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2021.12.12

「峠の釜めし」は駅弁史上最大の発明だった!?世界を狙うKamameshiの歴史を「元祖」のお店で徹底取材

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お米が主食の日本。日本人なら、釜でたかれた艶々でホカホカのご飯を目にして「美味しそう」と感じない人はいないのではないでしょうか。白米はもちろん、旬の食材をお米と一緒に炊いた「釜めし」は、日本人の心を捉えて離さない料理です。


「釜めし」と聞くと一番に思い浮かぶのが、駅弁「峠の釜めし」。ぽってりと重みのある器が印象的ですよね。

素焼きの蓋を開けると、中には色とりどりの食材がぎゅっと詰め込まれていて、どこか懐かしく、幸福感に満たされます。

子供の頃、はじめて食べた釜めしのあの器がかっこよくて、宝物みたいにしてました!

日本全国に釜めしと名のつく駅弁は、たくさん存在しますが、実は、この「峠の釜めし」こそ、日本の駅弁の歴史を大きく変えたお弁当だったことをご存知でしょうか。

「峠の釜めし」が駅弁の歴史を変えていた

明治に入ると日本は近代化により、鉄道の整備が着々と進められます。それに伴い、鉄道開通の周辺都市も発展、人々の移動も容易になりました。全国へ旅行に出かける人も増え、長い移動時間に楽しめる駅弁も広まっていきます。

現在では、ご当地の特色を生かした見た目も中身も楽しい駅弁が当たり前ですが、昭和33年発売の「峠の釜めし」が登場するまでは、駅弁=幕の内弁当が主流でした。

見た目の斬新さに加え、ご当地を感じる食材を取り入れた美しい中身、そしてお弁当が温かいという画期的な発想が詰まった「峠の釜めし」登場は、それまでの駅弁の概念を覆しました。

そうか、釜めし以前の駅弁は冷たいのが基本だったんだ…

釜めしの発祥は、群馬の小さな田舎町「横川」


そんな、「峠の釜めし」が生まれたのは、明治18年開業の横川駅。その名は、素焼きの蓋にも記載されています。

小さな田舎町の駅は、当時、輸出品として重宝されていた群馬、長野で生産される生糸を東京、横浜へ運ぶ目的として、高崎~横川を結ぶ信越本線が開通したことで生まれました。

「峠の釜めし」は3代目社長の妻が考案

年間約250万個売り上げる、駅弁の代表格「峠の釜めし」は、荻野屋の3代目社長である高見澤一重(たかみざわかずしげ)の妻、みねじが考案しています。

3代目社長は、若くして亡くなり、残された妻のみねじは、夫の死と経営難というダブルの災難を背負いながら、「峠の釜めし」を開発することになります。

ヒット商品は、どのようにして生み出されたのでしょうか。その謎を紐解きに製造元である株式会社荻野屋(おぎのや、群馬県安中市)の本店へ行ってきました。

まさかそんな苦難の中から生まれたお弁当だったなんて…!!!

日本最古の駅弁屋、荻野屋で現地レポート

取材で向かったのは、群馬県の南西部に位置する安中市。江戸時代には、安中藩の城下町、そして中山道の宿場町として栄えた町です。

JR横川駅に到着すると、ほんのりと出汁のいい香りが漂ってきます。

横川駅前に店を構える「横川本店」に向かうと出迎えてくれたのは、株式会社荻野屋取締役製造本部長の青木博さん(あおきひろしさん、以下、青木さん)。入社46年目、生まれも育ちも横川という青木さんに、荻野屋と共に歩んだ歴史から「峠の釜めし」の誕生秘話まで、詳しくお話いただきました。

全国の鉄道ファンが訪れる、鉄道遺産が残る町

「今日は空気も冷たく、すっかり秋らしい季節になりましたね。遠くに見える浅間山はうっすらと雪をかぶっていますよ」と青木さん。

日本ではじめて近代遺産として国重要文化財に指定された 「碓氷峠鉄道施設」。平成9年には、横川から軽井沢を結ぶ、信越本線は廃線となりましたが、廃線跡は、遊歩道「アプトの道」として整備され、横川〜熊ノ平の区間を実際に歩くことができます

取材時は、10月下旬ということで気候も良く、横川駅から続く遊歩道「アプトの道」でウォーキングを楽しむ観光客で賑わいを見せていました。

ちなみに「アプト式鉄道」とは、電車側に歯車を設置してギザギザになったレールを登っていく電車のこと。当時のルートは急峻だったのですね。


通称「めがね橋」の愛称で知られる「碓氷第三橋梁」。アプト式鉄道時代に使用されていた、日本最大級のレンガ造りの橋です

横川は、鉄道遺産が残る町、釜めしの町として知られており、年間を通じて全国から鉄道ファンの訪問が絶えないと教えていただきました。

始まりは温泉旅館

2021年10月15日で創業136年を迎えた荻野屋。駅弁のイメージが強い会社ですが、その歴史は古く、始まりは温泉旅館だったといいます。

「荻野屋は、霧積温泉(群馬県安中市松井田町)で温泉旅館を営んでいました。明治時代、霧積温泉は別荘が建てられるほどの人気の避暑地で、伊藤博文や勝海舟、与謝野晶子など政治家や文化人が訪れていました」と青木さん。

メンツがハンパじゃない!!



そして、後に首相となる桂太郎氏が荻野屋に宿泊し、横川に信越本線の鉄道が開通する情報を得たことが駅弁事業をはじめるきっかけになったといいます。

国鉄から横川駅での構内営業権を取得した荻野屋は、駅開業と共に駅弁販売をスタート。当時は、竹の皮におにぎり2個と漬物を包んだものを販売していたそうです。

時代は鉄道から自動車へ

「荻野屋は老舗企業ですので、横川では、親子三世代で荻野屋の社員というのも珍しくありません。私の世代ですと、父親が国鉄、母親が荻野屋に勤めているというのが、一般的。私の母も荻野屋に勤めていて、高校生の時には、繁忙期になると母から声がかかり、ドライブイン(現、荻野屋横川店)にアルバイトに行っていたんです。20歳の時に地元で調理の仕事に就きたいと思い、荻野屋へ板前として就職しました。入社時は、母のほうがお給料が高かったんですよ」と笑顔で振り返ります。

ドライブイン、荻野屋横川店。峠の釜めし製造工場が隣接していて、できたての温かい釜めしを楽しむことができる

昭和に入り、東京オリンピックを機会に横川周辺も一般道や高速道路の整備が進み、自動車で旅行者が増えたそうです。

「昭和30年代には、道路の整備も進み、車や大型バスで、横川を通り軽井沢へ行く旅行者が増えました。その際に「峠の釜めし」を求めて、本店にもたくさんのお客様が押し寄せたのですが、駅前の道は狭いため、混雑してしまい大変だったんです。そこで、観光バスにも対応できるようにと国道18号沿いへドライブインを出店したわけです」当時は80席ほどを用意した店内だったと振り返る、青木さん。

現在のドライブイン(荻野屋横川店)は、製造工場が隣接し、販売はもちろん、イートインスペースでは、できたての温かい釜めしを食べることができます。

時代の移動手段の変化に合わせ、いち早く、駅からドライブイン、サービスエリアへと販路を変えた背景を知ることができました。

夫の死に経営難!崖っぷちで妻が生み出したヒット駅弁

「峠の釜めし」の生みの親、みねじはどのような人だったのでしょうか。

「3代目は、若くして亡くなられましたので、残された妻のみねじは、荻野屋を絶やしていけないと強い想いがあったと思います。ただ、経営的には非常に厳しい状況でした。補助機関車の連結作業を行う横川駅は停車時間が長いもののお弁当が売れなかったんです」と青木さん。

横川が高崎と軽井沢という大きな駅に挟まれているため、そこでお弁当を購入する方が多かったこと、また当時の駅弁といえば、冷えた幕の内弁当が主流だったそうで、どこも同じようなものが売られていたと振り返ります。

そのため、他の駅では売られていない斬新な駅弁の開発が必要でした。そこで、みねじは、毎日横川駅のホームに立って、乗客にどのような駅弁が食べたいが聞いて回りました。その中で、一番多かったのが「温かいご飯とおかずが食べたい」という声。その声をヒントに新たな駅弁の開発がスタートしました。

夫を亡くした悲しみの中、地道なマーケティングから始められたのですね(´;ω;`)

益子焼の器との出会い

お客様の声を実現しようと試行錯誤している中、益子焼の器との出会いが訪れます。

「開発に苦労している中、当時、お茶やそばつゆおを入れる陶器の取引先であった益子焼の会社から、小型の土釜を紹介されたのです。陶器は保温性に優れているので、温かさが保てるのでは・・・とお弁当の容器として採用が決まりました。そこから、峠というエリアの特色を感じる食材を詰め、楽しいお弁当を作ろうとなったわけです」

開発後も苦労は続いたそうで、器が重いという理由で、国鉄からの販売許可が降りず、発売に至るまで時間がかかったといいます。

国鉄さん、そこはスッと通してあげたらいいじゃない!!(みねじさんへの感情移入)


「販売後も半年ほど売れ行きは良くなかったのですが、転機となったのが、雑誌「文藝春秋」のコラムに「峠の釜めし」が美味しいと取り上げられたことです。小さなコラムだったのですが、大変反響がありました。さらに荻野屋をモデルにしたドラマ「釜めし夫婦」が放送され、全国的に知名度が上がりました」と青木さん。

様々な困難を乗り越えて生まれた「峠の釜めし」。駅弁=冷えた幕の内弁当という概念を覆し、駅弁の歴史を変えたんですね。

今、個性豊かなご当地駅弁が全国にあるのは、「峠の釜めし」のおかげかも知れません。みねじのお客様に喜ばれるものを作ろうという意思が、時代を越えて受け継がれいると思うと嬉しいです。

画像提供:鉄道文化研究所。和歌は「ひなぐもり うすひの坂を 越えしだに 妹が恋しく 忘らえぬかも」。現代訳では「ひなくもり(碓氷を導く枕詞)碓氷の坂を越える時は、国へ置いてきた妻のことが恋しくて忘れられない」

また、峠と釜めしの由来についてお聞きすると、下野国の防人、他田部子磐前(おさだべのこいわさき)が持参の土釜にて炊いて食べて峠を越したと言われており、それに因んだのが「峠の釜めし」だと教えていただきました。昔の掛け紙には、和歌も記載されていたと貴重な資料も見せていただきました。

創業当時と変わらないレシピ

「峠の釜めし」の製造本部長を務める青木さんに、創業当時と変わった点があるのかお聞きすると、中身も味付けもほとんど変わっていないといいます。

「昔は食材の調達状況や、季節により、一時的に具材が変わる場合がありましたが、基本的な食材や味付けは変わっていないです。」と振り返ります。

釜めし型の容器に入った5種の香の物。炊き込みご飯にぴったりな名脇役

素材の味を引き出すため、たけのこ、ごぼう、しいたけなど、食材ごとに味付けを変えているのが、こだわりのポイントだそうです。また、栗や杏子といった珍しい食材が食べた方の記憶に残る仕掛けになっていると教えていただきました。

なんかあのやさしい味がほっこりするんですよね。


徹底した衛生管理のもと、職人による丁寧な調理で、手作りの温かさを感じるお弁当が生まれていました。長年、旅のお供として愛され続ける理由はここにあったんですね。

今後の駅弁の存在について

そして話は、今後の駅弁の存在について広がりました。

旅の移動は時短があたりまえの今、昔のようにゆっくりと鉄道で移動しながら駅弁を楽しむという機会は減っているのが現状だと話します。

「駅弁は、旅を楽しむためのお弁当という立場でこれからも存在していくと考えています。駅でお弁当が売れないなら、売れるところで販売していけばいい。そこで「峠の釡めし」を知ってもらえれば本望なんです」と青木さん。

群馬、長野中心の販路から、現在は、積極的に都内への店舗進出をおこなっているといいます。バスツアーや旅行者を軸にしている地方店舗はコロナ化で厳しい状況が続いたそうですが、反対にテイクアウトを中心とする都内店舗が利益の支えになったと振り返ります。

なかなか旅行へ行けない時期が続いたので、「峠の釡めし」を通じて、旅行気分を味わうのも素敵ですね。

Kamameshi(釜めし)を世界共通語へ

また、東京進出にとどまらず、今後は、パリなどの世界の都市で「峠の釜めし」を販売したいと話します。

手際よく紐も結ぶ青木さん。「最後にまごころの込めて紐を結ぶんですよ」と笑顔で答えてくれました

「海外では、お弁当は温かいということが常識なのですが、冷めても美味しいのが日本の駅弁と認知してもらえれば、受け入れられると考えています。それと同時に、「峠の釜めし」を通じて、Kamameshi(釜めし)を世界共通語したいんです」と熱意を語ります。

Bentoに続いてKamameshiも世界共通語に!



青木さんが何度も話されていた「お客様に喜んでもらうことが一番。荻野屋は、本当にお客様の声を大切にする会社なんです」という言葉。

取材を通じて、荻野屋の真面目なものづくりへの姿勢、そして駅弁を日本文化として守り広めていく活動を知り、日本の誇る素晴らしい企業だなと実感しました。

まずは、横川の美しい鉄道遺産、まごころがぎゅーっと詰まった温かい「峠の釜めし」を体験しに横川本店を訪れてみてください。

荻野屋の概要

株式会社荻野屋:https://www.oginoya.co.jp/

横川本店の住所:群馬県安中市松井田町横川399

横川本店の営業時間:10:00~16:00(L.O 15:30)、定休日は毎週火曜日

横川本店の電話番号:027-395-2311