ごぞんじ黒船来航の一幕
ときに嘉永6年6月3日(1853年7月8日)申の刻(15時~17時くらい)、米国使節として軍艦4隻を率いたペリー提督が、浦賀湾頭に錨を投じました。江戸湾を通航する船舶を監視する幕府の浦賀奉行所から、与力の中島三郎助が通詞の堀達之助を随え、旗艦サスケハナ号に向かい、退去命令書を示そうとしましたが、登艦を拒まれました。達之助は米国人漂流者ラナルド・マクドナルド(Ranald MacDonald, 1824年2月3日-1894年8月5日)から英語を習っていたので英語で交渉し、ひとまず登艦することが出来ました。
ペリーは、真っ先にやって来た小役人に対して姿を見せず、副官に応対させました。そして、「予は貴国を代表する高官に、大統領の国書を捧呈したいのだ」と、地位の高い者と面会することを求めていると、伝えさせました。
浦賀奉行所では与力の香山栄左衛門を奉行の替え玉として差し向けましたが、ペリーは姿を現さず、サスケハナ号(USS Susquehanna)艦長のフランクリン・ブキャナン(Franklin Buchanan、1800-1874)以下3名の士官に交渉させました。栄左衛門は長崎に回航するよう要求しましたが、艦長は肯んぜず「貴国政府が国書受領に相応しい高官を派遣しないなら、武力に訴えてでも上陸し、提督みずから将軍に国書を呈したい」というのでした。栄左衛門は「幕府に報告してから回答する」といって、三日間の猶予を貰いました。
アメリカの軍艦が浦賀沖に現れたのは、1846年にもあったことですが、今度は蒸気軍艦で来たという噂が広がるにつれ人心は動揺しました。
外国からの親書を浦賀奉行が受け取ることは国法の禁ずるところです。しかし、いま国書受領を拒絶すれば戦禍を招きかねません。この場は、ひとまず国書を受領して、アメリカ艦隊が去ったのち、じっくり協議して国是を定めようということになり、井戸弘道と戸田氏栄の両名を浦賀に派遣、6月9日に久里浜で国書受領の式典を執り行いました。
ペリー艦隊は日本からの答書を受け取るため、翌年の再航を予告して浦賀を去りましたが、黒船ショックは攘夷論を過熱させ、幕末の動乱を呼び起こすことに。
よくあるペリー来航の説明は、だいたいこんな感じです。これが日本から見た「黒船来航」ですけれども、今回の記事は逆サイドのアメリカから「日本遠征」の様子を見ていきます。
ペリー 著『日本遠征記』について
アメリカ合衆国海軍のペリー提督(Matthew Calbraith Perry, 1794-1858)が率いた・東インド艦隊(East India Squadron)が、浦賀沖に現れたのは嘉永6年6月3日(1853年7月8日)のことでした。このあと兄のオリバーについても言及するので、ペリー提督のことはファーストネームで「マシュー」と表記します。
この浦賀来航と、翌年の日米和親条約の締結とは、幕府が欧米諸国と外交関係を結んでいくきっかけとなりました。
このときの記録をまとめた『日本遠征記』全3巻は、マシューが遠征中に記していた航海日誌や公式書簡を中心に、他の多くの関係者の日記や報告書を元に、編纂、執筆されたものです。
日本遠征は外交的な成果ばかりか、それまでの日本研究を凌駕する学術的な成果を得ることをも意図して、多くの学者や研究者を船に同乗させていました。また、画家や写真家も遠征に参加させ、多くの貴重な資料画像も現代に伝えています。
ところが、南北戦争の勃発によってアメリカの日本進出の足は止まります。戦争が終結すると、日本では明治維新という急激な情勢変化が起きました。ですから、マシューがもたらした日本の情報が、ただちに政治や経済に活用されたとは言い難いでしょう。でも、外国人から見た幕末の日本の様子を伝える史料としての価値は、いまなお失われていません。
マシューのことは何と呼ぶ?
白状すると、ワタクシは横文字が大の苦手で『日本遠征記』を原語で読むことができませんが、出来ないなりに、字面を眺めてみました。
マシューの階級は代将(Commodore)です。かつて多くの国の海軍は大佐 (Captain)を最高位としていました。大佐は大きな軍艦の艦長を務める階級です。複数の軍艦を率いる「提督」は艦長とは別に任命されます。大佐を最高位とする場合は、将官(admiral)がいないので、特別な任務のため複数の軍艦を指揮する提督が、一時的な階級である代将に任じられるということのようです。まあ、提督と呼べば間違いないでしょう。日本側の史料では、「水師提督」と記していますので。
東インド艦隊(East India Squadron)は、原語だと艦隊(fleet)ではなく戦隊(squadron)です。しかし、当時の米海軍では「戦隊」の上位に置かれる「艦隊」が編成されなかったので、実質的には艦隊ではないかと思います。また、各種文献でも「東インド艦隊」と記述されていることが多いので、たぶん「艦隊」と呼んで差し支えないでしょう。マシューのことは、米海軍の東インド艦隊を率いる提督と表記することにします。
父も兄も
マシューは1794年4月10日、ロードアイランド州サウスキングストンで生まれました。1776年にアメリカ独立が宣言されて、間もない頃です。
父のクリストファー・レイモンド・ペリー(Christopher Raymond Perry、1761-1818)は、アメリカ独立戦争で私掠船に乗り組んで戦った海の漢でした。戦後は商船の船員を経て海軍士官になりました。
そして、兄のオリバー・ハザード・ペリー(Oliver Hazard Perry, 1785-1819)は、「エリー湖の英雄」と呼ばれた伝説的な海軍士官で、後世、駆逐艦やミサイルフリゲート艦に彼の名を命名するほどで、アメリカ史上の著名人です。アメリカで「ペリー提督」といえば、まず兄オリバーのことが思い浮かぶそうです。
このように、父も兄も海軍士官でしたから、当然のようにマシューも14歳で海軍士官候補生に志願したというわけです。
蒸気船へのコダワリ
マシューが浦賀を訪れる前、1837年にアメリカ商船のモリソン号が、日本人漂流者を送り届けに来ましたが、日本は異国船打払令に従い、話も聞かずに砲撃して追い払いました。
非武装の商船では無理だということで、1846年にはジェームズ・ビドル(James Biddle, 1783- 1848)提督が2隻の軍艦を率いて浦賀に来航しましたが、通訳の勘違いで警固の武士にブン殴られた挙げ句、刀を抜いて威嚇されるという目に遭い、穏やかな交渉は無理だと見て引き揚げています。
丸腰では撃たれる、大砲をたくさん載せた戦列艦の威容を見ても怯まない……と、なると蒸気軍艦ならどうでしょう。盛大に煙を上げる煙突といい、グルリと回る大きな外輪といい、見た目のインパクトは大きいです。
この時期は、蒸気軍艦が登場したばかりで、まだまだ珍しいものでした。帆船と違うのは蒸気機関を載せているため、機関の運用やメンテナンスの技術を習得した人材が必要な点でした。そして、遠洋航海には燃料である石炭を備蓄した中継拠点が必要でしたし、帆船には必要ない石炭の積み込みというたいへんな労力を要する作業が必須です。そういった新しい仕事に従事する人たちの待遇をどうするかも考えなければなりませんでした。
ペリーは蒸気軍艦の導入に尽力した人で、1837年にはブルックリン海軍工廠の造船所長として、アメリカ海軍で2隻目の蒸気軍艦フルトン号(USS Fulton)を建造しています。そして、1841年には外洋も航行できる蒸気軍艦ミシシッピ号(USS Mississippi)を建造しています。
1846年から1848年にかけての米墨戦争(アメリカとメキシコの戦争)で、ペリーはミシシッピ号艦長として参戦、のち本国艦隊の司令官に就任しています。
ペリーは、蒸気軍艦を建造し、みずから乗り組んで戦った、まさに新時代を切り開いた人でした。
日本遠征計画
19世紀前半、まだアメリカ西海岸には開発の手が及んでいません。1848年にメキシコとの戦争に勝ったアメリカは、サンフランシスコやロサンゼルスなど、太平洋岸の港湾都市を獲得しました。それまでアメリカとアジアとの貿易には大西洋を横断し、アフリカ南端の喜望峰を経て、マラッカ海峡までインド洋を横断するという、かなりの遠回りを強いられていました。太平洋に航路を開けば、東アジアはグッと近くなります。
しかし、北米西海岸から太平洋を横断、さらにインドまで行くとすると、中継拠点が必要でした。そういうわけで、ビドル提督が日本を訪れたときに比べると、日本に開国を求める意義は格段に増していたのです。
蒸汽船の航海には是非とも途中に於て石炭を積込まねばならぬ。然るに日本は亜米利加、支那、印度との丁度真中にある国であるから、米国の商船が日本に於て石炭を搭載することを得れば、米国の商売の為非常な利益となるし、且日本は鎖国主義を執ると云ふものの、和蘭人には通商を許して居るのであるから、他の外国にのみ之を断ると云ふ理由はない、是非とも日本と和親通商条約を結ぶ必要があると云ふ考が上下の別なく米国人一般の頭に浮んで、忽ち一問題となつたのである。
日本に石炭の補給所を建造できたなら、日常的に石炭を必要とする艦船が日本列島を訪れることになります。それらの艦船の安全を確保するためには、海図と灯台が必要です。また、西太平洋には大型船を修理できる設備がなかったので、それも建造しておきたいところです。それゆえ、アメリカは日本に開国を迫ったのでした。
何人かの海軍士官が、日本遠征プランを立案しましたが、そのうちの一人がマシューでした。採用されたのは、その時期に東インド艦隊を率いていたジョン・H・オーリック(John H. Aulick、1787/1791年頃-1873年4月27日)のプランでした。国務長官ダニエル・ウェブスター(Daniel Webster, 1782年1月18日 – 1852年10月24日)は、太平洋航路が開かれれば、世界を一周する海上交易路の最後の鎖が結ばれるとして、オーリック提督に日本皇帝に宛てた国書を、有力な蒸気軍艦を率いて江戸まで届けるよう指令しました。
提督更迭
ときの大統領ミラード・フィルモア(Millard Fillmore, 1800年1月7日-1874年3月8日)は、前大統領の急死によって副大統領から昇格した人でした。
日本遠征艦隊を率いたオーリックは、航海中に旗艦サスケハナ号の艦長とトラブルを起こし、艦長を更迭してしまいました。しかし、遠征艦隊に便乗させていた駐ブラジル公使の讒言によって、今度は自分が更迭されてしまいます。オーリックは帰国後に潔白を証明したけれど、問題なのはオーリックが無用のトラブルを重ねて起こしていることでした。そういう人は、我慢強さを要求される外交使節として適任ではない、ということです。その後任に選ばれたのがマシューでした。
実をいえば、マシューの遠征が始まった時点でフィルモアは大統領選に敗れており、艦隊が日本を訪れる頃には任期が終わっているというタイミングでした。
マシューは自分より格下だったオーリックの後任を務めることに難色を示したともいわれますが、以前から日本への強い関心を示していたくらいで、実際のところ、まんざらでもないと思っていたことでしょう。
久里浜上陸
バージニア州ノーフォーク鎮守府を大統領親書とともに出航したマシューは、ミシシッピ号を旗艦とする4隻の艦隊(うち蒸気軍艦2隻)を率い、マデイラ諸島を経て喜望峰を回り、モーリシャス諸島、セイロン島を経由してインド洋を横断、シンガポール、マカオ、香港、上海、琉球(沖縄)を経由して、嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、浦賀沖に投錨しました。
そのとき日本側から見た様子は、この記事の冒頭に記したとおりです。ここで、アメリカ側から見た国書捧呈式の様子を見てみましょう。
斯うして大統領の信任状、並に提督から皇帝に宛てた二通の手紙が載せ終はると、ポートマンは提督の指図で達之助に文書の性質を夫々説明した。其の間達之助と栄左衛門とは跪いた儘頭を低げて居た。やがて栄左衛門は起上がつて石見守に近づき、其の前に跪いて手紙の巻いたのを受取り、夫を持つて提督の前に来て跪いて渡した。通訳のポートマンが其の手紙は何かと尋ねると国書の受領書であると答へた。其の文意は、――亜米利加合衆国大統領の書翰及び添書とも確に受取りました。就いては早速皇帝の御許に廻す事に致します。一体浦賀は外国に関した事柄を取扱ふ場所でないに由つて、長崎に赴くべき旨幾度諭すも、此の地に於て書翰受取られざる場合には、提督は大統領の使節としての使命を辱め、一分立ち難き趣なるにより、此の度は其の苦労を諒察し、国法を曲げて件の書翰を受取つた次第である。固より此の地は外国人と応接すべき場所でなく、従つて何等の商議も饗応も致す事は出来ないから、書翰が受取られた上は、速かに帰帆せられたい――と云ふのであつた。
暫時沈黙の後、ポートマンは提督の命に由つて、提督は二三日の内に此処を出発して琉球から広東に赴き、来春四五月の頃再び日本に帰来る都合であると語つた。すると達之助は通訳に、もう一度言つて呉れと求めた。通訳は前通の言葉を繰返して答へた。すると又
「提督は軍艦四艘で帰つて来るのでせうか」と尋ねた。
「全艦隊を率ゐて来ます。これは艦隊の一部だから、其の時は軍艦の数も更に多いでせう」と提督は答へしめた。
久里浜では国書の受け取りがなされただけで、具体的な外交交渉は行われませんでした。そして、半年後の嘉永7年1月16日(1854年2月13日)、ぺリーは再び旗艦サスケハナ号ほか7隻(うち蒸気軍艦3隻)を率いて横浜沖にあらわれます。
神奈川条約と下田条約
マシューは、香港で将軍徳川家慶が1853年7月27日に死去したことを知りました。おりしも中国大陸は太平天国の乱で政情は極めて不穏でしたし、日本においても将軍の世代交代による情勢変化を懸念したのでしょう、「来春四五月の頃」と予告していたのに、2月に来航したのでした。
再度の来航は、蒸気軍艦3隻を含む全7隻を引き連れていました。のち2隻が加わり9隻の大艦隊になりました。当時、アメリカ海軍が保有していた蒸気軍艦4隻のうち3隻が江戸湾に入ったのでした。ただし、サスケハナ号が別命を受けて清国へ向かい、艦隊旗艦がポーハタン号に移るなど、任務の都合で出入りがありましたので、9隻全部がずっと江戸湾に居座っていたわけではありません。
2月13日から浦賀奉行所の組頭で、のちに一橋慶喜の用人となった黒川嘉兵衛が、アメリカ側のアダムス中佐と、応接の場所について折衝しました。そして、3月6日、横浜に応接所が完成、3月8日にアメリカ側は総勢446人を横浜に上陸させました。
横浜応接所で、日本側はアメリカ大統領の親書に対して、薪水、食料、石炭の供与と、難破船ゆよび漂流民の救助は了承するが、通商の件は拒絶すると回答しました。
この辺は微妙なところですが……かねて幕府は外国船を見つけ次第に追い返すという無二念打払令を撤廃して、薪水給与令に切り替えていました。燃料や水を供給するだけなら通商のうちに入らないし、鎖国は維持されているわけです。通商を認めなければ「開国」したうちに入らないのだから、薪水給与令を拡大解釈すれば、日米和親条約を結んでも海禁政策を維持したことになると考えていたように思えます。
通商が伴わないから、難破船や漂流者の一時的な滞在は認めても、貿易をするわけではないので外国人居留地は設定しません。また、日本人の海外渡航禁止は、まだまだ続くわけで、まだギリギリ鎖国なのです。いよいよ開国したといえるのは、日米修好通商条約が結ばれてからのことです。
それはさておき、アメリカ側は意外にあっさり通商要求を取り下げました。そのかわり、5年の猶予期間ののち避難港を開くこととし、下田と箱館の2港開港が合意されました。ただし、まだ貿易はしません。アメリカ側は、下田の遊歩区域と下田にアメリカ人の役人を駐在させることを要求しましたが、日本側は「貿易を始めるならともかく、たまに薪や水や食料を供給するだけだから必要ない」と回答しています。やっぱり幕府は開国したと思ってないんじゃないかと思います。
3月31日(嘉永7年3月3日)、全12か条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結され、6月17日(嘉永7年5月22日)には和親条約の細則を定めた全13か条からなる下田条約が締結されました。
予告より早い大艦隊の来航に、幕府は驚いたものの、前回と同じ様に双方とも空砲を撃って威嚇しながらも、さほど険悪なムードにはなりませんでした。マシューは、日本側の威嚇をまるで意に介していませんでした。
江戸の前面には一帯に高い木柵らしい物が立連ねてあつて、折々其処を開いては猪牙舟や伝馬船を通して居るが、之は波戸場が海水に洗はれるを防ぐ為に設けられたものか、夫とも敵の攻撃を防禦する為か頗る判断に苦しんだ次第であるが、木柵を設けたのは亜米利加艦隊の来航した結果であつて、万一亜米利加人が暴力を以て上陸せんとした場合には、此処で短艇の接近を防止しようとの考であつた事は疑ない。けれども吃水の浅い二三艘の軍艦と、大きな大砲とさへあれば、江戸の市街を破壊するには造作もないらしかつたのである。
アメリカ側は、むしろ友好ムードを演出するため、蒸気機関車1/4模型(いまのミニSLみたいに、人が跨いで乗ることができる)をはじめ、様々な贈り物をもたらしたほか、日本人が鯛を好むことを知っていたので、船上で日本側使節をもてなすため鯛を漁獲して料理するなどしました。
冷蔵設備がない時代の遠洋航海の食糧事情は、なかなかキビシイものがあります。肉も野菜も新鮮な食材は手に入りませんからね。アメリカ側は粗食に甘んじながら、日本側使節に対して最大限の厚意を料理に込めたといえましょう。
五月二日にはマセドニアン号が奇麗な■亀を沢山積んで小笠原群島から帰着したので各艦の歓迎は素晴しく、何れも其の分配を悦んだ。と云ふのは、日本では仏教や在来の習慣の関係から肉食を嫌忌する為下田の市場には、新しい肉類が甚だ乏しく、漸くの事で少し許の獣類を食用として得らるる外、鶏も非常に少く、従つて此等家禽の価は恐ろしい程高価であつたので、魚類と野菜との外は、ビスケットと牛肉の塩漬で長い間困しめられて居た船中の人々には、■亀の到着が如何程悦ばれたか、殆ど想像するに余りあつた。
※■は(虫+焦)です。ウミガメのこと。
こんな食糧事情では、遠洋航海の間に体調を崩して病死する人も少なくないわけですよ。むかしの船旅は、辛かったでしょうね。
さて、日本での任務を完遂させたアメリカ海軍東インド艦隊は6月25日(嘉永7年6月1日)に下田を去り、そのあと琉球王国と通商条約を締結させました。
琉球占領計画
マシューの日本遠征で、最も重要なのは西太平洋に補給拠点を設けることでした。蒸気軍艦の燃費がどれくらいかというと、せいぜい一ヶ月で石炭庫が空になったようです。順調な航海でも太平洋横断には18日くらいかかっていますから無補給で往復は出来ません。燃料節約のため帆走するにも逆風だったら操船するのがたいへんだし、無風だったらカマに火をくべるほかないのです。だから、是非とも補給拠点は確保したかったのです。もし、日本側が開港要求に応じなかったとしたら……マシューには沖縄を占領してアメリカの統治下に置くというプランがあったといわれます。
提督は、アメリカ市民に対する酷い待遇を改めるよう要求するとの自分の使命が容易に達せられると信じたが、それにもかかわらず、いかなる失敗をも防ぐ準備を行った。沖縄(琉球)をアメリカ国旗の管理下におこうと用意していた。もしそれが必要ならば、アメリカ市民に対して行った周知の無礼陵辱への抗議を理由として、このことを行う筈であった。
在ニューヨーク日本国総領事館webサイト『日本遠征関連逸話集』「8.幕府の対応次第では、沖縄はアメリカの管理下に!」より
ホントかよ?
と、思った人も多いでしょう。マシューには独断で戦争を始める権限なんかありません。大統領だって議会の承認なく他国に戦争をふっかけるなんて無理ですから。だったら史料を精査して、ホントかどうか見極めねばなりません……が、なにぶん日本の古文書だって四苦八苦しながら読んでいるのに、アメリカの古文書なんぞワタクシごときに読めるわけありません。そんなわけで、訳書から関連する記述を見つけて孫引きします。その点は御勘弁ください。
で、フィルモア大統領からマシューに与えられた訓令を見ていくと、以下の記述があります。
大統領には戦争を布告する権限はないので、その使節は必然的に平和的性格のもとであることを提督は留意し、麾下の艦船及び乗員を保護するための自己防衛や、提督自身もしくは麾下士官の誰かに加えられた個人的暴行に憤りを発する場合のほかは、武力に訴えてはならない
洞富雄 訳『ペリー日本遠征随行記』p542「解説」三より
雄松堂書店 新異国叢書8 昭和45年第4刷
訓令の主旨は「武力に訴えてはならない」とのことですが、条件付きで例外を認めてますよね。すでに退任を待つ状況のフィルモア大統領は、いささか慎重さを欠いていたかもしれません。
前任者オーリックの更迭により、日本遠征任務を引き継いだマシューは、大統領の訓令を受けてノーフォーク鎮守府を発ちました。そして、大西洋を横断してモロッコ西方の沖合に浮かぶマデイラ島から、ケネディ海軍長官宛てに上申書を送りました。
合衆国を出発して以来、私は、このたびの日本訪問によって生ずるであろう結果について、十分に熟考する閑暇をもつことができた。この一風変わった政府を、実際上の交渉に応ずるように仕向けることに、ただちに成功する機会があるか否かについては、なお、心中に幾分疑問を抱くものであるが、しかも、私は、終局的には、企図している大目的が遂行されるであろうことを確信している。
予備的手段として、また容易に達成し得ることの一つとして、わが国の捕鯨船その他の船舶の避難や物資補給のために、少なくとも一つの港はただちに獲得されなければならない。そして、万一、日本政府が本土にかかる港を承認することに反対し、そして、その港が武力や流血に訴えることなしには占拠することができないならば、わが艦隊が、日本の南にある、良港を有し、水や食糧を入手する設備を備えた一、二の島に艦船集合基地place of rendezvousを設営し、そして、友好的な交渉を生ぜしめるために、親切な行為や寛大な待遇によって、住民を懐柔しなければならないことは、まず最初に望ましく、また必要でもある。
洞富雄 訳『ペリー日本遠征随行記』p543「解説」三より
雄松堂書店 新異国叢書8 昭和45年第4刷
この時代には無線がないので、書類が届くまでのタイムラグが生じます。で、マシューがインド洋を抜ける頃にはフランクリン・ピアース(Franklin Pierce, 1804年11月23日-1869年10月8日)大統領が就任しているわけです。ということは「話がもつれたら、やっちゃうけど良いよね? 答えは訊いてない!」みたいな上申ですよ、これ。事情を飲み込めていない新大統領に、マシューの武力行使を止めさせることが出来るのでしょうか?
1853年3月4日、ピアース新大統領が就任しました。ピアース政権は対日外交方針を転換、「攻撃を受けた際も、防禦と自衛のための最終的手段の場合を除き、武力を用いてはならない」と、武力行使を厳しく制限しました。
しかし、この新たな訓令はマシューが出航したあとに上海まで届いたので、マシューは強硬な姿勢のまま、琉球王国と日本を訪れたのでした。
マシューは琉球王国の事情を知っていて、独立国の体裁を保ちながら実際には薩摩藩の支配下にあること、清国が琉球王国を属邦と看做していることも、先刻承知でした。清国は太平天国の乱で、琉球に援軍を送るどころではないし、日本が横槍を入れるなら報復として江戸を焼き払うくらいは造作もない、というわけです。
武力を行使して琉球諸島から住民を抑圧する者たちを排除し、以後は「親切な行為や寛大な待遇によって、住民を懐柔」することでアメリカによる恒久的な支配が可能だったかどうかは疑問が残りますが、マシューは武力行使による琉球占領を本気で考えており、それは充分にありえたことだと思います。
この琉球占領計画は、日本が開港に応じたことにより「起きなかった」のです。
その後のマシュー
下田・箱館の開港という大任を果たしたマシューは、体調不良に悩まされ、香港で本国政府に帰国を申請し許可を得ました。艦隊を離れ、イギリス船に便乗して西回り航路で帰国の途に就き、その後は『日本遠征記』を出版、貴重な史料を後世に伝えています。
当時の船乗りの宿命か、良好とはいえない食生活のため、アルコール依存症、痛風、リウマチなどを患い、1858年3月4日ニューヨークで死去しました。享年63。
惜しいかな、1861年から1865年にかけての南北戦争で、アメリカは日本へ進出する足を止めてしまいました。また、マシューみずから建造した蒸気軍艦ミシシッピ号もまた、南北戦争で失われてしまいました。
参考文献
丸山健男 著『ペリーとヘボンと横浜開港―情報学から見た幕末』臨川書店 (2009/10/1)
この記事を書くうえで、なくてはならない参考文献でした。
横須賀市が運営する、久里浜のペリー記念館を取材で訪れた際、近隣の横須賀市立南図書館にペリー来航に関連する書籍が多いと御案内くださいました。そして、南図書館の郷土資料の棚で、この本と出会いました。
知りたかったマシューの前半生について詳しく記述されていたし、アメリカの政権交替が対日外交に及ぼした影響など示唆に富む内容です。短時間で拾い読みするだけでは満足できないので、即座に注文取り寄せしてしまいました。それくらいの良書です。