江戸時代、日本の天文観測は暦を作るために行われていた
日本の天文観測は、江戸時代から行われていました。それは暦(カレンダー)を作成するのに必要だったからです。では暦は、いつからあったのでしょうか。たとえば菅原道真の誕生日は 平安時代の承和12(845)年6月25日とされていますが、暦があったから、月日が明確に残されているわけです。暦は692年、持統天皇の時代からあったようです。そして、平安時代の貞観4年(862)からは、中国の当時の暦である、宣明暦(せんみょうれき)をもとに毎年の暦を作成し、これが800年以上使われていました。しかし、長く使っていたので、実態と合わなくなってきたといわれています。
実態と合わないというのはどういうことでしょうか。あくまでもひとつのイメージとして簡単にたとえると、4年に1度の閏年には2月が1日多くなりますが、これをしないで、つまりこの閏日の必要性に気づかずに毎年のカレンダーを作成していくと、4年に1日だけ季節よりも暦が先に進んでいきます。それを800年続けたならば、200日ズレることになります。それは、暦では8月なのに季節は真冬ということになり、実態と合わない、つまり、暦上の月日と季節がずれてくるということなのです(あくまでも仮の話です、当時は太陽暦ではないので、これがそのまま当てはまるわけではありません)。
江戸時代に精密な暦へ改正
さて800年以上使われた宣明暦は、江戸時代の貞享2(1685)年に日本人により考え出された暦の作り方(暦法)に改められ、その後も1755、1798、1844年に暦法が改正されました。それは、西洋の天文学を取り入れ、より精密な暦へと改良させていったのです。江戸時代は、幕府の天文方によって暦は計算され、暦注(日時,方角の吉凶禍福に関する事項)が付け加えられて、各地の出版元から暦が出版されました。つまり全国統一されたカレンダーを使っていたのです。
幕末に使用されていた暦は、1844年に改められた太陰太陽暦と呼ばれるもので、月の満ち欠け(周期約29.5日)を1か月とするものでした。暦を作る際、1か月を29.5日とすることはできないので、実際には、29日の月と、30日の月が交互に現れ、12か月で1年となるわけです。そうすると1年は、29×6+30×6=354日となります。それは地球が太陽を廻る周期である約365日(正確には365.257日)とは約11日のズレが生じます。このズレを補正するために3年に1度、1か月分長くするのです。たとえば明治3年は10月の次に閏10月というのがあり、1年が13か月となっていました。
この暦には、それぞれの月に大・小と書かれていますが、大は30日、小は29日であることを示しています。それでもズレが生じることはお分かりですよね。3年で33日のずれが生じているのに29日を補正しても、4日足りません。ということは実際の季節よりも暦が、3年に4日の割合で先に進んでしまうのです。つまり実態と合わなくなることが起きるわけです。
そして、時代は明治となり、欧米との統一をはかるため、明治6年(1873)から、現在使われているグレゴリオ暦と呼ばれる、地球が太陽の周りを公転する周期をもとに作成された太陽暦が採用されたのです。
明治時代以降の天文観測は海軍から始まった
さて、前置きが長くなりましたが、明治以降の天文観測は海軍から始まりました。海軍にとって、天文観測は、海図編集や測量、航海暦(天体のカレンダー、現在では天測暦といいます)の精度維持に必要でした。
星の高角(水平線となす角度)を測って測定位置の正確な緯度経度を知るのが天文航法と呼ばれる航海術ですが、星の高角を測ってわかるのは実際の高角だけです。正確な測定位置を導くには、本来、その位置と場所、その時間にこの星を測ったら、〇〇度となるはずという情報が事前に必要です。そして実際に測ってみたら〇〇度+0.5度だったとすれば、その差から正しい位置が求められるのです。つまり、ある時間、ある場所で、ある天体の高角を事前に計算した天体のカレンダーである航海暦が必要になるのです。当時は全てイギリスから購入していました。これは自前で作成した方が良いのは明らかで、まずはその事前の勉強のため、そして精度を高くするために天文観測が必要とされたのです。
加えて正確な測定位置を計算するためには正確な時刻が必要でした。現在の時刻はイギリスのグリニッジ天文台が世界標準時とされていますが、その時刻とはどうやってきめられるのでしょうか。それは太陽が真上に来た時を0時として、そこから次の日までを24等分して1時間としているので、時刻というのは、それぞれの場所(経度)ごとに異なるのです。それでは不便なので、標準時及び時刻帯(1時間毎に定められ24の時刻帯がある。日本は世界標準時+9時間)というのが存在するわけです。日本では東経135度上にある明石が日本の標準時とされてきました。
天文航法には、標準時刻ではなく、その場所の正確な時刻が必要となります。そして時計(経線儀、時辰儀と呼ばれています)の精度を上げるには、太陽の正中時(真上に来た時のこと)を毎日測定し、秒単位で正確な0時を求め時計を修正する作業が必要でした。
この分野は創設まもない明治初期の海軍において水路事業のひとつとされ、水路局(明治4年7月創設)という部署がこれを担当しました。水路事業の大きな仕事は日本周辺を測量して海図を作成することでしたが、それに付随した事業として天文観測があったのです。
海軍水路事業の創始者でありドン、柳楢悦
海軍の水路事業の創始者は、津藩出身の柳楢悦(やなぎならよし)という人で、柳は幕末に開かれた長崎海軍伝習所において、オランダ人教師から航海術を学び、藩に戻ってからは、航海指南役を務め、その後幕府に出向して、沿岸測量に従事しました。明治2(1869)年に「海軍の創立は必ず航海測量を基にするべき」という意見を上申し、自らその教育にあたる用意があると述べ、明治政府に採用され、海軍省の前身である兵部省で水路測量の実務を担当することになったのです。
そして「水路事業は、外国人を雇用せず、自力で外国の学術・技術を学び、改良・進歩させるべき」と主張し、水路事業の一環として天文観測を海軍が担当することを認めさせたのです。
このとき、柳とともに海軍に採用されて水路事業にあたったのが、伊藤雋吉(筑波艦長として明治8年に太平洋横断の航海を成功)です。 伊籐は水路事業から船乗りへとその進む道は変わりましたが、柳は一貫して、水路事業を担当する部署に勤め、水路局―水路寮―水路局-水路部と、組織の名称が変わる中、常にそのトップにあり明治21年までの約19年間海軍の水路事業に従事しました。
海軍最初の天文台は麻布に
海図作成の話は、またの機会にして、天文観測の歩みについて紹介します。天文観測のための観象台(今でいう天文台)は、明治7(1874)年に麻布に完成しました。当初は海軍省勤めの石井という人の土地だったようですが、後に政府が買い上げました。観象台に設置する機器はアメリカ製とイギリス製を購入し、当初は、精度の高い時計である経線儀の誤差を求めるため、すなわち正確な時刻を求めるために連日太陽と恒星を観測していました。
そして、大きなイベントとして記録されているのが、観象台の設置まもない明治7年12月9日の金星日面経過という天象です。これは太陽と地球の間に金星が存在し、地球からみると金星が太陽を横切っていくように見えるのです。この天象は、約8年と約100余年の2つの周期で起き、最初に観測されたのが1639年で、その時は単なるイベントでした。しかし、イギリスの天文学者が、「金星が太陽面を通過する時間を、緯度が違う2ヶ所以上で観測すれば太陽までの距離を正確に求めることができる」と計算方法を提唱してからは、重要な天象となりました。地球と太陽間の距離は、1天文単位と呼ばれ、これを正確に求めることが天文学の世界では重要視されていたのです。
1761年と1769年の金星日面経過の際には、うまく観測できなかったことから、明治7年12月は105年ぶりに起きる貴重な天象であったわけです。そして、これを観測するには、日本の地理的条件が大変良いことから、アメリカ、フランス、メキシコが観測隊を送りたいと日本政府に要望を出しました。アメリカとフランスは北京にも観測隊を送りました。日本政府は、唯一天文観測を担当する機関であった海軍にこれを諮ります。そして柳は、この好機に欧米諸国の進んだ天文観測技術を研究修得すべきと積極的に観測隊員の受け入れを上申し、各国の観測隊の受け入れが決定しました。
各国の観測隊による観測は、横浜(野毛山、山手)、神戸(諏訪山)、そして長崎(金毘羅山)で行われ、東京麻布の海軍観象台においても独自に行われました。各国の観測隊来日後は水路局の職員を同行させ、さらに柳自信も長崎に長期滞在して観測の様子を見学したのです。当日は好天に恵まれて、観測は成功しました。成功したのは日本での観測だけだったようです。それぞれの場所には記念碑が置かれています。長崎と神戸の記念碑は当時設立されたようですが、横浜の記念碑は観測から100年を記念して1974年に建てられました。
大成果!欧州への視察旅行
その後、柳は、1878(明治11)年に外国の天文観測の状況を視察するために欧州へ派遣されました。そこで各国の天文台などから便宜を図ってもらい、オーストリアでは、観象台建築に関わる書籍と金星経過測量に係る書籍、オランダでは観象台創立以来の記事、フランスでは太陽の写真、ドイツでは当該国の観象台長の著書をもらい、注文した測器の試験を依頼、さらに経線儀試験の書籍などをもらい、イギリスでは各所の観象台を研修して関連する書籍をもらうなど、各国で大変厚隅され、多くの成果を得ることができました。
柳がイギリス滞在中の同年6月26日、日本から来た軍艦「清輝」が、イギリス本土南西端のプリマスに入港しました。清輝は1月に日本を出発して1年3か月の欧州航海に派遣されていたのです。
このとき柳は、在ロンドンの日本公使館から派出された外交官とともに清輝の到着をプリマスの桟橋で待ち、接岸と同時に清輝を訪問した記録が残っています。清輝には、長期航海を支援するために、水路局から測量士として、柳の部下である三浦重郷と関文炳二人の若手士官(少尉補)が乗艦していたのです。柳は、部下の激励と、その仕事ぶりを見に来たのでした。二人は大変よく働き、安全な航海に貢献していました。
こうやって一見別々に起きていることが、ある一点でつながるところが歴史研究の面白いところです。ちなみに関文炳は、金星日面経過の際に柳とともに長崎での観測に同行しています。
明治16年に海軍の水路局が発行した『水路雑誌』には、清輝の航海の状況が詳細に記載されています。これは、三浦と関が、日本帰国後も記録整理のために三ヶ月間も延長して清輝で勤務し、航海上重要な記録などを全て整理して水路局に持ち帰った成果なのです。拙著『初の国産軍艦「清輝」のヨーロッパ航海』では、「水路局は1923(大正12)年の関東大震災で、海図も含め、その所蔵資料全てを焼失してしまったので、整理された記録を確認することはできない。」と記載しましたが、発行された書籍として残されていることがわかりました。
柳は猛反対!天文観測の所管統合問題
さて、その後も柳をトップとする海軍の水路局による天文観測は継続されますが、海軍以外にも、陸地測量のために内務省地理局(江戸城内天主台に測量台を設置)、教育と研究のために文部省(東京大学に明治11年小規模の観象台を設置)がそれぞれ独自に天文観測業務を行うようになっていました。明治15(1882)年にこれらを統合する構想がありましたが、柳は、海軍は実用を主としており、理論上の研究を行う文部省とは目的が異なると猛反対し、この構想は断念されました。しかし、明治21(1888)年に柳が退官すると、わずかその2か月後に天文観測の統合が政府で決定され、文部省の主管となったのです。
そして、麻布の海軍観象台の地に東京大学の東京天文台が設立され、敷地・施設・機械・図書類はすべて海軍から文部省へ移管されたのです。その後、東京天文台は大正13(1924)年に三鷹に移設され、昭和63(1988)年に国立天文台となりますが、麻布は、日本経緯度原点が明治25(1892)に参謀本部陸地測量部(陸軍)によって定められ、全国の経緯度の基準の位置となりました。今は、国土地理院の管理の下、標識と原点の金属鋲がうめこまれた御影石の碑が置かれています。
第1次世界大戦激化!その影響が日本にも
さて、天文観測が文部省に移管されたとはいえ、航海に必要な経線儀の誤差測定のための観測業務と航海暦作成の業務は引き続き海軍が担当していました。そして、航海暦は、日露戦争を機に明治39年から国内で作成するようになりますが、天体位置に関する部分は、イギリス版の航海暦に頼っており、日本で算出したのは、潮汐、日月出没時などの一部分だけでした。しかし第1次世界大戦の影響で、イギリスからの航海暦の入手が遅れるようになったことから、我が国独自に算出することが大正8(1919)年に決定し、大正14(1925)年以降の航海暦は、日本で作成されたものになりました。最初に柳が日本人独自でやるべきと提唱してから、50年以上も過ぎてようやくできるようになったのです。そして、戦後この業務は海上保安庁に移管されますが、GPSなどの発展・普及により、2008年に観測業務は終了しました。
海軍の柳楢悦なくして日本の天文観測の発展はなかったといえるでしょう。退官と同時に天文観測業務が統合されるなど、政府に対しても多大な影響力があった柳は、明治の勃興期における英雄とも評価されています。
明治初期、海軍は色々なことをやっていたのです。それは単なる武力としての存在だけではなく、海事に関わる国の機関としての役割もあったのです。今後も引き続き紹介していきたいと思います。
参考文献
進士晃「水路部を築いた人々」『天文月報』(日本天文学会、1971年11月)
海上保安庁水路部『日本水路史1871~1971』(日本水路協会、1971年)
奥村雅之「水路部における天文観測について」『海洋情報部研究報告』第58号
大井昌靖『初の国産軍艦「清輝」のヨーロッパ航海』(芙蓉書房、2019年)
神戸、長崎、横浜にある142年前の金星観測の痕跡(饒村曜)
東京都港区HP
江戸から明治の改暦
日本経緯度原点
※アイキャッチは『富岳百景 3編. 三』 (葛飾北斎 画) をトリミング。国会図書館デジタルコレクションより