それは室町時代のはじめ。鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇の南朝方と足利尊氏の奉じる北朝方に分かれて争いが繰り広げられていた時代のこと。
時の権威や権力を意に介さず、秩序や常識に捉われないで自由奔放に振る舞う大名たちがいた。彼らは❝婆娑羅(ばさら)大名❞と呼ばれ、合戦になると「ここが腕の見せどころ」とばかりに本領を発揮した。また、華美で奢侈(しゃし)な装いを好んだともいわれる。まさにファッションは彼らの生き方そのもの。オンリーワンを矜持(きょうじ)に争乱の世を駆け抜けた。
土岐頼遠(とき よりとお)はそんな婆娑羅大名の一人である。美濃国守護2代目であり、勇猛果敢(ゆうもうかかん)な武将として名を馳せていたが、行き過ぎた婆娑羅ぶりが仇となり、六条河原の露と消えた。
短くも破天荒(はてんこう)な頼遠の生き様は、当時の人々の心を大いに揺さぶるものがあった。頼遠とその一族である土岐氏の栄枯盛衰(えいこせいすい)をたどりながら南北朝という動乱期を振り返ってみたい。
※キャッチの写真は土岐頼清(土岐頼遠の兄)の肖像画 瑞巌寺所蔵・写真提供
「やっちまった…」 婆娑羅大名・土岐頼遠の起こした狼藉(ろうぜき)事件の顛末(てんまつ)
酔っぱらって絡んだ相手は北朝のVIPだった!
お酒を好んで嗜(たしな)む人は多いことだろう。「酒は百薬の長」とも言われ、適量であればストレスの発散になったり、コミュニケーションの潤滑油になったり、良いことはたくさんある。しかし、飲みすぎると取り返しのつかないことになる場合も…
1342年9月6日の夕方、土岐頼遠は笠懸(かさがけ)から帰る際、仏事を終えて屋敷に戻る途中の光厳(こうごん)上皇の一行に出くわした。笠懸とは武士の武芸鍛錬の一つとして流鏑馬(やぶさめ)同様、騎乗して的を射るもので、元々は射手の笠をかけて的にしたのでこう呼ばれるようになった。
上皇とは退位した天皇のこと。その行列に行き会ったら騎乗の者は馬から下りて、上皇一行をお見送りするのが礼儀である。ところが、この時頼遠はかなり酔っぱらっていたらしい。馬から下りようとしない頼遠に、上皇の従者が「何者だ。無礼ではないか。馬を下りろ」と注意したところ、頼遠に同行していた二階堂行春(にかいどう ゆきはる)はすぐに馬を下りてかしこまった。しかし、頼遠は馬から下りるどころか、従者に絡み始めた。「何だって? この頃、洛中でこのオレ様に馬を下りろと命じるような輩(やから)はおらぬはずだが、だれだ? お前」
その場にいた者たちはまさかの事態に驚き、慌てた。従者は再び「何をいうか。院(上皇)の行列だぞ」ときつくたしなめたが、頼遠は「あん? 院の行列だと? それとも院(いん)ではなくて犬(いぬ)と言ったか? 犬なら射落としてくれる」と笑って光厳上皇の車を取り囲み、矢を射かけたからたまらない。上皇の車は転倒。頼遠らはおもしろがってさんざん矢を射かけた後、その場を立ち去った。あるいは頼遠は矢を射かけたのではなく、車を蹴り倒したとする説もある。上皇はどんなにびっくりしたことだろう。やんごとなき身がこんな扱いを受けたのは、後にも先にもこの時が最初で最後だったに違いない。真っ青になり車に潜んでブルブル震えていたか、それとも路上に放り出されてしまったのかも…
足利直義、おおいに怒る!
頼遠はんが上皇様のお車に矢を射かけはったんやって。
そら、えらいことや。上皇様はどうなったんやろ。
ほうほうのていでお屋敷にお戻りあそばしたんやって。
へえ、そらまあ、無事でよかったなあ。
それにしても、土岐頼遠様といえば、飛ぶ鳥を落とすほど勢いのあるお方。なんでそんなことをおしやしたんやろなあ。
と都の人々がうわさをしたかどうかは知らないが(変な京都弁ですみません)、この話はすぐに広まったことだろう。朝廷側からは室町幕府に対して厳重抗議がなされた。知らせを受け、当時幕府の最高指導者だった足利直義(あしかが ただよし)はカンカンになって怒った。直義は足利尊氏の実弟。政治手腕に優れ、沈着冷静(ちんちゃくれいせい)な人物だったようだ。彼は北朝との関係構築に心を砕いてきた。将軍を名乗り、武家の棟梁として君臨するには朝廷の権威が必要なことを、直義はよく理解していたのである。頼遠が乱暴を働いた光厳上皇は、これまで尊氏の後ろ盾として室町幕府を支えてくれた北朝方のVIPだった。
頼遠は地方出身ながら足利方として多くの戦功があり、当時都でもおおいにその名を知られるほどの武将になっていた。しかし有名になるにつれ、図に乗ってヤンチャな行為をすることも多かったらしい。
幕府内には頼遠びいきの武将も多かった。しかし事が明るみになった以上、今回の行為に対して、直義は立場上、とういてい目をつむることはできなかった。
頼遠の刑死
「やっちまった…」
酔いがさめ、正気に戻った頼遠は、さすがに後悔して真っ青になったにちがいない。すぐさま都を抜け出し、領国の美濃に逃げ帰った。その後は頼遠が謀反するといううわさも立ったようだが、彼にその気があったのかどうかはわからない。
やがて頼遠はこっそりと上洛し、かねてより親交のあった臨川寺(りんせんじ)の夢窓国師(むそうこくし)を訪ね、取り成しを頼んだ。国師は室町時代初期の禅僧で、後醍醐天皇はじめ足利尊氏・直義兄弟からも崇敬(すうけい)されるなど、名僧の誉れ高かった。夢窓国師という名は後醍醐天皇から与えられたものである。美濃にも招かれたことがあり、現在多治見(たじみ)市にある虎溪山(こけいざん)永保寺(えいほうじ)は国師の開創である。作庭家としてもすぐれた才能を発揮し、永保寺の庭園は国の名勝であり、開山堂(かいさんどう)は国宝になっている。
しかし、そんな夢窓国師にも頼遠を助けることはできなかった。出頭した頼遠は事件から3カ月ほど経った12月1日、六条河原に引き出され、罪人として首をはねられてしまった。
足利尊氏を強力サポート 室町幕府の礎を築いた土岐氏
愛されキャラだった頼遠
以上が『太平記』にも登場する土岐頼遠の狼藉事件の顛末だ。普通なら頼遠もろとも土岐一族すべてが滅ぼされてもおかしくないほどの大事件だった。頼遠一人だけの処罰で済んだのは、夢想国師の働きかけもあったかもしれないが、それまでの彼や土岐氏の功績に拠るところが大きかったようだ。しかも「どうか、頼遠殿をお助けください」という声が処刑の直前まで寄せられていたらしい。頼遠は武力頼みの粗野な乱暴者ではなく、愛されキャラでもあったのだろう。
大失態にもかかわらず、みんなから助命嘆願が引きも切らなかったという頼遠はどんな人物だったのだろう。その出自である土岐氏の歩みと共に見てみよう。
鎌倉幕府では有力御家人の一人だった土岐氏 北条得宗家とも親戚に
土岐氏は清和源氏の流れを汲む名族である。平安時代末期に美濃に土着したと考えられ、鎌倉幕府の御家人となって美濃国土岐郡(岐阜県南東部一帯)を領有。宮中警護や京の治安維持にも努めた。また、北条得宗家とも縁戚関係を結ぶなど、有力御家人の一人でもあった。「麒麟がくる」の主人公・明智光秀も土岐氏の一族であるといわれている。
頼遠の父は土岐頼貞(よりさだ)といい、彼の母は鎌倉幕府第9代執権の北条貞時(異説あり)の娘とされ、妻は第8代執権・北条時宗の異母弟の娘だった。北条得宗家ファミリーとは縁の深い家柄だったといえるだろう。
鎌倉幕府の滅亡
しかし、後醍醐天皇が倒幕ののろしを上げ、天皇方から協力を請われた土岐氏は迷った末、それに応じる。最初の計画は鎌倉方に事前に事が漏れ、失敗に終わった。それでも後醍醐天皇は倒幕計画を進めるが、またもや事前に発覚。天皇は隠岐(おき)へ配流(はいる)になった。しかし、鎌倉幕府の中心人物と目されていた足利尊氏(※高氏ともいうが、ここでは尊氏で統一する)が後醍醐天皇に呼応して挙兵。頼貞はかなり早い段階で尊氏に味方したようだ。尊氏と同時期に新田義貞も挙兵し、鎌倉に攻め込んだ。尊氏の嫡男(ちゃくなん)義詮(よしあきら)がこれに加わり、関東の武士たちもこぞって倒幕運動に参加したため、鎌倉は陥落。執権の北条高時(ほうじょう たかとき)は自害し、幕府は滅亡した。
建武(けんむ)の新政を経て南北朝時代へ 美濃守護・土岐氏の誕生
建武の新政を始めた後醍醐天皇だったが、それは天皇を中心とした中央集権政治の復活であり、皇族や貴族を優遇し、倒幕に貢献した武士たちの功績をないがしろにするなどはなはだ公平性を欠いたものであったため、尊氏は天皇と決別。反旗を翻して各地を転戦した後、入京して室町幕府を開くが、この間も頼貞は尊氏に従っていたらしい。頼貞は初代の美濃守護に任命され、以後、土岐頼芸(とき よりのり)が斎藤道三によって美濃を追われるまでの200年あまりにわたり、土岐氏は美濃の守護であり続けた。
大激戦! 青野原(あおのがはら)の戦い
多勢に無勢もなんのその! 目前を敵が通り過ぎるのになんにもしないのは武士の恥
頼貞の跡を継ぎ、美濃守護2代目となったのが頼遠だった。彼は頼貞の七男で、若い頃から父について各地を転戦。その勇名ぶりをとどろかせていたらしい。土岐氏は岐阜県東濃地方を本拠としていたが、頼遠は現在の岐阜市の長森(ながもり)に拠点を移したとされている。
頼遠を一躍有名にしたのは、1338年の美濃・青野原の戦いであった。東北地方から大軍を率いて上洛しようとする南朝方の貴公子・北畠顕家(きたばたけ あきいえ)と、北朝方の頼遠らが現在の大垣市北部に広がる青野原(現大垣市青野町周辺)で激突したのである。青野原は関ケ原に近接しており、天平時代には美濃国分寺が建立されたが戦乱で荒廃した。当時は名前のとおり、青々した原野の広がる場所だったのだろう。
さて、北畠の大軍をどうするか、北朝方では軍議が開かれた。その結果、近江勢多(せた)の辺りで足利尊氏らが守りを固めているであろうから、この場は北畠をこのまま行かせて、我らはそれを追いかけ、勢多で挟み撃ちにするのがよかろうということになった。勢多とは現在の大津市付近、京都への入り口である。ほぼこれで決定と思われたその時、黙って聞いていた頼遠が口を開いた。
目前の敵が大軍だからといって、矢の一つの射ようともせず、敵が疲れたところを攻めるのは武将の恥、ここは頼遠一人でも、ひと合戦する。『美濃・土岐一族』谷口研語著
この時、北畠軍は30万とも50万ともいわれ、対する頼遠たちは8万。数字の正確さには疑問を挟む余地が大ありだが、いずれにしても数に大差があったことは間違いないようだ。頼遠としては、たとえ多勢に無勢でも、敵が行き過ぎるのをこのまま黙って見過ごすのは婆娑羅大名としての意地が許さなかったのだろう。頼遠の言葉は他の武将たちの心を奮い立たせた。その結果、青野原で合戦となったのである。
ラスボス頼遠、敗れてなおその戦いぶりは歴史に残る
数十万ともいわれる北畠の軍勢を相手に、頼遠らは軍を5手に分け、青野原をはじめとする西美濃各地に配備した。陣立てはくじ引きで決めたという。頼遠と足利一門の桃井直常(もものい なおつね)の軍勢は第5陣だった。まさに北朝方のラスボスである。
いざ戦いが始まると、大軍を前に4陣まではあえなく崩れ去った。いよいよ頼遠らの出番である。彼らは1千騎の精鋭部隊と共にその40倍もの北畠顕家の本隊に向かって突撃。縦横無尽に暴れ回った。さらに1時間ほど経って、今度は顕家の弟の大軍めがけて突撃。最後は数十騎になるまで戦い、頼遠はなんとか拠点である長森に帰還した。一時期、行方不明になったという説もある。
彼のすさまじい奮戦ぶりを評して、今川了俊(いまがわ りょうしゅん)という人物は著書『難太平記』の中で次のように述べている。『難太平記』は青野原の戦いより70年ほど後に成立した歴史書だ。了俊は今川義元の祖先で、南北朝時代、九州探題に任命され、南朝の勢力を抑えて九州を平定した。正室は土岐氏の出身である。
青野原の軍(いくさ)は土岐頼遠一人高名(こうみょう)と聞(きき)し也
婆娑羅なだけでなく、文化人としても光っていた頼遠
頼遠は戦乱の中にあってこそ光る男だったのだろう。戦いに敗れはしたものの、その名声は敵味方に広く知れ渡った。都を目指していた北畠顕家だったが、青野原の戦いで勝利したものの軍勢は疲弊。進路を伊勢方面へと変更したが、北朝方の高師直(こうの もろなお)らに敗れて戦死した。頼遠らの奮戦は結果的に北朝方の勝利へとつながったのである。頼遠の死はこれよりわずか4年後であった。
婆娑羅な側面ばかりがクローズアップされがちな頼遠だが、実はなかなかの文化人でもあった。天皇や上皇の命によって編まれた勅撰和歌集にも彼の詠んだ歌が入っている。また父の頼貞がそうであったように深く禅宗に帰依し、夢窓国師を開山として美濃にいくつか寺を創建している。
この時代、頼遠同様に婆娑羅大名として名を馳せた人物に、近江の佐々木道誉(ささき どうよ)がいる。彼もまた独自の美意識と高い教養を身に着け、文武両道に秀でていた。
頼遠の場合、名声が高まるにつれヤンチャ度に磨きがかかり、刑死という結果になってしまったのはとても残念だが、土岐一族の繁栄はその後も続いた。
北朝の後光厳天皇が頼康を頼って美濃へ
頼遠亡き後、甥(おい)の頼康(よりやす)は美濃・伊勢・尾張3国の守護となり、土岐氏の最盛期を築いた。土岐一族の拠点が頼遠の代に東濃から岐阜市の長森に移ったと前に書いたが、次第に都に近い西寄り(京都寄り)に勢力を広げている。
頼康は父・頼清(頼遠の兄)の菩提寺である瑞巌寺(ずいがんじ)を美濃に建立。1353年には北朝の後光厳(ごこうごん)天皇が戦火を避け、頼康を頼って美濃にやってきた。頼康は天皇のために小島(おじま)の頓宮(とんぐう 仮の宮)を建て、天皇は2ヶ月ほどそこに滞在した。その時のことを京都から天皇の後を追ってやってきた二条良基(にじょう よしもと)が「小島(おしま)のすさみ」という紀行文に残している。彼は摂政・関白を歴任し、北朝5代の天皇に仕え、連歌を得意とした人物だった。
土岐桔梗一揆 兜(かぶと)に指した桔梗の花は一致団結の証
また、土岐一族は「土岐桔梗一揆」と呼ばれていた。本来の一揆とは何らかの理由により、目的を一つにして一致団結することを表し、反乱軍という意味ではない。南北朝の頃には武士たちの戦闘集団を一揆と呼んでおり、「土岐桔梗一揆」は土岐一族の戦闘集団を表している。
ところで明智光秀も土岐一族だといわれている。「麒麟がくる」に登場した彼の家紋を覚えているだろうか? 水色桔梗である。桔梗紋は土岐氏の紋だ。その昔、ある合戦の際に桔梗を兜に指して戦ったところ、土岐一族は大勝した。以来、土岐氏の家紋は水色に桔梗紋を染め抜いた水色桔梗を定紋とするようになった。頼康は土岐桔梗一揆を率いて各地で活躍。そこには水色桔梗の旗がひるがえっていたのである。
土岐の鷹
約半世紀続いた南北朝の争乱は、室町幕府の3代将軍となった足利義満が南北朝の政権合一を果たした1392年に終わりを告げた。義満は将軍としての権力掌握に力を注ぎ、当時、美濃・尾張・伊勢の三国を領有していた土岐氏の勢力をも削減しようとする。頼康の跡を継いだ康行(やすゆき)は義満の挑発に乗って挙兵するが敗れ、尾張と伊勢を取り上げられたばかりか、守護職まで叔父の頼忠(よりただ)に取って代わられてしまう。
以後、さまざまな紆余曲折や内紛を経て、下剋上(げこくじょう)の嵐が吹き荒れる中、美濃守護職としての土岐氏は頼芸で終焉(しゅうえん)を迎えるのは先に述べたとおりである。
土岐氏の当主は代々和歌や連歌、漢詩、絵画などにもたしなみが深く、特に鷹の絵を好んで描いた。中でも頼芸は鷹の絵を得意としていた。これらは「土岐の鷹」と呼ばれて珍重されている。
鷹は鷹狩りでも知られるように、古来、武術の鍛錬と娯楽、また狩猟としての実益を兼ねて武士に親しまれ、江戸時代には将軍と有力大名の独占となった。翼を広げて大空を舞い、鋭いくちばしと爪で獲物を捕らえる鷹の姿には気品と風格があり、武士の心にも通じるところがあったのかもしれない。
波乱万丈の生涯をおくった頼芸だったが、最期は美濃に戻って亡くなったと言われ、墓は揖斐川町谷汲(たにぐみ)の法雲寺に残っている。目が見えなくなっていたということだが、彼自身もまた心に雄々しさを秘めた一羽の鷹だったのだろうか。
【取材・撮影協力】
瑞巌寺 岐阜県揖斐郡揖斐川町瑞岩寺192
【写真提供】
瑞巌寺 岐阜県揖斐郡揖斐川町瑞岩寺192
【参考文献】
『土岐源氏主流累代史全』渡辺俊典著
『美濃・土岐一族』谷口研語著
『土岐頼貞とその一族』西尾好司著