はじめに
大久保利通の人物評は、毀誉褒貶の両極端を見ることが多いです。国立国会図書館ウェブサイトの『中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典』のなかの人物編「大久保利通」のパートは、感情を排し、理性的に評価した人物像を描いていて非常に優れた人物紹介です。
簡潔にして要を得た、コンパクトな人物紹介のお手本みたいな記事で、ワタクシごとき、これを超える記事は書けそうにありません。みっともないと思わないではないですが、大久保利通の人物像のあらましについてはスルーしちゃいます。
ドラマや小説では憎まれ役として登場することが多く、冷徹とか非情とか、そんなイメージを持つ人が多いけれども、この記事では、利通の意外な側面を御披露しましょう。
明治天皇を理想の君主に!
剛直な外祖父・中山忠能に養育された明治天皇は、元服前から質実剛健な気風を備えたお人柄であったようです。安定した時代の天皇なら、政治的課題とは関わりなく、天下万民の安寧を祈ることに専念したことでしょう。しかし、大政奉還で幕府から朝廷に政権が戻され、王政復古で摂関制度も廃止され、天皇は政策の採否を最終段階で決断する立場となりました。
憲法がない間は、天皇の権力を制限する仕組みがありません。天皇は勅令を発しさえすれば、なんでも命じることが出来ます。いまから思えば、ずいぶんとアブナイことですが、天皇みずから政治をおこなう「天皇親政」は、政治的安定を保つのに、天皇個人の人徳に期待しなければならない統治の仕組みでした。
幸いにして明治天皇は強い自制心を備えた人で、孝明天皇のように密勅や宸翰(天皇自筆の私信)を濫発することはありませんでした。お気に入りだった西郷隆盛が反乱を起こしたときは討伐を静かに見守り、すべてのことが済んでから隆盛の遺児を召し出して留学させる、という具合に、御自身の感情よりも政治的に公正であることを常に優先した君主でした。
そのような人徳は、明治天皇の持って生まれた資質もあるけれど、在位中に修得した部分もありました。君主の人徳を磨くことを「君徳培養」といい、明治天皇の君徳培養に先鞭を付けたのが大久保利通であります。(やっと利通の話題に繋がりました)
戦前・戦後を跨いで活躍した近代史の研究者で、明治天皇に関する著作を多く残した渡辺幾治郎(故人)は、
明治天皇のかやうな御気象を拝し、維新の元勲三條・岩倉・大久保・西郷・木戸・東久世通禧等の人々は、何れも君徳を培養し、親政の実を挙ぐるにつとめた。かゝる天資の英主を若し明君と大成し能はぬならば、これは輔導の至らぬ責に帰せねばならぬ。臣下の不徳・不忠であるとさへ感じ、身命を抛つて、その任を尽さんと努力したのである。
しかして、それ等の元勲中、最も早くそこに着目し、力を致したものは、岩倉と大久保とであつたと思ふ。
という具合に、岩倉具視と利通を「君徳培養」のキーマンと見ています。
慶応4年の大坂都構想
新政府側の史料には、鳥羽伏見の戦いに負けたとき、どう逃げるかシッカリとしたプランが残っているのですが、勝ったらどうするかについては見当たりません。勝てるとは思ってもいなくて、本当にノープランだったようです。新政府側にとって絶望的な戦いだったことは【鳥羽伏見の戦いの回】を御参照ください。
思いがけず勝っちゃったけれども、なにをどうするか、まったくプランがないところへ、利通は大坂遷都を提案します。
新政府には王政復古のスローガンはあっても、具体的な改革プランは纏まっていません。そんなものは佐幕諸藩との戦いに勝つ見込みがついてから考えるべきことですからね。ところが鳥羽伏見の戦いに勝ち、いきなり関西の支配権を掌握してしまいましたし、どうも徳川家は抵抗を続ける意志がなさそうです。もうあとの戦いはないかもしれません。
そうなると、新政府は一刻も早く政権らしい形を作って見せなければなりません。そこで利通は次のような遷都論を建白しました。その最初の部分では
今日ノ如キ大変態、開闢以来未ダ曽テ有ラザル所ナリ、然ルニ、尋常定格ヲ以テ豈ニ之ニ応ゼラルベキヤ
と、史上かつてない時代変化に対し、通常の手段では応じられないと訴えています。
今一戦シテ官軍勝利トナリ、巨賊東走スト雖モ、巣穴鎮定ニ至ラズ、各国交際永続ノ法立タズ、列藩離叛シ、方向定ラズ、人心恟々、百事紛紜トシテ復古ノ鴻業未ダ半バニ至ラズ、纔カニ其ノ端ヲ開キタルト云フベシ。
緒戦には勝利したが徳川氏は健在で、外交・内政ともに問題は山積みなので王政復古は始まったばかりと言うべきではないか。と、勝利気分に浮かれていられない実状を挙げています。
然ラバ朝廷ニ於テ一時ノ利徳ヲ計リ、永久治安ノ策ヲ為サザル時ハ、則チ北条ノ後ニ足利ヲ生ジ、前姦去リテ後姦来ルノ覆轍ヲ踏マセラレ候ハ必然ナルベシ。
だから目先の利益にこだわるならば、失敗に終わった建武の中興の二の舞になってしまう。と警告し、
之ニ依リテ深ク皇国ヲ注目シ、触視スル所ノ形跡ニ拘ラズ、広ク宇内ノ大勢ヲ洞察シ給ヒ、数百年来一槐シタル因循ノ弊ヲ一新シ、国内同心合体「一天ノ主ト申シ奉ルモノハ斯クマデニ有リ難キモノ」、「下、蒼生ト云ヘルモノハ斯クマデ頼モシキ者」ト上下一貫、天下万民感動泣涕致シ候程ノ御実行挙ガリ候事、今日急務ノ最急ナルベシ。
そのため前例にかかわらず、世界の情勢も洞察して数百年間も続いてきた形式主義を一新し、国内の意思統一を図ろう、それには「天皇とは有り難いものだ」、「民は頼もしいものだ」と天皇と国民が信頼を結んで誰もが感動してしまうほどの「理想の天皇像」を創ることが最優先事項であると主張します。だが、利通の言う理想の天皇像とは生神様のことではありません。
是レマデノ通リ、主上ト申シ奉ルモノハ玉簾ノ中ニ在シ、人間ニカハラセ給フ様ニ、僅カニ限リアル公卿ノ外、拝シ奉ル事ノ出来ザル様ナル御有様ニテハ、民ノ父母タル天賦ノ御職掌ニ乗戻シタル訳ナレバ、此ノ根本道理適当ノ御職掌定マリテ、始メテ内国事務ノ法起ルベシ。
今までどおり、天皇は一部の公卿に囲まれて異世界に隔離されているが、せっかく民の父母としての天皇という本来の役割に戻ったのだから、ここで天皇の役割をきっちり定めて、それで初めて内政に取りかかれるようになる。と言い、そして大坂遷都論の核心部分に続きます。
右ノ根本ヲ推究シテ大変革セラルベキハ、遷都ノ典ヲ挙ゲラルルニアルベシ。
遷都という手段でこそ理想の天皇を演出できるという結論的な部分です。
何トナレバ弊習ト云ヘルハ理ニ非ズ、勢ニアリ。勢ハ触視スル所ノ形跡ニ帰スベシ。今其形跡上ノ一二ヲ論ゼンニ、主上ノ在ス所ヲ雲上ト言ヒ、公卿方ヲ雲上人ト唱ヘ、龍顔ハ拝シ難キモノト思ヒ、玉体ハ寸地モ踏ミ給ハザルモノト、余リニ推尊シ奉リテ、自ラ分外ニ尊大高貴ナル者ノ様ニ思召サレ、終ニ上下隔絶シテ、其ノ形、今日ノ弊習トナリシモノナリ。
悪い習慣は、非合理な「なりゆき」から出来たもので、たとえば、御所のことを雲上、公卿を雲上人と呼んで、天皇は民に姿を見せる必要はないし、一切外出をしないものと決めつけて、(公卿たちが)あまりに格式張るため天皇も御自身を過大評価されてしまい、国民との関係が希薄になった。だから悪い習慣なのである。と、間接的ながら公卿衆を批判しています。
敬上愛下ハ人倫ノ大綱ニシテ論ナキ事ナガラ、過グレバ君道ヲ失ハシメ、臣道ヲ失ハシムルノ害アルベシ。
天皇を敬い民を愛することは大切であるが、やりすぎは良くないといった主張です。では、どの程度が理想かという方法論に続きます。
仁徳帝ノ時ヲ、天下ノ万世、称賛シ奉ルハ外ナラズ、即今、国々ニ於テモ、帝王、従者一二ヲ率ヰテ国中ヲ歩キ、万民ヲ撫育スルハ、実ニ君道ヲ行フモノト言フベシ。
(民をいたわった)仁徳天皇の治世を称賛すべきなのはもちろんだが、今は諸外国でも帝王がわずかな供を連れて国内を視察し、国民と触れあっていることは理想的な君主像であるとして、
然レバ更始一新、王政復古ノ今日ニ当リ、本朝ノ聖時ニ則ラセ、外国ノ美政ヲ圧スルノ大英断ヲ以テ挙ゲ給フベキハ遷都ニアルベシ。是レヲ一新ノ機会トシ、簡易軽便ヲ本トシテ数種ノ大弊ヲ抜キ、民ノ父母タル王職ノ君道ヲ履行セラレ、命令一タビ下リテ天下悚動スル所ノ大基礎ヲ立テ、推及シ給フニ非ザレバ、皇威ヲ海内ニ輝カシ、万国ニ御対立アラセラレ候コト叶フ可ラズ。
王政復古の今こそ、理想の君主像を演出するために遷都を実施すべきで、この際(形式主義を捨てて)簡素化を図るべきである。という主張に続いて、天皇の命令を全国に行き渡らせる様な基礎をつくらなければ、国内の統一も外国との交渉も出来ない。と、現実的問題に帰結しています。そして
一、遷都ノ地ハ浪華ニ如ク可ラズ、暫ク行在ヲ定メラレ、治乱ノ体ヲ一途ニ居(す)へ大ニ為スコトアルベシ。外国交際ノ道、富国強兵ノ術、攻守ノ大権ヲ取リ海軍ヲ起ス等ノコトニ於テ地形適当ナルベシ。尚其局々ノ論アルベケレドモ贅セズ。
遷都先は大坂が最適であり、当面は行幸という形だが、取り組むべき事は沢山ある。外交交渉や富国強兵政策に便利な地形ではないか。と締めくくっています。
利通が大坂に期待したこと
候補地には「浪華ニ如ク可ラズ」と最大級の表現で大坂を推薦していますが、地形が適当であるというばかりでなく、建白書にはっきり書けなかった理由がありそうです。
遷都のねらいが公家たちによって隔離された天皇を国民に親しまれるような開かれた存在にすることであるのは、建白書からも読みとれます。だとすれば、大坂の地形はどうでも良いのです。利通が真に期待したのは、大坂の住民性ではないでしょうか。庶民の町・大坂ならば、高まりすぎた天皇の権威を適正なレベルに戻すために都合がよさそうです。
利通の「君徳培養」は、帝王学じみた講釈を垂れることではありません。明治天皇が理想の君主になれるような環境をつくることでした。そのために、天皇を京都から離そうとしたのです。
しかし、公家たちは大坂遷都論に反対しました。もし、「帝王、従者一二ヲ率ヰ」という具合に天皇が行動するならば、天皇の臣下である公卿は従者を3人召し連れることが出来なくなるのは必定です。
公家たちの激しい抵抗に、大坂遷都のテストケースであった大坂への行幸は何度も延期されましたが、3月になって、利通はついに大坂行幸を実現しました。しかし、「開かれた皇室」の演出は不徹底で「帝王、従者一二ヲ率ヰ」という場面を設けるには至りませんでした。
大坂への行幸は御親征行幸とも呼ばれ、徳川慶喜討伐に向かう新政府軍を、天皇みずから指揮する体裁をとり、その司令部を大坂に設置したという筋書きのパフォーマンスです。すでに江戸の慶喜は謝罪状を発して無抵抗で恭順する意志を示していました。旧幕府のなかには慶喜の意向を無視して抵抗する者もいたので戦争状態は継続していましたが、奥羽越列藩同盟が結成される前のことなので、この時期には新政府が戦争に敗れる心配はなく、徳川家が江戸城を明け渡して戦争が終結する見通しがありました。そして、総司令官たる天皇に勝利の栄光を受けていただこうという理由づけで大坂行幸の実現に漕ぎ着けたものですから、市民と触れあうことが目的じゃないし、大坂遷都の布石にもなりませんでした。それでもチョットは「開かれた皇室」へ近づこうとはしていたのです。
大名行列よりサービスします
大名行列を沿道の市民が見送るとき、かなりキビシイ扱いを受けていました。その様子を、見送られる側の大名から見ると、こんな具合です。
余が通行する時には、以前は往来に向つた窓は締切りさして、徃来へは一人も出す事は出来なかつたものである「這入れ這入れ」との掛声で通行したものであるが、改革後には往来に出て居ても差支はないが「下に居れ下に居れ」の掛声に依つて、皆が土下座をして居つた、
建物に入っていろとか、外に居たら土下座をしろとか、とにかく行列を見ることが許されないのですよ。
それに対して、明治天皇が東京へ向かった際はどうだったか。
江戸あらため東京への行幸は、会津藩の降伏が秒読みに入った時期のことでした。戦争の緊張感は薄れ、元号も「明治」と改められ、誰もが新時代の訪れを意識していた頃です。
横浜の外国人居留地で新聞社を経営していたヴァン・リードは、東京へ向かう天皇の行列を沿道から見ていました。
『横浜新報もしほ草』第28篇 明治元年10月28日
皇帝陛下は今度かな川駅へ御通輦につき、日本人はいふにおよばず、我輩まで御くるまをはいし奉ることを得て、いとありがたきことにこそありける。されどもをしむべし、御輦の四方みすとかいへるものにておほひければ、たれもまさしく拝したてまつるものなきこそ、のこりをしけれ……開化の二字をおもんしたまはんには、おひおひ帝は神のみすゑにて人るゐとはかはりたまふなどいへる避言をいはず、民の父母たることを忘れ給はず、よきまつりごとをしたまふにおいては、あやしきたび寝の我輩にまで、大ひなるさいはひならんかし(北根豊 監修『日本初期新聞全集 一九』ぺりかん社 平成元年より)
輿を囲む御簾で遮られ、御尊顔を拝することができなかった、と残念がっていますね。けれども輿をシッカリ見ているわけです。土下座で顔を上げさせない状況ではなかったのはわかりますよね。
ヴァン・リードは生麦事件の直前に島津久光の行列に出くわしています。そのときは「直に下馬して馬の口を執り道の傍に佇み、駕の通る時脱帽して敬礼」した【生麦事件の回参照】ということで、ジロジロ駕籠を見物することは許されなかったようです。それに比べたら、輿を見ても良いというのは大サービスなんですが、利通が目指した「開かれた皇室」には程遠い感じですね。
大久保利通は、なにを起こせなかったか
結局のところ明治天皇はヴァン・リードが懸念したとおり「神の末裔にして人類にあらず」なんてことにされてしまいました。けれども、大坂遷都論を見るかぎり、利通が意図したことでなかったのは明らかです。むしろ民衆の側が天皇を神格化してしまい、そのような風潮に迎合して「開かれた皇室」をアッサリ諦め、天皇を神格化する方向へ舵を切ったんじゃないでしょうか? むかし、鳥羽伏見の戦跡を踏査したとき、大坂行幸の際に天皇の行列が通過した道筋から拾ってきた小石を、神棚に据えて拝んでいる家に招きあげられたことを思い出しました。
ともあれ、利通は天皇を現人神になんかするつもりはなくて、「開かれた皇室」を目指したけれども、挫折してしまったのは間違いありません。明治天皇の孫にあたる昭和天皇の御代になって「天皇は人間です」と宣言するまで、 ずいぶん遠回りをしてしまったものですね。
利通の「君徳培養」の効果がどれほどか数字で計るわけにはいきませんが、明治天皇は絶大な権力を濫用しない、自制心を備えた君主となりました。また、昭和天皇は戦後の行幸で「従者一二ヲ率ヰ」国民と間近に接しました。大坂遷都は実現しなかったけれど、その趣旨は現在も受け継がれているのです。