春と秋、どっちが好き?その理由も教えて。そう聞かれたら、どう答えますか? 暖かな春でしょうか。それとも猛暑がやっと落ち着いて過ごしやすい秋?
春と秋のどちらが優れているか比較して議論することを「春秋優劣論」といいます。この議論は、古事記や万葉集、さらに平安時代に書かれた長編小説の『源氏物語』や日記文学の『更級日記』にも登場します。
どうしてこの議論が起こったのか気になりませんか?
平安時代における春夏秋冬の分け方について
平安時代の暦は太陰太陽暦
平安貴族はいったい、春と秋のどちらの季節が好きだったのでしょうか。そもそも彼らの時代における春夏秋冬の分け方は、今と同じだったのでしょうか。
この手掛かりになりそうなのが、平安時代に使われていた暦です。
平安時代の暦は月の満ち欠けに太陽の動きを考慮した太陰太陽暦でした。ただこれだけだと、どうしても暦と太陽のめぐりにズレが生じるため、途中に閏(うるう)月という臨時の月を設けて調整しました。
太陽暦(グレゴリオ暦)を使っている現代でも、4年に一度、2月の最後を1日増やす閏年がありますよね。
春、夏、秋、冬の分け方はきっちり
さて平安時代の春夏秋冬の分け方ですが、1月1日(正月1日)から3月末日までが春。以下、夏、秋、冬も3カ月ごとに、きっちりと分けていました。これから暑くなろうとも、7月1日からは秋といったら秋なんです。
ただし閏月を設けたとはいえ、太陰太陽暦と太陽暦とではズレが生じてしまいます。そのため平安時代と現代とでは、暦の日付が1カ月~1カ月半ほど異なることも。
たとえば『源氏物語』が文献初出された1008(寛弘5)年の場合、この年の1月1日は現代の暦では2月16日にあたります。
かなりズレていると思いませんか?
ちなみにこの年の7月1日を現代の暦に当てはめると、8月10日になります。これから暑くなるのに、秋だなんて……。
では、太陰太陽暦と太陽暦とのズレを1カ月として四季を分けるとどうなるでしょうか。
太陰太陽暦では1~3月が春なので、太陽暦だと2~4月までになります。以下、夏は5~7月、秋は8~10月、冬は11~翌年1月。春夏秋冬を3カ月ごとにきっちり分けていなければ、現代の季節感とかなり近くなってきましたよね。
美しさや雅やかさは春秋それぞれ。春と秋のどちらが優れているかを平安貴族たちが論じたくなったとしても、特に不思議はないでしょう。
『源氏物語』の春秋優劣論
『源氏物語』薄雲
『源氏物語』での春秋優劣論の発端は、19帖「薄雲」で光源氏の邸宅・二条院へ里下りした斎宮の女御(さいぐうのにょうご / 後の秋好中宮)に対し、光源氏が「あなたは春と秋のどちらが好きですか?」と尋ねたこと。
この時、斎宮の女御は自身の母・六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)が秋に亡くなったことなどから、秋を選びます。
光源氏と斎宮の女御は親子ではありませんが、紆余曲折の末、斎宮の女御は光源氏の養女となり入内しました。光源氏の邸宅が里下がり先(実家)なのは、このような理由からです。
『源氏物語』少女
時は流れ21帖「少女」に。斎宮の女御は中宮(帝の妃の中では最も高い位)となり、秋好中宮と呼ばれるようになりました。
その後、光源氏の新しい邸宅六条院が完成し、秋好中宮の里下がり先は六条院の一角「秋の町」になりました。その東隣の「春の町」は光源氏と紫の上の住まいです。
広大な敷地に建てられた六条院は方角ごとに四季を表した4つの町に分けられ、それぞれ季節に合った庭づくりがなされていました。
「春の町」には桜、藤、山吹など春に咲く花々や木々が。「秋の町」には紅葉をはじめ、植えられた秋の草花が見事な景観を作り出していたのです。
六条院が完成したのは、次第に秋めいて来た8月のこと。その翌月のある風の吹く夕方。里下がりしていた秋好中宮は、邸の庭に色づいた秋の花や紅葉などを箱の蓋に入れたものを女の童(めのわらわ / 侍女見習いの少女)に持たせ、隣の邸に住む紫の上の元に届けさせました。
「こちらの邸の紅葉が風に乗って、そちらの邸まで飛んで行きました」と見立てたようです。
紅葉には
”心から 春待つ園は わが宿の 紅葉を風の 伝(つて)にだに見よ”
<意訳>春を待つあなたの庭には、今は何も見るべきものがないでしょう?
せめて風の便りにでも、私の庭の紅葉をご覧くださいませ。
と和歌が添えられていました。春秋優劣論の始まりです。
……こう書くと、いかにも火花バチバチ女同士の闘いの始まりを連想しそうですよね。
けれど、秋好中宮は穏やかな性格だったと考えられるため、この贈り物は紫の上にあてた華やかで風流な、そして微笑ましくも美しい挑戦状でした。
そう、秋好中宮が春秋優劣論の相手に選んだのは、光源氏の正妻格・紫の上だったのです。
春と秋のどちらが好きなのかを彼女と対等に言い合える相手は、身分的にも知性のバランス的にもそう多くはいないと思われます。秋好中宮と紫の上は親王の皇女(女王)同士で年齢も近いんですよ。
秋好中宮から予想外な挑戦状を受け取った紫の上は、光源氏から「今は季節柄、春が好きなあなたの分が悪いと思う。機会が訪れるのを待った方が良いのでは?」と勧められます。
そこで紫の上は、その箱の蓋へ苔を敷き岩を据えて箱庭風に仕立て、さらに岩の上へは五葉の松を置いて春の緑に見せかけたものに、和歌を添えて秋好中宮へ返しました。
”風に散る紅葉は軽し 春の色を岩根の松にかけてこそ見め”
<意訳>風に散ってしまう紅葉は軽いもの。
春の緑を、この変わらぬ岩根の松にかけてご覧下さいね。
この機転の利かしようったら、さすが、紫の上です。「うふふ。お見事な返しだわ」秋好中宮は手応えを感じるとともに、嬉しく思ったかもしれません。
この勝負は、紫の上が好きな春へ持ち越しとなったようです。
『源氏物語』胡蝶~宴~
そして翌春。24帖「胡蝶」で、紫の上から秋好中宮へ半年前の意趣返しが行われます。とはいえ、これも表立って火花をバチバチ散らすような闘いではなく、あくまでも優美なものでした。
それは3月20日頃に光源氏が春の町で催した船楽(ふながく / 船の中で音楽を演奏をすること)での出来事です。
平安貴族の邸には夏の暑さを和らげようと、寝殿(母屋)の前庭へ鑓水を引き入れた池がありました。京都の夏の蒸し暑さは別格です。以前、真夏に京都旅行をした筆者は、参拝していた寺院の池の水面を渡る風で涼を取りました。うん。寝殿前に池を造るのはありです。
六条院の春の町と秋の町とに造られた池は東西に細長い1つの池で、2つの町を行き来できるようになっていました。光源氏はその池にできたばかりの唐風の船を浮かべ、船の中で御所の雅楽寮から招いた楽人に雅楽の演奏をさせたのです。
この時期、秋好中宮が秋の町へ里下がりしていました。3月末日までは春なので暦的には結構ギリギリですが、紫の上が秋好中宮へ半年前の返事を出すのにちょうど良いタイミングです。
しかし中宮という立場上、秋好中宮に春の町まで気軽に訪問してもらうことはできません。
そこで秋好中宮付きの若い女房たちを船に乗せ、春の花盛りの庭を見せることに。
よそでは盛りを過ぎた桜も、ここではまだ花ざかり。池のほとりには山吹も咲き乱れていました。
女房たちから中宮へ、それとなく春の町の素晴らしさを伝えてもらいたかったのかもしれませんね。
『源氏物語』胡蝶~法要~
明けて翌日。この日は秋好中宮による季の御読経(きのみどきょう / 春と秋に行われる仏事)の初日でした。
紫の上は秋好中宮の仏前へ供養の花を届けさせるため、特に美しい女の童8人を選び鳥や蝶の装束をさせました。そして鳥には銀の花瓶に桜を、蝶には金の花瓶へ山吹を挿したものをそれぞれ持たせ、春の町の池から船に乗り秋の町へ届けたのです。
金×桜色と銀×山吹色。春らしいけれど、厳かさも感じさせるかのような色合いと言えましょう。
紫の上から秋好中宮への手紙は、光源氏の長男・夕霧が届けました。
それには
”花園の 胡蝶をさへや 下草に 秋待つ虫は うとく見るらむ”
<意訳>花園の胡蝶さえ、秋がお好きなあなたは、まだつまらないものだと見ているの?
とありました。
「あの時のお返事ね」と秋好中宮は微笑み、昨日の女房たちも「たしかに。春の美しさを、けなすことはできないわ」と、春に降参します。
その後、秋好中宮は夕霧に返歌を託しました。
”昨日は音に泣きぬべくこそは。
こてふにも 誘はれなまし 心ありて 八重山吹を 隔てざりせば”
<意訳>昨日はお伺いしたくて、泣いてしまいそうでした。
胡蝶に誘われて、そちらへ行きたいくらいだったのよ。
八重山吹のように(幾重にも)隔てがなければ……。
おや? この歌から推測すると、秋好中宮は春の勝ちを認めたように思えませんか? 中宮は、春を推す紫の上をあえて立たせた形を取ったようです。
春も秋もどちらも優れているもの。優劣はつけられません。この秋好中宮の返歌により、六条院での春秋優劣論は終わりました。
平安時代における『源氏物語』以外の春秋優劣論
『更級日記』の場合
春秋優劣論が登場するのは『源氏物語』だけではありません。
平安時代の日記文学『更級日記』では、作者・菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)が宮仕えをしていた頃の出来事として春秋優劣論が書かれています。
といっても『源氏物語』のように大掛かりではなく、とある殿上人から「あなたがたは、春と秋のどちらがお好きですか?」と問われた作者と同輩女房が、それぞれ好きな季節を答える、といった簡単なものです。
この時、同輩女房が「私は秋の夜が好き」と答えたため、作者は同じ季節を言うのは止めようと思い、春が好きな理由を和歌に込めました。
”浅緑 花もひとつに 霞みつつ おぼろに見ゆる 春の夜の月”
<意訳>淡い緑色の霞に桜の花の色がひとつになって、ぼんやりと春の夜の月が見えています(その風情に特に心が惹かれます)。
すると殿上人は、この歌を何度も口ずさみ、「<意訳>あなたが良いと言った春の夜を、あなたと出会った思い出の拠り所にしましょう」と返します。
これを聞いた同輩女房が「<意訳>2人とも春に心を寄せてしまったのね。では、私だけが秋の夜の月を眺めるのことになるのかしら」と言い出したので、殿上人はどちらに味方をすれば良いのか迷ってしまいます。そして、殿上人自身が体験した忘れられない冬の夜の思い出を語り、2人と別れました。
結局、『更級日記』では春と秋のどちらが優れているかの答えは出ていません。ただ、作者がこのエピソードを日記に書いたことにより、この時の春秋優劣論の様子が後世に残りました。
『論春秋歌合』の場合
平安時代前半の延喜末期には『論春秋歌合』が行われました。とはいえ、これは実際に歌合せが行われたかどうかは不明で、もしかしたら紙上歌合せだった可能性もあります。
簡単に紹介すると、「くろぬし」と「とよぬし」がそれぞれ春と秋の良さを和歌に詠み、最終的に「みつね」が判定を下す、というものです。
「くろぬし」は六歌仙のひとり大友黒主、対する「とよぬし」は滋賀豊主で、「みつね」は『古今和歌集』の選者・凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)です。古文の教科書を思い出させるメンバーですね。
気になる歌合せの内容は、
「<意訳>春は花が咲くだけじゃん。あちこちで紅葉する秋の方が優れてる」(とよぬし)
「<意訳>秋は紅葉だけだろ。春には香りがあるから優れてる」(くろぬし)
このような感じで、季節ごとの良さを語るものでした。
この歌合せに「みつね」が下した判定は、「<意訳>春も秋も、どちらにも色々な趣があるから判定は下せないな~。ただ、季節ごとに感じるしかないよね」というものでした。
そう、引き分けなんです。春と秋。どちらが優れているかは、なかなか難しい問題です。
平安貴族の季節感
長編小説『源氏物語』では春の勝ち。日記文学『更級日記』と紙上歌合せだったかもしれない『論春秋歌合』では引き分け。平安貴族の間で行われた春秋優劣論はこのような結果でした。
では、平安貴族たちの季節感はどうだったのでしょうか。
春は新しい年の訪れを宣言する心楽しい季節
新しい年の訪れを宣言する心楽しい季節、それが春です。
雪が降り辺り一面色彩のない世界から、色付く世界へ。襲の色目に見られるようにデリケートな色彩感覚を持つ平安貴族たちは、どれほど春を待ち望んだことでしょう。
梅が咲き鶯が鳴き、長い間休眠していた花々が順々に開花していく様子は、21世紀を生きる私たちでもウキウキしますよね。
平安貴族たちは特に桜が好きだったようで、『源氏物語』では44帖「竹河」で玉鬘(光源氏のライバル頭中将の娘にして、光源氏の養女)の2人の娘が、庭先の桜の花を賭けて碁を打つ姿が書かれているほど!
夏はほととぎすと藤の花
夏と云えば、ほととぎす! 平安貴族たちは、この鳥が鳴けば5月=田植え時期と認識していたようです。
ほととぎすの飛来時期は今の5月中旬~下旬頃。渡り鳥なので、もしかしたら平安時代にはももう少し遅い時期に飛来していたのかもしれません。
花はとにかく藤の花。藤花の宴は『源氏物語』に3カ所登場しますが、これは実際に宮廷(後宮)の殿舎「藤壺」でも行われたそう。
けれど前述のように、京都の夏の暑さは厳しいもの。平安貴族たちは秋の訪れを待ち望んでいました。
秋の訪れを感じるのは風の音から
「早く秋にならないかな~。だって暑いのはヤなんだもん。耐え難いんだもん」
そんな彼らは、風の音に敏感でした。風の音の爽やかさに気が付けば、まだ秋景色が見られなくても、ただそれだけで「秋が来たっっ」と喜び歌が詠めるんです。
しかも秋には七夕や十五夜などの行事もあり、特に8月の十五夜には宮中で「観月の宴」が行われました。夏の暑さから逃れられた季節を、平安貴族たちが放っておくはずがありません。
秋の夕暮れを美しいと感じた心が、「わび」や「さび」と云う日本独特の美の概念をも生み出したとされています。
また、秋は彼らにとって結婚の季節でした。ということは破局の季節でもあるわけです。そう、本命女性との結婚を控えた男性が、とかく結婚の約束を反故することが多い季節でした。
秋は物悲しく寂しい季節。そう云われるようになったのは、どうやらこのことにも一因があったようです。
そうそう。『源氏物語』の春秋優劣論では紫の上の推す春が勝ちましたが、実はその後の28帖「野分」に、「春秋での優劣を決めるとすると、昔から秋に心を寄せる人が多い」とあるんですよ。
けれど、35帖「若菜下」で光源氏が息子の夕霧と交わした音楽の春秋優劣論では、「昔から多くの人が議論してきたが、どちらが優れているか判断がつかなかった。世の末の劣った我々には、判断できそうもない」と結論付けています。
ただ2人が行った音楽の春秋優劣論は、「楽器の演奏を見聞きするなら、春と秋のどちらが良いと思うのか」だったので、単純に季節の優劣ではなかったのかもしれませんね。
冬は籠る
「いつまでも秋だといいな~。だって寒くなるのはイヤだもん」
そんな思いから平安貴族たちは、秋の終わりを心情的に引き延ばす傾向にありました。
ただでさえ、彼らは秋~冬~春をひと続きのものと考えていたため、待望の春と秋に挟まれた「冬」は(定義上の長さはともかく)とても短い季節でした。
京都の冬は底冷えがして、身体の芯からしんしんと冷えます。筆者は以前、2月に京都旅行しましたが、雪が降らなくても特に強い風が吹かなくても、とにかく寒かったことを覚えています。『古今和歌集』に登場する季節の中で、一番少ないのも頷けますね。
平安貴族が好きなのは春? それとも秋?
平安貴族が好きなのは春でしょうか。それとも秋なのでしょうか。
これまでいくつかの春秋優劣論を紹介しましたが、平安時代前期の勅撰和歌集『古今和歌集』の春歌、夏歌、秋歌、冬歌に収録された歌の数を比較すると、一番多いのは秋歌なんです。
それだけでなく『源氏物語』では秋よりも春が辛うじて多く記されていますが、自然描写では圧倒的に秋の方が多いんです。
ん? ということは、平安貴族は春よりも秋が好きだった……!?
筆者は桜が咲き誇る春も、錦秋に染まる秋も好きなんですけどね。
花より団子、食欲の秋。どちらの季節も優劣つけがたく、素敵な季節。あなたはどちらが好きですか?
参考文献
『伊勢斎宮と斎王』(榎村寛之/著・塙書房)2004年6月
『わたしの古典10 阿部光子の更級日記・堤中納言物語』(阿部 光子/著・集英社) 1986年11月
『王朝びとの四季』(西村亨/著・三彩社)1972年7月ほか
アイキャッチ画像:『源氏物語図屏風(絵合・胡蝶)狩野〈晴川院〉養信筆』東京国立博物館所蔵 出典:ColBase
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