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2020.04.23

1粒5万円の秘薬だった!「宇津救命丸」の歴史と、子どもがほっと落ち着く理由

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環境が変わると夜なかなか寝付けなかったり、イライラしたり。朝もなんだかお腹の調子が悪いみたい……。子どもにはよくあることです。(大人だってあるかも)
知らず知らず心身が緊張しているせいなのかもしれません。

幼いころのおぼろげな記憶があります。眠いのになぜだか大泣きして感情のコントロールができなかったこと。そんなとき口にポンと入れられたのが銀色の丸薬。「ほら、これで落ち着くからね」と父母に言われて、小さな粒を舌の上で転がしながら子ども心にほっとしたこと。

江戸時代には1粒5万円の秘薬、宇津救命丸の歴史

その銀色の薬というのが、子どもの夜泣き・かんの虫の薬としておなじみの「宇津救命丸」。
今ではまちの薬局やドラッグストアで誰でも手に入れられる薬ですが、実はとても歴史が古く、江戸時代には1粒5万円もの価値があったそうです。

救命丸の原料は自然由来の生薬。その処方は江戸時代から現在までほとんど変わっていません。

宇津救命丸の歴史は戦国時代の栃木県、下野国(しもつけのくに)から始まります。
当時、下野国を治めていたのは宇都宮家。その殿医を勤めていたのが、後に救命丸の創始者となる宇津権右衛門(うつごんえもん)でした。
宇都宮家は平安時代に摂関政治をおこなった藤原氏を祖先とする名族。宇都宮二荒山神社の神職を務めながら坂東一といわれた屈強な武士団を率いたことで知られます。
鎌倉時代には源頼朝の信頼厚い御家人として、その後北条氏、織田信長、豊臣秀吉に仕えて数々の武勲を残してきました。
宇都宮家と宇津家は主従というだけでなく、その名字から姻戚関係もあったと考えられています。

名族・宇都宮家の悲劇から生まれた宇津救命丸

ところがその宇都宮家を悲運が襲います。
1597年(慶長2年)、突然の改易で秀吉から領地を没収されてしまうのです。
改易の原因ははっきりせず、後継ぎ問題で揉めて秀吉の怒りを買ったせい、石高を偽っていたからなど様々にいわれていますが、戦国大名たちの権力争いに巻き込まれてしまったと推測されます。

宇津権右衛門も殿医の職を失い、下野国高根沢西根郷に帰農。宇津救命丸のルーツとなる秘薬「金匱(きんき)救命丸」を作り、村人に無償で分け与えました。
それが評判となって関東一円から買い求める人が訪れるようになり、やがて旅籠などの置き薬として各地に広まっていったのだそう。

江戸時代から明治の始めまで、救命丸の調合が行われていた宇津誠意軒(栃木県塩谷郡高根沢町)
救命丸は長い間一子相伝の秘薬とされ、製薬中は当主以外近づくことも禁じられていました。

救命丸の処方がどのように生まれたのかは、はっきりと残されていません。宇津権右衛門が世話をした旅の僧侶から伝授されたという説も伝わっていますが、豊臣秀吉の朝鮮出兵に宇都宮家も出陣していることから、大陸から持ち帰ってアレンジしたのではと考えられています。

金匱救命丸の金匱というのは「貴重な」という意味。救命丸の原料となる自然由来の生薬はとても貴重で、江戸時代には救命丸1粒に米俵1俵、現在の価格で5万円の価値があったといいます。
宇都宮家の悲劇がなければ、もしかしたらお殿様だけが飲める薬だったかもしれませんね。

宇津家に伝わる製薬信条。製薬するときの心構えを説いた古文書で、明治時代まで代々の当主がこれを守って斎戒沐浴し、一人きりで製薬を行ってきました。

小児用になったのは、一橋家で将軍の継嗣が飲んだから?

お殿様といえば、救命丸は江戸時代に下野国の領主だった一橋徳川家でも愛用されました。なくなったらすぐに江戸の屋敷へ届けられるようにと、宇津家に特別に一橋家の御紋が入った提灯を渡すほど欠かせないものだったよう。
下野国高根沢から江戸までは100㎞以上離れていますが、鬼怒川を舟で下って途中で江戸川の舟に乗り換え、秋葉原の船着場から馬で駆けつけて1日で届けていたといいます。

というのも、一橋家といえば将軍の後継ぎを輩出するお家柄。救命丸はもともとは大人用の薬でしたが、一橋家では子どもが丈夫に育つようにと飲ませていたのです。一橋家から将軍となった徳川家斉も、子どものころに救命丸を飲んでいたのでしょうか。

やがて一橋家献上の評判が口コミで広がって、救命丸は全国でブレイク。西洋医学の発展とともに即効性のある新薬が登場してからも、子ども向けの薬として重宝されました。また戦後のベビーブームでは「夜泣き・かんの虫には宇津救命丸」としてひっぱりだこに。

昔の製薬の道具類。小さな粒をつくるために、いろいろな工夫がこらされていました。(宇津資料館)

こちらは大正時代の製丸機。現在では厳しい衛生管理のもと、最新の設備を備えた工場で作られています。(宇津資料館)

原因は虫? 先人の知恵で肩の力を抜いてみて

ところで、「夜泣き・かんの虫には宇津救命丸」の「かんの虫」というのは、子どもが理由もなく不機嫌になることをいいます。
医学が発達する前の戦国時代、昔の人は病気の原因が分からず、虫が引き起こすと考えていました。九州国立博物館収蔵の「針聞書(はりききがき)」という戦国時代の医学書には、その虫たちの姿も描かれています。
関連記事:このゆる〜い虫たちが病気の原因? 戦国時代の医学書が可愛いすぎるってウワサ>>

江戸から明治・大正と近代化が進み、病気の原因も次々と解明されていきましたが、子どもがなぜ泣くのかは依然としてわからなかったため、虫のせいにし続けたという説があります。
また、舅姑との同居が一般的だった時代、子どもが泣きやまないことの責めを嫁である子どもの母親が負わないようにと、虫のせいにしたともいわれています。

現代になって、かんの虫と自律神経のバランスとの関係がわかってきました。また、生薬の有効性は臨床データや科学的方法によっても明らかになりつつあります。

かんの虫は、昆虫や寄生虫とは違います。どちらかといえば「腹の虫がおさまらない」とか、「虫の居所が悪い」というときの虫に近いかもしれません。
ただの迷信? いいえ、先人の知恵でもあるのではないでしょうか。
わたしたちはつい、ものごとには原因があり、結果があると考えがち。子どもが泣き止まないと、原因はなに? どうすれば泣き止むの? と困り果ててしまいます。
でも、小さな子どもが黄昏時に激しく泣いたり、成長の一時期に夜泣きをしたりする理由は、この21世紀でもまだはっきりとはわかっていないのです。
「虫のせい」というのは、誰のせいでもないということ。ちょっと気持ちがらくになりませんか? 「ストレスや緊張が出たのかな」と見守りやすくなるのではないでしょうか。

ゆるやかに心身を整える、東洋医学のすごさ

仏教に「身心一如(しんしんいちにょ)」、肉体と精神はひとつのものという言葉があります。東洋医学でも心の状態と体の健康はつながっていると考え、心身にアプローチをします。
「病は気から」という言葉は、気の流れを整えることで体調も整っていくという考えに基づくもの。また、それによって病気になる前の小さな不調を「未病」のうちに治すことを目指すのです。

「気」は東洋医学の専門用語でもありますが、気分、気疲れ、気持ちなど私たちが普段使う言葉にもたくさん登場します。昔の日本人は今よりもっと「気」に注意して暮らしていたのかもしれませんね。

救命丸発祥の地、高根沢の工場の一画に建つ宇津薬師堂は江戸時代に人々の健康を祈って建立され、薬を手にした薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)が奉られています。天井には薬草の絵が。(栃木県塩谷郡高根沢町)

宇津救命丸 基本情報

社名:宇津救命丸株式会社
住所:(本社)東京都千代田区神田駿河台3-3
   (工場)栃木県塩谷郡高根沢町上高根沢3987
公式Webサイト:http://www.uzukyumeigan.co.jp/

書いた人

岩手生まれ、埼玉在住。書店アルバイト、足袋靴下メーカー営業事務、小学校の通知表ソフトのユーザー対応などを経て、Web編集&ライター業へ。趣味は茶の湯と少女マンガ、好きな言葉は「くう ねる あそぶ」。30代は子育てに身も心も捧げたが、40代はもう捧げきれないと自分自身へIターンを計画中。