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2023.12.22

日本初の職業看護師、大関和。〝明治のナイチンゲール〟波乱の人生に迫る

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もうずいぶんと前になるけれど、古書店でなにげなく開いたページに書かれていた言葉が私の興味を惹いた。「看護とは、患者の生命力の消耗を最小にするように整えるすべてのことを意味すべきである」表紙には“Notes on Nursing”とある。作者の名はフロレンス・ナイチンゲール。近代看護の創始者だ。

看護という仕事には、高度な知識と技能が求められる。人が生きる基底に深くかかわるはずなのに、待遇は決してよいとはいえない。

ナイチンゲールのように歴史の教科書に登場せずとも、近代日本にも、「看護婦」の礎を築いた女性がいたことをご存じだろうか。それが、大関和(ちか)。日本初の正式な教育を受けた看護師であり、職業看護師を女性の自立した職業として確立させたパイオニアである。

明治のナイチンゲール、大関和

1900年(The Metropolitan Museum of Art)

日本が開国に揺れていた時代。
大関和は、1858(安政5)年4月11日、黒羽藩(現在の栃木県大田原市あたり)の家老の娘として生まれた。18歳のときに故郷の大地主としぶしぶ結婚、それだって坊主頭にするくらい嫌だった。それもそのはず、22歳も年上の夫には数人の妾がいたし、妾とのあいだにはすでに子どもが5人もいたのだ。和は、18歳のときに初めて男の子を産んだ。6番目に生まれたから、名前は六郎。腹がたった。でも、仕方なかった。離婚すれば父の名誉を傷つけることになりかねないし、当時、一夫多妻はめずらしいことではなかったから。

しばらくして、女の子を産んだときには和の心はすでに決まっていたのかもしれない。夫のもとへ戻るつもりはなかった。小さな子どもを連れて、20歳の和は父の知人を頼って東京となった江戸(一説には横浜とも)へ向かった。

東京へ出てからの記録はあまりくわしく残されていない。ただ、手に職をつけようと通っていた英語塾でキリスト教に出合ったこと、牧師から「看護婦」になることを勧められたことで和の人生は大きく動きはじめる。

何がなんだか分からないままに、すべてがある方向に動き出すことってありますよね。

看護婦のいない国

『水雷士官』文芸倶楽部 第1巻8編、梶田半古、1900年(The Metropolitan Museum of Art)

現代の医療にすっかり慣れているせいか、ひと昔まえの医療について調べていると驚くことばかりだ。たとえば、当時の日本には専門的に学んだ看護婦がいなかったこと、とか。

それなら、いったい誰が看護の仕事を担っていたのだろう。
それまで日本の看護婦は、無学で無知識で看護の方法も知らない、看護婦とは名ばかりの病人の小使いのようなものだった。

この頃、コレラ騒動があった。患者の出た家では家族への感染を防ぐため、看病のために看護婦が雇われたが、専門の教育を受けていない彼女たちは感染して亡くなることも珍しくなかった。看護婦が知っていることといえば、包帯の巻き方ぐらいで、負傷した兵士たちはろくな手当てを受けられず、医師の命令のままに動くばかり。患者の世話はほとんどおざなりにされていたのである。世間のほうも、看護婦を卑しい仕事とみなしていた。なかには「命を売って金儲けをする卑しい人間」と中傷する者もいたという。

現代では看護師はあこがれの職業の1つですよね……。

1882(明治15)年の春。
キリスト教に触れた和は、植村正久の教会へ足繁く通うようになる。植村は和に、ナイチンゲールについても説いたかもしれない。知性も教養も財産も何ひとつ不自由ない身でありながら、もっとも慈善的な事業として看護婦を選んだ女性について。そのふるまいのどこに卑しさがあるというのか、と。植村は和に語った。

「この世で病に苦しんでいる人ほど不幸な人はいない。その病人を真心をもって看護することで天なる父の慈愛を示すのは、これ以上の伝道はないと思う。神の恩を口で説いて感動を与えるより、それを言動に現して悟らせるべきではないだろうか」(『婦人新報』第一七八号、明治45年4月25日)

このときの和が看護婦という仕事にどれほどの興味をもっていたのかはわからない。でも看護婦の不足のために志願を呼びかけていたのはキリスト教関係者だったし、植村牧師の薦めもあった。迷いつつも参加した横浜の貧民窟での慈善活動で目にした光景も、和を看護婦の道に決意させたのかもしれない。劣悪な生活環境、蔓延する病。そして、体を売って暮らす女性たちの姿があった。

大関和、看護婦を目指す

1885(明治18)年、日本で正規の看護教育が始まった2年後。和は28歳のときに、アメリカ人宣教師マリア・トゥルーが設立した「桜井女学校附属看護婦養成所」の一期生として入学する。マリアは植村牧師の開く日曜学校のために早くから協力してくれた人物でもあった。

教える側も教えられる側も手探りで、学ぶ方が真剣なら、教える方も真剣だった。外国人教師の来日までは、英語のできる人物が看護書を翻訳しつつ教壇に立っていたそうだから、授業はあまりスムーズに進まなかったようだ。やがてアメリカから女医エフィー・A・ライトが派遣され、スコットランドのエジンバラ王立診療所の看護婦第1期生アグネス・ヴェッチが看護婦の教育にあたることになった。ヴェッチは、ナイチンゲール看護婦学校出身者らによって開設された看護師学校の出身者だった。

看護師学校では7、8人ほどの女性たちが学び、ナイチンゲール方式による教育のもと、その伝統を生徒たちは受け継いだ。ところで和の同期には、自分とおなじシングルマザーの鈴木雅(まさ)もいた。雅は卒業後、看護婦が自立して働ける環境を作ろうと日本で最初の「派出看護婦会」を設立した人物だ。

生徒たちは皆、寄宿舎生活をしていたから学生生活はかなり大変だったらしい。授業と授業のあいまに食事の準備をし、勉強し、掃除をし、なにもかもを自分たちでやらなくてはいけなかった。薪がうまく燃えつかなかったり、ご飯を焦がしたり、慌ただしい日々が過ぎていく。

看護婦、という仕事

『菊のかおり』梶田半古、1902年(The Metropolitan Museum of Art)

和が実習で驚いたのは、働いている看護婦たちの姿だった。
「学問は勿論、不具者で無くば不幸な境遇で拠無く看護婦をして(※原文ママ)」いる女性たちは、自らの職務を知らず、なんの理念も持たず、ことの善悪も考えず、ただ言われたことだけをしていた。

和は、乳がんで入院している患者に、苦痛のあまり一晩付き添ってほしいと泣いて頼まれ、規則を破って一晩付き添いの看護をしたことがある。もちろんばれて、医師たちにこっぴどく叱られてしまう。けれど和だって黙ってはいない。医師たちに病院内の非人間的なありさまを説き、見事に説得してみせたのだ。

一番に考えるべきは何なのか、というのを、きっと和は熟考していたのでしょう。

こんなエピソードが残されている。
またあるとき、当時の権勢を誇る重要人物の妻、アレシアという英国人が手術のために入院してきた。和は成績の優秀さを評価され、付き添いの看護婦に選ばれた。仕事は毎日午前6時から夜8時までつづき、終わるころには身も精神も削られて寄宿舎に戻ると口もきけないほど疲労困憊していたという。そんな折、心中未遂事件を起こした花魁の花紫が病院に担ぎ込まれてきた。
アレシアの耳にも噂が入ったのだろう。アレシアは和に花やお菓子を託すと、花紫を見舞うように、そしてキリスト教の愛に導くようにと言づけた。
花紫の傷が癒え、退院の日、花紫はアレシアの病室へ御礼を述べに来たという。そして、これからは堅気な暮らしをすると約束して帰っていった。

大関和、看護婦になる

『看護婦』武内桂舟、1904年(The Metropolitan Museum of Art)

1888(明治22)年は、日本看護婦の黎明期といえるだろう。大関和の通った看護婦学校をはじめ、そのほか2つの看護婦学校がそれぞれ卒業生を送り出したのだから。いずれもアメリカやイギリスから指導者を招いて教育課程を準備した組織で、この年、日本で最初に訓練を受けた看護婦たちが社会へ出て行った。

こうして日本初の正式な教育を受けた看護師は誕生した、けれど、和の人生は始まったばかりだ。

和は、卒業と同時に「第一医院(いまの東京大学医学部附属病院)」の看病婦取締(看護師長)に就任した。優秀で慈愛に満ちた和の看護は、患者たちからの信頼も厚かったようだ。和は入院患者でも貧しくて生活に困っている人をみかけると放っておけない性分だった。当時、看病婦取締の給料(日給)は33銭。1ヶ月働いても約9円から10円程度だったのに、自分の財布をはたいても彼らに与えようとした。

和は過酷な労働条件で働く看護婦の待遇改善にと建議書を提出した。看護婦の勤務体制を夜と昼の二交替制にして、休憩時間の確保を訴えたのである。越後高田の女学校で舎監(寄宿舎の監督)として働いた際には、廃娼運動に参加した。かつて付き添った花魁・花紫のことを想い出していたのかもしれない。

赤痢の集団感染の際には村人たちにも協力を仰いだ。その真摯な態度に村人たちは協力を申し出たという。明治の日本ではまだ衛生概念が乏しかった。和が看護婦学校で学んだナイチンゲール方式にもとづく感染症対策は効果をあげ、やがて大関和の名は全国へと広がっていく。ほんとうに、看護に捧げた人生だったのだ。

ナイチンゲールの教え

患者に一晩付き添い、女性たちに心を寄り添い、病院の改良に務め、看護婦の資格化を政府へと働きかける。死を覚悟していた患者たちに勇気を与え、看護婦の自立を推し進めた。和の原動力とは、何だったのだろう。

“Notes on Nursing”でナイチンゲールは、看護婦は自分の仕事に使命感を持つべきである、と説いている。

「何かに対して〈使命〉を感じるとはどういうことであろうか? それは何が〈正しく〉何が〈最善〉であるかという、あなた自身が持っている高い理念を達成させるために自分の仕事をすることであり、もしその仕事をしないでいたら『指摘される』からするというのではない、ということではなかろうか。」

ナイチンゲールはさらにこう続ける。

「これが『熱意』というものであり、自分の『使命』を全うするためには、およそ靴職人から彫刻家にいたるまで、誰もが持っていなければならないものなのである」

靴でも大理石でもなく人間を相手に仕事をしなくてはいけない看護婦の、これが難しさだろうな、と思う。後に和は、看護技術を記した『実地看護法』の序でこのように語っている。

「病者の看護をする者は肉体の苦痛を逃すとともに霊の救済をも努めねばなりません。人は心によりて生き霊は肉によりて生きながらうものであります。されば看護婦の職分たるやその責任は実に重大であります」

和たちの学びがなければ、職業看護師の在り方は今日とはべつのものになっていたのだろうか。会ったこともない昔の女性なのに、その苦悩や活躍、中傷を受けながらも闘った葛藤を知るほどに、誇らしい気持ちになる。

※看護の仕事は特定の性別に限定されないため、現在は「看護師」という呼び方に統一されていますが、大関和の生きた時代背景をお伝えするために本記事では「看護婦」という呼称を使用しています。

【参考文献】
『近代日本看護名著集成』第七巻「実地看護法」、大空社、1988年
『大風のように生きて 日本最初の看護婦大関和物語』亀山美知子、 ドメス出版、1992年
『明治のナイチンゲール 大関和物語』田中ひかる、中央公論新社、2023年
『看護覚え書 看護であること看護でないこと』フロレンス ナイチンゲール(著)、湯槇ます、薄井坦子、小玉香津子、田村眞、小南吉彦(翻訳)、現代社、2011年

書いた人

文筆家。12歳で海外へ単身バレエ留学。University of Otagoで哲学を学び、帰国。筑波大学人文学類卒。在学中からライターをはじめ、アートや本についてのコラムを執筆する。舞踊や演劇などすべての視覚的表現を愛し、古今東西の枯れた「物語」を集める古書蒐集家でもある。古本を漁り、劇場へ行き、その間に原稿を書く。古いものばかり追いかけているせいでいつも世間から取り残されている。

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。