2021年ノーベル物理学賞に選ばれた真鍋叔郎(まなべしゅくろう)さん。日本人としては28人目の受賞者です(現在はアメリカ国籍)。物理学賞は、自然科学系の中でも受賞者が最も多く、真鍋さんを含めて12人。そこで今回は、日本の物理学の基礎を作った、田中舘愛橘(たなかだてあいきつ:1856~1952年)の生涯をお伝えします。
彼の業績から、物理学は世の中にどのように役に立っているのか知っていただければと思います。
16歳で、家族で東京へ移住
田中舘愛橘は、1856(安政3)年、陸奥国二戸(にのへ)郡福岡村(現、岩手県二戸市福岡)に生まれました。
1870(明治3)年、盛岡藩校作人館修文所に入学。同期には、第19代内閣総理大臣になる原敬(はらたかし)がいました。愛橘は原とともに、時代の変化に大きな関心を寄せながら、学問に励みました。
1872(明治5)年16歳のとき、父は子どもたちの学問のため、家屋敷を売り払い一家で東京に移住します。
慶應義塾英語学校、東京開成学校を経て、1878(明治11)年、22歳で創立間もない東京大学(※1)理学部に1期生として入学。学者人生の始まりです。
※1 1877(明治10)年、東京開成学校と東京医学校を元に創立。1886年(明治19)年、帝国大学令によって帝国大学と改称。さらに、1897(明治30)年、京都帝国大学創立により、東京帝国大学に。改編を重ねて学部が増えていきますが、理学部は法学部・文学部・医学部とともに、当初から設置。
東京大学理学部で物理学を学ぶ
東京大学で物理学を学ぶ愛橘。メンデンホール教授の下で、重力測定を学んだ際、「メートル」という単位を知ります(当時の日本は尺貫法)。また、ユーイング教授からは地震学を学びました。2人の外国人教授から学んだことは、大きな影響を与えます。
大学卒業後、学者としてキャリアを積む
1882(明治15)年に東京大学理学部を卒業後、準助教授になった愛橘。日本各地の重力測定を行い、重力測定技術の基礎を築きました。また、地磁気(※2)の観測・分析を行い、地磁気の異常と地震がどのように結びつくかという研究の道を開きました。
1888(明治21)年、イギリスのグラスゴー大学やドイツのベルリン大学に留学。
1891(明治24)年、帰国。同年東京帝国大学理科大学教授(理学博士)に就任。ここからは、愛橘博士と記します。
※2 大きな磁石である地球が持っている磁気(磁場)。
愛橘博士は、多くの業績を残しました。主だったものを、紹介します。
地震研究
愛橘博士が教授になった同じ年の1891(明治24)年10月28日、濃尾大地震(マグニチュード8)が発生。7,273人が亡くなる大惨事でした。
11月12日、大学の命を受け助手たちと現地に向かい、長さ80kmにおよぶ根尾谷(ねおだに)大断層を発見。そして周辺の地磁気を測定した結果、地磁気は地震によって変動する可能性があることがわかりました。
愛橘博士は、
地震そのものに対してはどうしようもないにしても、それから生じる災害については、これを軽減するための予防策を研究するのは、国家として大切なことであるから適当な研究機関を設立したいものだ。
『田中舘愛橘ものがたり』第二章田中舘愛橘の軌跡 3震災予防調査会
と考えました。
その想いが届いたのか、翌1892(明治25)年には、文部省に震災予防調査会が発足。愛橘博士は責任者になり、1894(明治26)年から4年にわたり、全国の地磁気の調査を行いました。
これが、現在につながる防災研究の始まりです。
このころ、愛橘博士は結婚。1894(明治27)年には長女美稲(みね)が誕生しました。しかし、妻は産後の肥立ちが悪く、まもなく死去。周囲の協力を得ながら、シングルファザーとして長女を育てました。
度量衡(どりょうこう)~メートル法の実現~
日本の単位系は江戸時代まで、「尺貫法」でしたが、明治時代に入り外国からさまざまな技術とともに、単位系が流入。整理・統一が必要になりました。
1875(明治8)年、度量衡取締条例・検査規則を布告。1885(明治18)年、日本はメートル条約に加盟。1891(明治24)年、度量衡法を公布。
しかし、度量衡法は尺貫法を基本としつつ、メートル法やポンド・ヤード法なども承認。日常生活だけでなく、産業、軍事、学術、行政のあらゆる面で煩雑な換算のために混乱していました。貿易をしても、日本は尺で外国はメートルだと、取引はスムーズに進みません。
このような状態を受け愛橘博士は、「日本の近代化のために、世界共通の単位系を作らなくては」と感じ、メートル法の普及に力を注ぎますが、難航します。大工は尺貫法で家を建てるし、軍部でも陸軍はメートル法を、海軍はヤード・ポンド法を重視。それぞれ使っている単位系が違うのです。
そんな愛橘博士の力になったのが、同郷の原敬です。原も東京に出てきて、政治の道を歩んでいました。2人は、学問と政治の想いを熱く語り合いました。原は、度量衡の改正に理解を深めていきました。
1918(大正7)年、原は第19第内閣総理大臣に就任。日本の産業発展のために、メートル法を基本にすることが必須と考え、1921(大正10)年4月、度量衡法は改正されました。
このとき愛橘博士と原は65歳。2人で改正を喜び合いました。しかし。
同年11月、原は東京駅で暗殺されました。
愛橘博士の悲しみは計り知れませんが、私には度量法改正は、原が親友愛橘博士に送った最後で最高のプレゼントに思えます。
航空研究
1916(大正5)年、愛橘博士の東京帝国大学教授在職25周年の祝賀会が開かれました。しかしその日に、当の本人は辞表を提出。このとき60歳。後進に道を譲りました(※3)。
その後は、東京帝国大学名誉教授と、1918(大正7)年創立の東京帝国大学航空研究所の顧問になりました。教授時代、風洞(ふうどう)(※4)を手作りし、飛行船の模型をつるして気流の状態を研究していたのです。
この研究所は、日本の航空界に大きく貢献しました(現在の、東京大学先端科学技術研究センター)。
※3 弟子に、原子核物理学者長岡半太郎、天文学者木村栄、物理学者本多光太郎、物理学者・随筆家寺田寅彦、物理学者・ローマ字論者田丸卓郎がいます。
※4 人工的に空気の流れなどを作るためのトンネル型の装置。当時は風筒。
ローマ字普及運動
明治時代に入り、外国との交流が盛んになるにつれ、日本語の発音を外国語に書き換える「ローマ字」が普及しました。米国人宣教師ヘボン氏が考案した「ヘボンローマ字」です。愛橘博士は日本語の国際化のため、「あいうえお」を元にした「日本式ローマ字」を考案。
例えば「SHI」「FU」はヘボン式ですが、日本式では「SI」「HU」となります。
この後、1937(昭和12)年日本式ローマ字は公認されましたが、1945(昭和20)年、連合国軍最高司令官総司令部マッカーサーにより、ヘボン式に戻されました。
愛橘博士の願う、日本語の文章をローマ字で書くという世の中にはなりませんでした。でも、パソコンはローマ字入力が主流なことを見れば、愛橘博士の想いは浸透しているのでは、と思います(この文章をローマ字入力している私)。
晩年の愛橘博士
1945(昭和20)年、戦禍が厳しくなり愛橘博士はふるさとの福岡町に疎開。戦後は東京に戻りますが、夏になると避暑として福岡町で過ごしました。東京で長く暮らしても、方言を使い続けていた愛橘博士にとって安らぎの場所だったのでしょう。
80歳を過ぎ大きな仕事からは退いても、講演会の依頼があれば喜んで出かけました。傍らには、長女美稲が大きな荷物を持って寄り添いました。
1951(昭和26)年12月、原敬三十年記念追悼会に参加。追悼文を読み上げ、最後にこう結びました。
君がいなくなってもう三十年になる。その後の日本は君にどう映ったのだろうか。近いうちにまた黄泉の世で語り合えることを心待ちにしているよ。
『メートル法と日本の近代化』第九章それから 哀悼
1952(昭和27)年5月21日、原の追悼会から半年余り後、愛橘博士は95歳で亡くなりました。日本初の学士院葬が行われ、遺骨は福岡町に埋葬されました。墓碑にはローマ字で名前が記されています。
田中舘愛橘記念科学館で、博士の業績と科学を学ぼう
ふるさとの岩手県二戸市には、愛橘博士の業績と科学を学ぶことができる「田中舘愛橘記念科学館」があります。
こちらの職員の林千尋様に、お話を伺いました。
―― 愛橘博士の魅力を教えてください。
林:愛橘博士は、95歳の生涯を通じて世界中の会議に出席しました。その姿は、「まるで地球を回るもう一つの衛星のようだ」と言われるほどでした。
田中舘家は武士の家系であったため、幼いころより実用流に入門し木刀を振るっていました。その一方で故郷二戸市の野山を駆け回り、昆虫採集や植物採集をして「トンボとりの名人」とまで言われていました。
「今やらねば殺されると思え」、そう周囲に話していましたが、必要なこと以外に無頓着な面もありました。
愛称が「ズボラ博士」と言われるほど、隣の人のお茶を飲んでしまったり、帽子やカバンを置き忘れたりするのは日常茶飯事でした。
故郷の二戸市の人々だけでなく長岡半太郎ら多くの研究者を魅了し、慕われた愛橘博士はまさに日本物理学の父と呼ぶにふさわしい人物だと思います。
―― 田中舘愛橘記念科学館の見どころを教えてください。
林:田中舘愛橘記念科学館は、故郷の偉人「田中舘愛橘」の業績に関する資料展示の他、実際に体験できる実験装置(風洞実験装置など)や科学を用いた実験、工作プログラムを用意しております。
また、実際に人が入れるシャボン玉発生装置や、国内に数台しかない人工でオーロラを発生させる装置など、老若男女問わず楽しむことのできる施設となっております。
林様、貴重なお話ありがとうございました。
国内に数台しかないオーロラ発生装置、見てみたいです。
子どものころ、故郷で元気に動き回っていたことが、愛橘博士のフットワークの軽さにつながったのかもしれませんね。
おわりに
私は「物理学は難しい、よくわからない」とずっと思っていました。でも真鍋叔郎さんの受賞で、地球温暖化など私たちにとって身近で重要なことだと実感しました。そして、日本でその基礎を作ったのが、田中館愛橘博士なのです。今当たり前と感じていることも、愛橘博士の種蒔きと努力があったことを、知っていただければうれしいです。
※アイキャッチ画像 田中舘愛橘記念科学館提供
<協力>
田中舘愛橘記念科学館 職員林千尋様
<参考資料>
吉田春雄『メートル法と日本の近代化 田中舘愛橘と原敬が描いた未来』(現代書館、2019年)
松浦明『田中館愛橘ものがたりーひ孫が語る「日本物理学の祖」―』(銀の鈴社、2016年)
日本経済新聞「文化 曽祖父は日本物理学の祖 松浦明」(2021年10月14日付)
岩手県公式動画チャンネル 偉人局第2話 田中舘愛橘