京で「ええじゃないか」が流行した時期に重なります。
『維新史料綱要』の慶応3年11月13日(1867年12月8日)の条を見ると、京都町奉行が乱舞を禁じたことがわかります。
京都町奉行、市中ニ令シテ、神仏符札降下ト唱ヘ、異形シテ市中ニ乱舞スルヲ禁ズ。歇マズ。(『維新史料綱要』巻7 p349より)
しかし、騒ぎが収まることはなく、15日には龍馬が暗殺されました。実行犯たちは喧噪の中に紛れ込んでしまい、いまなお誰が龍馬を斬ったのか確たる結論は出ていません。磯田道史氏の『龍馬史』では、会津藩士だった手代木直右衛門の証言から、「桑名侯」の指示により見廻組が実行したと見るのが最有力としています。
両陣営とも、密会や暗殺に「ええじゃないか」で生じた混雑を利用していますが、いずれかの陣営が仕組んだのではなく、自然発生した社会現象だと考える研究者もいます。
「ええじゃないか」の喧噪を利用し、そのなかで庶民の意識とは別なところで政権交代が行われたという指摘は、一定の説得力がある。たしかに京都やその周辺に限ってみれば、その形跡をまったく否定することはできない。しかしお札の降下について地域ごとに日時を追ってみれば、必ずしも当時の政治日程で騒動が展開したわけではない。逆に新たな政治権力が介入したことにより、騒動そのものが鎮まった例の方が多い。(渡辺和敏『ええじゃないか』2001年 愛知大学綜合郷土研究所ブックレット1 p82~83より)
だとすると、民衆は誰かに踊らされたのではなく、みずから踊ることを思いついたといえましょう。暗い世相のなかで起きた割には、暴力が無いだけ穏当な民衆蜂起でした。
ワタクシとしては「ええじゃないか」は前年に江戸で起きた、貧窮組という社会現象の焼き直しではないかと考えています。
食べて歩き回る貧窮組
慶応2年の江戸では町人らが大勢で豪商などに押し掛け、酒食の提供を求めることが日常化していました。
明治時代の新聞記者が、幕末を生きた人々から聞き取ったインタビュー記事によると
一番初手は下谷山崎町だとの話で、「太郎稲荷の所へ、今貧窮組といふのが多勢屯して、諸方から米やお菜を貰つて来て喰べてゐる」との噂に、手前も見物に往つた事がありましたが、其お鉢が段々手前の方まで廻つて来る。誰が始めたとも発起したとも煽てたともつかないが、中以下の家へは遊人らしい奴が来て、「町内でも貧窮組を拵へますから、御出懸け下さるとも、お出にならずば、多少の金品をお出しになるとも御返答次第で覚悟があります」といふ始末。(篠田鉱造 編『幕末百話』明治38年再版 内外出版協会 p47~48より)
という具合に、江戸っ子らしい気の短い談判で、仲間になるか、さもなくば金品を提供するか二者択一を迫ったのでした。地域ごとに組織がつくられたほか、やがて大工や職人などの職能別に組織された貧窮組も設立されていきました。
はじめのうちは暴力をふるわず、ただ街角で炊きだした飯や汁を配るだけでしたが、やがて人数が膨れあがると統制がとれなくなったのか、打ち毀しも発生するようになりました。
なんでも日本橋人形町の唐物商大六を叩き壊すなんて騒動が出来しました。同家では「主人が留守だから出せない」と二三度刎付けたもんで、乱暴にも朝十時頃から鬨の声で闖入し、ドシドシ店から土蔵まで壊しましてすが、どうも人間業でない。天狗業だらう。「何でも店の看板の鉄の棒をネヂ切つてゐたのは、十五六の子供だつたが、天狗の子だらう」などと評判したものだ。(此頃はこんな評判が多い) これに反して浅草駒形の鰻屋では、米の二俵位づつ出すので、大変評判がよかつたさうです。(篠田鉱造 編『幕末百話』明治38年再版 内外出版協会 p48より)
このあと、幕府は貧民救済のためのお救い小屋を建て、米を放出することで貧窮組の騒動を終息させています。
慶応年間の大工の日当は600文くらいが相場でしたが、米価は一升700文まで高騰していました。肉体労働の成人男性は一日に五合も米を食べていたわけで、自分が食べる二日分にもなりません。妻子を養うにはまったく足りなかったのです。
飲んで踊って「ええじゃないか」
乱舞する「ええじゃないか」と、ただ飲み食いするばかりの貧窮組とで、だいぶイメージは違いますけれど、似通った部分も見受けます。
ええじゃないかの場合、民衆の騒ぎ方は地域によって多少の違いがありますが、各地の伝承からモデルケースを示してみましょう。
早朝、富裕な家の屋根に伊勢神宮の御札が落ちているのを近所の人が発見し、めでたいことだと祝いの言葉をかけます。そして周辺に御札が降ったことを触れ回り、近所の人々が見物にやってきます。
御札が降った家では、訝しく思いながらも、お祝いを言いに訪れた人々に、酒や料理を振る舞います。日が落ちる頃になると、仕事を終えた人たちが続々と集まり、振る舞い酒を飲んで踊りだすのです。
――ええじゃないか、ええじゃないか
世の中なんでもええじゃないか……
囃子言葉は地域によって異なりますが、京都あたりでは性器の名を織り込んだ卑猥なものでした。特に決まりがあったわけではありませんが、いつしか男は女装し、女は男装して踊り狂うようになっていきます。
一揆や打ち壊しと明らかに違うのは、民衆が暴力をふるわないことです。また、役人に対して政治的な要求をするわけでもありません。要は、富裕な家に酒食の提供を求める方便として御札くだりを演出したと考えられるのです。強談に及んだ江戸の貧窮組との違いは、江戸と関西の住民性から生じたものかと想像します。
平成の出来事で、リーマンショック後の不況下の東京に、年越し派遣村が出来たのを御記憶でしょうか。彼らは踊らなかったし、多少の政治的要求をしたし、「ええじゃないか」や貧窮組とは性格が異なりますが、その違いを踏まえたうえで共通点もあると思います。
あの派遣村では、一方的な「悪」が存在しませんでした。政府までが厚労省の講堂を宿舎として提供するなど、派遣村の運動に加担していましたからね。あれは局地的な社会正義の具現化だったと思いますし、貧窮組や「ええじゃないか」と同じ匂いを感じました。
ええじゃないかで「なにが起きなかった」か
さて、京の町に「ええじゃないか」の喧噪がなかったら、龍馬暗殺が易々と成功することもなかったでしょう。
近江屋事件の数日前、龍馬は自筆の『新政府綱領八策』を書き残しています。
第一義
天下有名ノ人材ヲ招致シ顧問ニ供フ
第二義
有材ノ諸侯ヲ撰用シ朝廷ノ官爵ヲ賜イ現今有名無実ノ官ヲ除ク
第三義
外国ノ交際ヲ議定ス
第四義
律令ヲ撰シ新タニ無窮ノ大典ヲ定ム律令既ニ定レハ諸侯伯皆此ヲ奉ジテ部下ヲ率ユ
第五義
上下議政所
第六義
海陸軍局
第七義
親兵
第八義
皇国今日ノ金銀物価ヲ外国ト平均ス
右預メ二三ノ明眼士ト議定シ諸侯会盟ノ日ヲ待ツテ云云
○○○自ラ盟主ト為リ此ヲ以テ朝廷ニ奉リ始テ天下萬民ニ公布云云
強抗非礼公議ニ違フ者ハ断然征討ス権門貴族モ貸借スル事ナシ
慶応丁卯十一月 坂本直柔
来たるべき新政権のために龍馬がしたためた政権構想です。これが図らずも日本国に宛てた遺言状になってしまいました。
新政権の盟主とすべき「○○○」とは、いったい誰のことだったのか、龍馬が生き延びていたならば明らかにされていたことでしょう。
しかし、「ええじゃないか」と人々が乱舞する京の都で、龍馬は生命を絶たれてしまったのでした。