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2022.04.23

絶世のイケメン・平維盛の人物像を探る【推しから読んでみる『平家物語』】

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全12巻もある平家物語を、「推し」が登場する回をピックアップして読んでみよう! 第2弾は、平維盛(たいらの これもり)!

平維盛は平重盛(たいらの しげもり)の嫡男です。重盛が清盛の嫡男なので、維盛もいずれは平家を背負う身として尊重されていました。しかもその姿は『平家物語』では「絵にも書けないほど美しい」と表現されています。

これは物語の設定だけでなく、当時実在した、平家と対立していた貴族でさえ、その日記に「わずか14歳にもかかわらず所作が優美だ」とか「めっちゃイケメンだった……」とか書かれているほどでした。

こ、これは、正真正銘の、超美男子ってことですよね!

ここでは『平家物語』に描かれた平維盛の人物像や死因、妻子との関係などをご紹介します。

『平家物語』での登場回

維盛は、最初の頃はほとんど父・重盛と共に登場しています。3巻までの出番は、前回の重盛回を参考にしてもらって、それ以降を紹介します。

巻第5

重盛の死後、平家の跡取りは重盛の異母弟である宗盛(むねもり)になりました。その為、重盛の息子たちはちょっと微妙な立場となりました。法皇や天皇の護衛も、宗盛の兄弟やその一族たちが担うようになります。

そして京都から遠く離れた流刑地である伊豆で、源頼朝が挙兵したという話が舞い込んできました。そこで頼朝追討軍を派遣する事になり、その総大将となったのが維盛でした。

微妙な立場での戦って、プレッシャーかかりそう。

富士川

以前紹介した、『富士川』の段です。
美少年率いる平家軍が、水鳥の羽音で逃げ出した!?『平家物語』富士川の戦いのシーンを3分で解説!

川瀬巴水『富士川』 出展:東京富士美術館

坂東武者がいかに恐ろしいかを聞かされていた平家軍は、水鳥の羽音を夜襲と勘違いして逃げだしてしまいました。

あちゃー!

五節之沙汰

平家軍は、富士川周辺の地元民の笑い者となってしまいました。一方、維盛も祖父・清盛の元に帰って来たのですが、清盛は大激怒しました。

巻第7

治承5(1181)年閏2月4日、平清盛が亡くなり、打倒平家の機運が一気に高まりました。最初に攻めてきたのは信濃国(現・長野県)の源氏・木曽義仲(きそ よしなか)です。

▼木曽義仲に関する記事はこちら!
木曽義仲とは?人物解説!青木崇高演じるイケメンに芥川龍之介も惚れたッ!【鎌倉殿の13人予習シリーズ】

平家山門連署

木曽義仲は半ば強引に比叡山延暦寺へ協力を求めました。そして平家もそれを知らずに比叡山に助けを求める手紙を書きます。そこには平家の主要な人々の名前がズラリ。維盛の名前もありました。

結局木曽義仲の方が上手で、平家による寺院への協力要請は失敗に終わってしまいました。平家は一族そろって京都から逃げることになりました。

なんだか、不運が続く……。

維盛都落

維盛は前から覚悟はしていましたが、いざ都を離れるとなると寂しくて仕方ありません。維盛には可憐な妻と10歳の息子、8歳の娘がいました。

妻を連れて逃げたいけれども、途中で敵が待ち伏せしているのでとても危険です。だから都に残そうとするのですが、妻は「一緒に行く」といって聞きません。離れがたいが離れなくてはいけない夫婦の心情が、これでもかと綴られている名シーンです。

愛し合っているのに、別れなくてはいけない。悲しいですね。

『平家物語 平維盛 北の方惜別図 』 岩佐又兵衛筆 メトロポリタン美術館

一門都落

維盛以外の平家の人々も、みな別れを惜しみ、涙ながらに故郷である都を後にします。

福原落

そして平家一門はかつて清盛が作った神戸の都、福原に到着します。そこで一泊して一族郎党、みんな運命を共にすると決意し、また西へと向かうのでした。

巻第9

平家一門は各地を転々とし、四国の屋島にようやく腰を落ち着けていました。一方、都では木曽義仲と鎌倉幕府が激突し、木曽義仲が討たれました。後白河法皇は鎌倉幕府に正式に平家を追討するように命じます。

三草勢揃

平家一門はまた神戸の福原にやってきて、清盛の命日の法要を行いました。それを都の人々が平家が攻めて来ると警戒しています。維盛は都に残してきた妻子を想って嘆き悲しんでいました。

と、そこに平家追討の命を受けた鎌倉軍が攻めて来ました。一ノ谷の戦いの始まりです。

巻第10

平家は多くの犠牲者を出しながらどうにか逃げたのでした。

首渡

一ノ谷の戦いで討ち取られた平家の首が都に届き、晒されました。都に残っていた維盛の妻子の面倒を見ていた付き人は、こっそり首を確認に行きましたが、維盛の首はありません。

付き人は詳細を訪ね回り、維盛の妻に報告します。それによると、維盛は重い病にかかり戦になる前に屋島へと帰ったので巻き込まれなかったそうです。しかし妻は「病気と聞いて安心できますか!」と言い、子どもたちも「なんの病気なの? それは聞かなかったの?」と付き人を責めました。

維盛も都の妻子がさぞや心配しているだろうと思い手紙を書きます。子供たちはその手紙に「はやく迎えに来て」と返事しました。維盛はそれを読み、我慢しきれずに「いっそ、妻子を一目みてから自害しようか」と泣きました。

戦で離ればなれになった家族。ただ一緒にいたいという願いが、叶えられない。切ないです。

横笛

維盛は妻子が忘れられず、とうとう屋島から脱出します。そして高野山の滝口入道という僧を訪ねました。

高野巻

維盛は滝口入道に案内されて高野山を巡り、奥の院に行きます。

維盛出家

そして維盛は従者と共に出家しました。

熊野参詣

けれどどんなに修行に励んでも、妻子を忘れる事はできません。昔の華やかで明るく、楽しかった日々を懐かしんで泣きました。

維盛入水

維盛は船で沖へと漕ぎ出します。これは補陀落渡海(ふだらくとかい)と言われる捨身行の一種。つまり入水自殺です。しかしなかなか妻子への愛着が捨てられずに、決心がつきません。

滝口入道は維盛を励まし、仏の教えを授けます。維盛はようやく決心し、入水しました。

愛する妻子と会えぬのならと、死を選んだのでしょうか?舞の名手で、その姿は光源氏のようだったとか。悲しい最期です。

時代に翻弄された貴公子のあはれ

富士川の戦いの敗戦のイメージが強いからか、なよなよしたお坊ちゃんのイメージがある維盛ですが、その実態は、妻子を愛する1人の男性でした。

妻子の事が忘れられず思いつめ、とうとう死を選んでしまった維盛。もっと平和な時代だったら、その優秀さと人柄が評価されてたのでしょうね。

書いた人

神奈川県横浜市出身。地元の歴史をなんとなく調べていたら、知らぬ間にドップリと沼に漬かっていた。一見ニッチに見えても魅力的な鎌倉の歴史と文化を広めたい。

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幼い頃より舞台芸術に親しみながら育つ。一時勘違いして舞台女優を目指すが、挫折。育児雑誌や外国人向け雑誌、古民家保存雑誌などに参加。能、狂言、文楽、歌舞伎、上方落語をこよなく愛す。ずっと浮世離れしていると言われ続けていて、多分一生直らないと諦めている。