右と左、東と西、南と北。二手に分かれて比べ合ったり競い合ったりすることは古くから行われてきました。雅やかなイメージを持つ平安貴族たちも例外ではありません。たとえば貝の形や美しさを比べ合う”貝合せ“や和歌の出来栄えを競う”歌合せ“、花の美しさを競う”菊合せ“に”なでしこ合せ“など。
なかでも”絵合せ“は華やかなことからか、『源氏物語』に登場します。競い合うのは冷泉帝の妃たちで、斎宮の女御(さいぐうのにょうご)と弘徽殿の女御(こきでんのにょうご)。というのは表向きで、実質は彼女たちの後見人たる光源氏と好敵手の権中納言との勢力争いでした。
絵合せってなあに?
平安貴族たちが楽しみながら比べ競い合った、さまざまな対決は総称して「物合せ(ものあわせ)」と呼ばれました。今回、紹介する”絵合せ“は、物語の文章に挿絵を加えた物語絵や、宮中での年中行事を鮮やかに描いた行事絵、優れた風景を描いた山水画などを、左右に分かれ、それぞれ一巻ずつ出し合い優劣をつけるものです。
まず、あらかじめ決めておいた対決テーマにそって、各チームが相手チームよりも優れていると思う絵巻を用意。この時に既に手持ちの絵巻の中から選ぶのか、はたまた新しく作らせるのかなど、各チームの性格が滲み出ます。対決時にはそれぞれのチームを応援する方人(かたうど)たちが、いかに自分が味方するチームの絵巻が素晴らしいかを論じ、最終的な判断は中立な立場の審判が下します。
さて、この物合せですが、一見すると華やかに思えますよね。ところが時として宮中の勢力争いにつながることも。ドロドロとした争いごとを遊びというオブラートに包んだ、美しくも激しい対決でした。
それは帝が注目するような大がかりな物合せに勝ち、帝の覚えめでたき存在となれば、それだけ権力の座に近づけるから。強いものになびくのは弱者の悲しい性。勝者のもとへさらに力は集まり、宮中での勢力が広がるのです。
『源氏物語』の17帖「絵合」では、2人の女御が争います。女御とは天皇に仕える妃のなかでも身分の高い女性のことで、基本的には皇族や大臣の娘たち。そのため大納言の娘だった光源氏の母は、一段格下の「更衣」として桐壺帝に入内しました。『源氏物語』では藤壺の女御をはじめ複数の女御が登場しますが、この「絵合」を行うのは時の帝・冷泉帝(桐壺帝の皇子)の2人の妃で、斎宮の女御(梅壺の女御とも)と弘徽殿の女御です。
斎宮の女御は光源氏の愛人だった故・六条御息所の一人娘で、母亡き後は内大臣になっていた光源氏の養女として後宮入りしました。対する弘徽殿の女御は権中納言の娘。権中納言はかつて頭中将と呼ばれていた光源氏の好敵手ですが、あれ?父が権中納言なのに女御?なんだかおかしいと思いませんか。どうやら弘徽殿の女御は、父方の祖父が摂政太政大臣を務めていることから、彼の猶子(ゆうし / 仮の親子関係を結ぶことで、仮親を後見人にできる。養子よりも繋がりは緩い)となり、女御として後宮入りしたようです。
とにもかくにも冷泉帝の後宮では、後ろ盾がしっかりしていたこの2人の女御が寵を争っていました。
絵合せのきっかけ~2人の女御、互いに絵を帝に見せ合う
冷泉帝のもとへ先に入内したのは弘徽殿の女御でした。年齢は帝とほぼ同年齢なこともあり、11歳で即位した帝とは良い遊び相手のような関係です。斎宮の女御は帝よりも9歳年上の20歳。おっとりとして落ち着いた雰囲気をまとい、帝から見るとやや大人の女性なので、光源氏はもちろん、彼と一緒に斎宮の女御の入内を画策した冷泉帝の母・藤壺の女院も冷泉帝との仲を心配しました。
けれどお互いに絵を見るのも描くのも好きなことから2人の仲はきわめて良好。まだ帝が幼いため当面は絵のことで盛り上がるとしても、斎宮の女御のもとへ足繁く通っている姿を見るにつれ、権中納言の心中は穏やかではありません。
当時は、入内させた娘が皇子を産む⇒生まれた孫を東宮(皇太子のこと / 春宮とも)に立てる⇒孫を帝として即位させ外戚になり娘を立后させる、帝のおじいちゃんになって絶大な権力を手にしたい、それが政治的野心を持つ上流貴族たちの夢だったのです。
このままだと自分の娘・弘徽殿の女御よりも先に、光源氏が後見している斎宮の女御が皇子を出産してしまうかもしれない。
そんな風に権中納言が思うようになったとしても、不思議ではない状況でした。そこで権中納言は畏れ多くも帝を「弘徽殿にも珍しい絵がありますよ」と、絵で呼び寄せます。光源氏に負けてなるものか。そのような思いも当然あったでしょう。面白い物語に絵をつけた絵巻を作り、弘徽殿の女御のところでしか、帝にその絵を見せてはくれません。
「この絵巻を斎宮の女御と一緒に見たい」という冷泉帝の言葉にも、「これは非常に大切な絵巻なので」と断るほど。ちょっと子どもっぽいですよね。このことを聞いた光源氏は「権中納言は、いつまでも競争心を露わにして大人げないな」と笑い、「こちらにも古い名画がたくさんあるので、帝に差し上げましょう」と、紫の上と一緒に自邸の棚からあれこれと絵を選びました。
それを耳にした権中納言はさらに競争心をむき出しにし、自邸で絵や詞書(ことばがき / 物語の本文)はもちろん、巻き物の軸や紐の飾りにまで贅を尽くし凝った意匠の傑作を制作。ちょうどその時期は宮中にこれといった行事がなかったため、女房たちも熱気にのまれ、その絵について論じあったりする者も。このようにして2人の女御のもとに集まった様々な絵巻は、光源氏の発案により絵合せで勝負をつけることになりました。さて、勝つのはどちらでしょうか!?
斎宮の女御 VS 弘徽殿の女御~前哨戦:藤壺の女院御前絵合せ
今回の絵合せですが、斎宮の女御は左方で方人は平典侍(へいてんじ)と侍従の内侍(ないし)と少将の命婦(みょうぶ)。弘徽殿の女御は右方で、方人は大弐の典侍と中将の命婦と兵衛の命婦。いずれの方人も識者たちでした。偶然この頃、藤壺の女院が参内していたので、この絵合せをお見せすることになり審判になりました。
第一絵合せ:テーマは古今物語絵
最初の絵合せのテーマは物語絵。それぞれ後見人の光源氏と権中納言が用意した絵巻を持ち寄っての披露です。左方は古典の名作『竹取物語』を、右方はこの時代の作品で『宇津保(うつほ)物語』の”俊蔭(としかげ)の巻“。左右にこれらの絵巻を並べ、方人たちが論評を繰り広げます。
先行は左方・斎宮の女御で、この絵巻は光源氏のセンスが光る逸品でした。というのもパッと見た目にはごく普通の仕立てですが、上質の紙屋紙に輸入品の唐錦を裏打ちし、表紙は赤紫で軸は紫檀を用い、上品でセンス良く落ち着いた雰囲気なんです。絵師は大和絵の巨匠・巨勢相覧(こせの おうみ)が描き、詞書は紀貫之。
これを左の方人は「『竹取物語』は古くからあるお話で、取り立てて新しいわけではありません。けれどかぐや姫がこの世の濁りにも染まらず、自分の意思を貫いて天上へ帰ったことは格別。神代の話とはいえ、思慮の浅い女にこの良さは分からないでしょうけど」と応援します。
それを右の方人は「かぐや姫が帰ったという天上の月の都は誰も知らないでしょう? この世の縁を竹の中で結び生まれたので、下賤な生まれだと思われます。竹取の翁の家だけを照らす光しかなかったようで、宮中に入内しなかったではありませんか。右大臣の安倍御主人(あべの みうし)が大枚をはたいて求めた火鼠の裘(かわごろも)がメラメラと燃えたり、車持皇子(くるまもちのみこ)は蓬莱山の神秘な事情を知っているのに、偽物を作らせてごまかそうとする。そんなところは、いかがなものかと」と反論。こう言われては、左の方人は何も言い返せません。
つづいて後攻・右方の弘徽殿の女御から出された絵巻は、白い色紙に青い表紙をつけ黄玉を軸にしたもの、と書くとそれほどではないように思えますよね。しかし権中納言が贅を尽くして娘のために作った絵巻なので、これが見目鮮やかで派手な当世風の体裁でした。
軸の黄玉ですが、原文には特に「唐」という文字が入っていないようなので、これは国内で採掘し権中納言への献上品だったのかもしれません。色味的にも青い表紙にぴったりです。その青い表紙は青い綾織りの絹表紙だったのかもしれません。
誰が見ても、それはそれは贅沢な絵巻だったのでしょう。絵師は当代きっての名人と謳われる飛鳥部常則が担当し、詞書は能書家の小野道風でした。
『宇津保物語』の内容を簡単に紹介すると、遣唐使として渡唐しようとした際、船が難破し波斯(ペルシア)国へ漂着した主人公・清原俊蔭が、天人や仙人から琴の秘曲を伝えられ帰国して云々……という奇譚です。この派手な絵巻を前に、右の方人は「俊蔭は激しい波風にもてあそばれ、見知らぬ異国に辿り着きましたが、結局は目指す目的を叶え、外国の朝廷にも我が国にも珍しくもありがたい楽才を広めてくれました。絵の様子も、唐の国と我が国とが合わせて描かれていて、なんて素敵なんでしょう」と熱弁。
「自分の意思を貫くため、かぐや姫は養父母を見捨てたけれど、俊蔭は船が難破しようとどうなろうと、目指す目的を果たして帰国したのよ。こっちの方が志は高いのよ」と言外にも匂わせています。
『竹取物語』の時と同じように、左の方人は何も言い返せませんでした。様子を見守る斎宮の女御付き女房たちの、悔しがる様子が想像できそうです。
第二絵合せ:テーマは平安貴族が主人公
次の絵合せのテーマは平安貴族が主人公の物語で、左方は歌物語の『伊勢物語』を、右方は『正三位(しょうさんみ)』です。『伊勢物語』は在原業平が主人公のモデルとなった一代記的な作品で、業平が清和天皇の皇太后である二条后(にじょうのきさき / 藤原高子のこと)との悲恋の末に東国をさすらい、さらに伊勢斎宮と密通してしまう、という内容です。
対する『正三位』の内容ですが、令和の今となっては詳細が分かりません。けれど、どうやら”兵衛の大君“という呼ばれる女性が、それほど高貴な出自ではないにもかかわらず入内し、帝の寵妃となって正三位の地位にまで上り詰める出世譚のようです。どちらもドラマチックな内容ですが、華やかさの点から見ると宮中を舞台にした『正三位』に軍配が上がりそうですよね。
光源氏が選ぶ絵巻の装丁はたしかにセンスがあり上品ですが、内容が真面目というかなんとなく地味だと思いませんか?一方、権中納言が選ぶ絵巻は装丁が派手なばかりではなく、内容も当世風でワクワク。絵巻のチョイスにも2人の性格が表れていそうです。
この対決は、左の方人の1人・平典侍が和歌を披露して応援しましたが、その甲斐なく右の方人・大弐の典侍に和歌で返され、またもや劣勢に。
鍵を握るは藤壺の女院
その時です。絵合せを見守っていた審判の藤壺の女院が「正三位にまで上がった兵衛の大君の志は、たしかに捨てがたいものではありますが、世に聞こえた在五中将(在原氏の五男で中将だった業平のこと)の名を汚すことはできますまい」と、さらに和歌も付け加えて左方を擁護してくれたのです。こうして藤壺の女院御前絵合せは、斎宮の女御側の逆転勝利となりました。
勝てると思ったのに、女院の一声で負けるなんて。弘徽殿の女御側にしてみれば、今回の絵合せの結末には納得できなかったことでしょう。本当の勝負は光源氏が提案した帝の御前絵合せにもつれ込みました。
本番前の下準備は入念に
権中納言の場合
この結末は当然、権中納言の耳にも入ります。そして帝の御前絵合せこそ負けられない!とばかりに、自邸へ秘密の部屋を準備し新たに絵巻を作らせました。
絵巻を作成するにあたり基本的にかかる費用は、絵師や詞書を書くための能書家へ支払う人件費と、料紙や軸などの材料費。当然のことながら絵師や詞書を一流の人物に頼めば、人件費はさらに増加。しかも料紙に唐錦で縁飾りをつけたり軸を黄玉にしたり……、と装飾をすればするほど費用がかさみます。これらのことができてしまうのは、経済的に権中納言一家が豊かなためにほかならないでしょう。権中納言の父・摂政太政大臣からの資金援助も期待できそうです。
権中納言と光源氏は若い頃からなにかにつけて競い合う仲。身分的には桐壺帝の皇子(光源氏)と桐壺帝の甥(権中納言)ですが、年齢は権中納言の方が5歳ほど上です。2人の子どもたちの年齢はというと、これはちょうど同年齢の男女がいました。
それは冷泉帝と弘徽殿の女御です。そう、2人の女御が寵を争っている冷泉帝は、光源氏と藤壺の女院とが不義密通し生まれた子どもなんです。もちろんこのことはトップシークレット。事実を知る者は当人たちを含めごく僅かで、冷泉帝と表向きは彼の父である桐壺帝すら知りません。今回、藤壺の女院が斎宮の女御側の味方についたのは、帝の実父である光源氏が後見しているからとも云えましょう。
それでも表から見れば、斎宮の女御に藤壺の女院が味方したことには違いありません。お家繁栄が懸かる、この勝負に権中納言は負けるわけにいかないのです。
斎宮の女御には女院がついていますが、弘徽殿の女御にもなかなか頼もしい味方がいました。それは朱雀院の母・弘徽殿大后と朱雀院の尚侍・朧月夜です。大后は桐壺帝時代の弘徽殿の女御で、朧月夜の姉です。そう、弘徽殿の女御は2人の姪に当たるんです。2人とも可愛い姪のため、政敵・光源氏が後見している斎宮の女御に勝つために、秘蔵の絵巻を弘徽殿の女御へ贈りました。さらに弘徽殿大后の息子である朱雀院からの下賜品も。
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イケメンでスーパーエリート!なのに光源氏のワンランク下の男「頭中将」ってどんな人?
光源氏の場合
こうなるといくら女院が味方してくれるだろうとはいえ、光源氏も負けてはいられません。こちらもお家の繁栄が懸かっているのです。権中納言との御前絵合せを提案したのも計算のうち。売られたケンカは買う!そして勝って相手を打ちのめす!そんな政治家としての心情が読み取れそうですね。
彼は自邸にある数々の名画の中から紫の上と一緒に、これは!と思うものを選別。選んだ絵の中には、須磨明石へ流謫した時の様子を自ら描いた日記絵もあり、それは見る人の心を打ち涙を禁じえないものでした。光源氏は数年前に自分自身が招いたこととはいえ、恋愛関係のもつれから失脚し、ごく数人の従者とともに都から離れた須磨明石の土地で暮らしていたのです。この時に主人不在の邸宅をひとりで守っていた紫の上は、この絵を見て当時を思い出したのかはらはらと涙を流しました。
光源氏の名画集めは順調だったようで、さらに斎宮の女御のことを密かに想っている朱雀院からも、年中行事絵など多くの絵が寄贈されました。
斎宮の女御 VS 弘徽殿の女御~本番:冷泉帝の御前絵合せ
いよいよ御前絵合せの開幕!
冷泉帝の御前絵合せは3月20日すぎに行われました。藤壺の女院の御前絵合せの時と同じく、斎宮の女御は左方で弘徽殿の女御は右方です。開催場所は帝が日中過ごす清涼殿の西表に決まり、絵を並べるため内部を少し工夫して空間を確保。この時期はちょうど宮中での主な行事がなかったこともあり、御前絵合せは注目の的だったようで、後涼殿の東側には殿上人(宮中への昇殿を許された上流貴族)が見学のために控えました。
今回の審判は当代きっての風雅人で光源氏の異母弟・帥宮(そちのみや / 後の兵部卿宮)です。藤壺の女院は、会場となった場所に隣接している朝餉(あさがれい)の間から、間仕切りの衝立を開けて成り行きを見守るようでした。
準備が整い左右の絵は、宮中に出仕している子どもたちにより会場へ。子どもたちの衣装や絵巻を納めた箱を乗せる台、敷物などの色どりは、左方は赤色を右方は青色をそれぞれ基調としていて統一感があります。
原文に対戦数は書かれていませんが通常物合せは複数対戦で、員刺(かずさし)が勝ち点を数えます。その対戦のひとつに、左方は朱雀院から贈られた年中行事絵を出しました。この絵巻は院が所蔵していただけのことはあり、歴史に名を残す絵師が描く風情豊かな名画でした。対する右方からは華やかで当世風な絵巻が。これはこれで見る人の心を惹きつけます。方人たちが応援する弁舌にも力が入ったことでしょう。そのようにして進む絵合せの最中で判定が不安定な時には、時々藤壺の女院がおのれの確かな鑑識眼から意見を述べてくれました。
権中納言が新たに作らせた絵巻は女院の御前絵合せの時と同じように、内容も装丁も目新しくワクワクする可能性が潜んでいます。名人と呼ばれる当代の絵師たちが描く優美で華やかな絵に加えられるのは、名のある能書家たちの流麗な筆致からなる詞書。
決められた女御側を応援する方人といっても人の子です。このような絵巻を目の前にすれば、心は動いてしまいます。
そのため審判が判定に困るような場面も。そんな時に女院が適切なサポートをしてくれるので、光源氏にとってはありがたいことでした。権中納言からすると、ありがた迷惑かもしれませんけどね。
最後の勝負にはあの絵巻が登場!
さて御前絵合せですが、どちらも甲乙つけがたく勝敗が定まらずに夜に。絵合せは残すところあと一巻ずつ。これが最後の勝負です。冷泉帝をはじめ会場内の全員が見守る中、左方が出したのは光源氏の手による”須磨の絵日記“。何枚かあった須磨明石の絵の中で、特に浦々の景色が描かれているものを絵巻に仕立てたようでした。
会場内に居並ぶ人々は、今は内大臣の地位につき政治家としての手腕を振い、華やかな生活を送っている光源氏が、ほんの数年前には都から離れた土地で寂しく暮らしていたことを知っています。自分自身の地位が危なくなる可能性を承知のうえ、流謫中の光源氏のもとを訪ねた権中納言も、当時の様子を思い出したことでしょう。きちんとした漢文体ではなくて、草書体に仮名文字が時折混ぜてあるのが、またしみじみと感慨深く涙を誘います。
最後の一戦に右方の権中納言も特に優れた絵を用意していましたが、このように素晴らしい絵を見せられては、もう何も言えません。それまでの絵合せのことはなかったかのように、この絵が一番!圧巻!とされ、左方の勝ちとなりました。
実のところ光源氏は、この絵日記を藤壺の女院だけには見せたいと思っていました。というのは彼が須磨明石へ流謫したのは、2人の間に生まれ、光源氏が後見していた東宮(現在の冷泉帝)が廃宮されてしまうかもしれないおそれがあったから。東宮を守るために自ら進んで須磨へと流れたのです。
もっともその原因を作ったのも光源氏本人。朱雀院が帝だった頃のことですが、朱雀帝が寵愛していた朧月夜の尚侍と、こともあろうに彼女の実家で密会していたことが、朧月夜の父である当時の右大臣と弘徽殿大后にバレてしまったのです。弘徽殿大后や右大臣にしてみれば、桐壺帝の寵を奪った憎き女・桐壺の更衣の息子にして政敵である光源氏を陥れる好機到来。またとないチャンスです。ついでに彼が後見している東宮を廃宮にできる可能性も。そのような事態に陥らないためにも、公に刑が言い渡される前に光源氏は須磨へと流れたのでした。
だからここで、”須磨の絵日記“を女院だけには見せたいと思い、さらに冷泉帝の御前絵合せで披露したことに、筆者は光源氏の身勝手さを感じてしまいました。もとはといえば自分自身の行いが原因なのに、「私はあなたのと間に生まれた東宮(とあなた)を守るために、このような場所で蟄居していたんですよ」と押しつけがましい態度に思えたのです。ただこれらもひっくるめたものが、光源氏の愛とも思えます。もしかしたら平安時代にも『源氏物語』を読んで、「己の女好きが招いた災いやないかーい」とツッコミを入れた貴族がいたかもしれませんね。
御前絵合せのその後
冷泉帝の御代の御前絵合せが終わり、2人の女御がその後どうなったのかといえば、斎宮の女御は、後に帝の妃の中では最も高い位の中宮となりました。立后争いに敗れた弘徽殿の女御は、その後も女御のままのようでした。権中納言はこの御前絵合せが終わった時、娘が斎宮の女御に気圧されていくのではないかと案じましたが、どうやらそれが当たってしまったようです。それでも帝とは年が近いこともあり最初に後宮入りした妃ということで、変わらぬ寵愛を受けてはいたようです。
光源氏と権中納言のその後はというと、光源氏は太政大臣に昇進し最終的には准太上天皇(太上天皇の次の位)へ。権中納言も右大将から内大臣を経て太政大臣に。2人とも太政大臣という朝廷の最高位に上り詰めますが、昇進した年齢は光源氏の方が早いんですよ。
斎宮の女御と弘徽殿の女御、光源氏と権中納言。今回の絵合せによって彼らのその後がすべて決まったわけではないでしょう。けれど主だった貴族から見れば、摂政太政大臣とかつての右大臣を両祖父に、権中納言を父に持つ弘徽殿の女御よりも、絵合せの勝者となった斎宮の女御に立后性を感じたと思います。
なぜならば帝だって人の子。寵愛度が同じ程度の妃だったら勝者側がキラリと光って見え、そちらに目が向いても不思議はありませんよね。将来性を見越して光源氏側につく貴族が多ければ、それだけ宮中での発言力が増します。今回の絵合せの勝敗が今後の勢力分布に影響を及ぼすことを光源氏も権中納言も知っていたので、どうしても勝ちたかったのです。
紫式部が書いた大長編小説『源氏物語』は、「絵合」の後も続きます。和樂webでは『源氏物語』関連のさまざまな読み物があるので、こちらも併せてご覧ください。
参考文献
『窯変 源氏物語5』橋本治著 中央公論社 1991年9月
『ものと人間の文化史94 合せもの』増川宏一著 法政大学出版局 2000年3月
『源氏物語の脇役たち』瀬戸内寂聴著 岩波書店 2000年3月
アイキャッチ画像:『源氏物語図屏風(絵合・胡蝶)狩野〈晴川院〉養信筆』東京国立博物館所蔵 出典:ColBase
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