木曽川沿いの戦いで、意外と善戦していた朝廷軍。命からがらに逃げて来た武士は、後鳥羽上皇に報告しました。
何したかったの後鳥羽上皇
けれど鎌倉軍の数もわからず、逃げた言い訳を述べるだけで後鳥羽院はちっとも頼もしく感じません。大騒ぎして息子たちやお供に武装させて、御所から部下の家に移動しました。
この行動を『慈光寺本』の作者は「後鳥羽上皇が自ら戦うつもりだったのか、今ではわからない」と書いています。さらにその日の夕方に坂本(比叡山の東麓)に移ったことも、「上皇が都を離れたことで、京の民の不安は増すばかり。一体何を考えてるんだろう」とまで言っています。
……やっぱりこの作者、後鳥羽上皇のこと嫌いだったんでしょうね……。
しかし1点気になる事がありませんか?
そう、捕虜を逃がしてしまった、墨俣(すのまた)陣営の藤原秀澄(ふじわらの ひでずみ)くん!!
秀澄くんは戦が始まる前夜、早々に逃げていたようです。……逃げるなァ! 責任から逃げるなァ!!
山田重忠の奮戦
しかし、そこで「俺は俺の責務を全うする」と留まった人物がいました。そう、道理を弁えた武士、尾張国の山田重忠(やまだ しげただ)さんです!
墨俣の陣営で炎のように戦いましたが、他の陣営の味方が居なくなったのを知って、一旦退却します。墨俣の少し西にある杭瀬川(くいせがわ)で鎌倉軍を待ち伏せて、やってきた鎌倉軍の児玉(こだま)一族と激しく戦います。
……って、ここで何故かイキナリ6月14日に飛んで、完全に朝廷軍が負けたシーンに飛んでいます。長い年月で欠落してしまったのか、はたまた作者が飽きてしまったのか……。
本来なら山田重忠さんも敗走し、朝廷軍は琵琶湖にかかる勢多(せた)橋と宇治川にかかる宇治橋に最後の防衛線を敷きます。そこでまた激しい戦いが繰り広げられ、数々の武士の見せ場もあるのですが……。
この欠落した6月6日~13日の約1週間については『流布本(るふぼん)承久記』か、『吾妻鏡』で確認しましょう!
というわけで、今回はここで次回へ続きます!