奈良時代とは、現在の奈良市に都のあった710(和銅3)年から784(延暦3)年までの74年間のことを言います。
奈良は那羅、奈羅、乃楽、寧楽、楢などとも書かれますが、一般的には奈良の都のことを指し、この都の名称は「平城京(へいじょうきょう/へいぜいきょう)」といいます。この時代のキーポイントを「感動モーメント」として7つご紹介します。
この記事を読んだ編集部スタッフが奈良時代をざっくり1枚の絵ににまとめてみましたので、こちらを参考に読み進めていただくといいかもしれません。
奈良時代の感動モーメント1——仏教を根幹に置く都
平城京に都が置かれる9年前の701(大宝1)年に完成したのが「大宝律令(たいほうりつりょう)」です。平城京は、この律令に基づいて「中央集権的な国家体制」としてかたちづくられました。この時代の日本の人口は約600万人と推計されています。
平城京は遷都する直前の藤原京よりも一回り大きく、東西約4.3キロメートル、南北約4.8キロメートルにもおよぶ機構でした。この都に大安寺、薬師寺、興福寺、東大寺、法華寺(ほっけじ)、西大寺(さいだいじ)などの大寺院が次々と建設されます。
平城京は、仏教を根幹に置く都でもあったのです。
奈良時代の感動モーメント2——藤原一族のビッグパパ・不比等の登場
律令政治では、国の様々な方針を決める主権は天皇にありました。しかし、天皇の詔書の発令には、「太政官」の署名が必要でした。太政官を構成する構成員は、重要な政務について会議を開き、結論を天皇に上奏することができました。
奈良時代の初期の元明・元正天皇は女帝で、自然と太政官の発言力が強まります。このとき実質的に最上位の地位にあったのが右大臣・藤原不比等(ふじわらのふひと)でした。不比等は飛鳥時代に「大化の改新」を行った中臣鎌足(なかとみのかまたり)、のちの藤原鎌足の息子です。奈良時代の基本路線は、彼によってつくられたといっていいでしょう。
彼は自分の娘を文武天皇と結婚させるなどして、天皇との結び付きを深めていきます。これが後に絶大な権力を握ることとなる藤原家の基盤となりました。
奈良時代の感動モーメント3——THE良い人・長屋王に謀反の疑い
現在でも、数十年前の法律が社会の進展にそぐわなくなることがあるように、大宝律令も徐々に時代に適合しない部分が出てきます。不比等の死後、この律令制度をどのように社会に適合させるかという点が、平城京政府の重大課題でした。
不比等の死後、こうした政界の中心に立ったのが大納言長屋王(721年に右大臣)でした。元正・聖武両天皇のもとで、長屋王は貧民の救済に取り組みます。特に723年の「三世一身法」は開墾を奨励する方策で、新しく灌漑施設をつくって開墾した者には3代の間(つまり開墾した本人から見て子・孫・ひ孫の世代まで)、墾田を所有することを認めました。
長屋王は律令制の維持と社会問題の解決に努めますが、729(天平1)年、「謀反を企てている」と密告する者があり、彼は家族とともに自害に追い込まれます。これが「長屋王の変」です。後にこの密告は無実であることが判明しますが、この後すぐに不比等の娘・安宿媛が皇后となり、光明皇后と呼ばれます。律令の規定では皇后は皇族に限られており、これは異例のことでした。こうして、政治の中心は再び藤原家へと戻っていきます。
奈良時代の感動モーメント4——われらッ!藤原4兄弟!!
政権が藤原氏の手中に戻った731(天平3)年当時、太政官を構成していたメンバーは、
・知太政官事 舎人親王(とねりしんのう)
・大納言 多治比池守(たじひのいけもり)
・同 藤原武智麻呂(むちまろ)
以下、参議まで合計12人でした。
このうち、藤原氏は武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)の4兄弟で、この4人を中心とする政権は「藤四子政権」と呼ばれます。
こうした政界の変動は社会の動揺を激しくします。このとき登場したのが僧・行基(ぎょうき)でした。
彼は令の禁止を破って民間に仏教を広めたため、717(養老1)年以降、政府の弾圧を受けますが、それでも彼は池溝を掘り、道橋をつくるなど社会事業を行って布教を行ったため、その教えは民間に広がり、十数年で彼を慕う信者は政府を脅かすほどの人数となります。
またこのころ、海外から伝染した天然痘が国内で大流行します。流行は735年に大宰府から始まり、翌年には都にまで猛威を振るうようになり、おびただしい数の死者を出します。このとき、平城京の貴族も多くが命を落とし、先の武智麻呂以下4兄弟も死亡して、藤四子政権は消滅しました。
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奈良時代の感動モーメント5——橘諸兄の登場と大仏建立プロジェクト
藤原4兄弟の死を受けて、政府の中心となったのは大納言 橘諸兄(たちばなのもろえ)でした(738年に右大臣)。
この当時の東アジアでは、唐のパワーは絶大で、非常に進んだ制度と文化を持っていました。この唐と友好関係を保ちつつ、制度や文化を学ぶことは国の存立と発展のためにも必須でした。政府は、しばらく中絶していた遣唐使の派遣を再開します。奈良時代に入っての第1回は717(養老1)年で、吉備真備(きびのまきび)、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)、僧玄昉(げんぼう)らが留学生・学問僧として随行します。
「反藤原勢力」でもあった橘諸兄は、政治から藤原家の影響を排除しようと務め、帰国した吉備真備(きびのまきび)と僧玄昉(げんぼう)を重用し、さらに、深刻な被害をもたらした天然痘の被害から立ち直るべく、緊縮政治を実行します。
しかし、この政権に不満をつのらせていたのが藤原4兄弟の一人、宇合の長男・広嗣(ひろつぐ)でした。740年、広嗣は真備と玄昉の追放を要求して挙兵します。これを「広嗣の乱」といいます。
広嗣は九州各地の軍団の兵などを集めますが、一方の政府も、征討軍を召集。挙兵から2ヶ月ほどで征討軍は広嗣の軍を撃破し、広嗣はその後捕らえられ、乱は終わりました。
乱は収まったものの、時の聖武天皇は橘諸兄と藤原氏の勢力争いの影響からか、伊勢や美濃、近江などに次々と都を移します。この真意は不明ですが、こうした遷都の騒ぎのなかで聖武天皇が出したのが、「盧遮那大仏(るしゃなだいぶつ)造立の詔(みことのり)」。つまり、大仏建立プロジェクトです。政情不安と伝染病の治まりを、仏教への帰依によって祈ったのでしょう。
奈良時代の感動モーメント6——藤原家、再び。
また、政府は743年に「墾田永年私財法」を制定し、一定の限度内で開墾した土地を開墾者が永久に私有することを許します。これは先述した「三世一身法」をさらに推し進める政策でしたが、これに目をつけた貴族や豪族、寺院の土地私有がこれ以後増加していきます。特に、有力な貴族や寺院は農民などを雇って開墾させ、さらには農民の開墾した田を買い集めたりして私有地を広げ、荘園(しょうえん)としました。これを「初期荘園」といいます。
一定の勢力を気づいた政界では、諸兄派が期待を寄せていた安積親王が744年に急死したことで諸兄派は打撃を受けます。そして、このころから勢力を伸ばし始めていたのが、藤原武智麻呂の次男、藤原仲麻呂でした。
彼は、聖武天皇の譲位に伴って光明皇后が皇太后となったのをチャンスと捉え、皇后に関する部署を拡大・改組して「紫微中台(しびちゅうだい)」という役所を新設。自らその長官となり、有能な官人を多数職員とします。これ以後、重要な政務の処理は太政官から紫微中台へと移り、孝謙天皇に代わって光明皇太后が仲麻呂の補佐によって政治の中心を担っていきました。つまり、再び藤原勢力が政治の実権を握ったのです。
奈良時代の感動モーメント7——華やかな天平文化と記紀編纂
この時代の文化は、聖武天皇の時代の年号を取って「天平文化」と呼ばれます。
特徴は、遣唐使によってもたらされた大陸の文化の影響が見られること。非常に国際的です。
また『古事記』と『日本書紀』の編纂も重要です。その一方で、『万葉集』が編纂され、一般民衆の歌も取り入れられたり、農村の芸能が宮廷で演じられるなど、民族性にも富んでいました。
ここに、政府の保護によって栄えた仏教文化も加わり、優れた仏教美術がつくられました。薬師寺金堂の薬師三尊像、東大寺戒壇院(かいだんいん)の四天王像、興福寺の八部衆像などが特に有名です。染織、金工、漆工なども唐の技術を取り入れて発達し、政府の工房で働く技術者によって精巧な品がつくられました。正倉院にはその優れた作品が多数収蔵されていて、インド、イスラム、東ローマ地域からの渡来品も含め、国際的な天平文化の特色は、宮中で上演された伎楽(ぎがく)や伎楽面にも現れています。