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永遠のふたり 白洲次郎と正子

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Culture
2024.05.23

aikoの歌詞は芥川龍之介に並ぶ「文学」である。【編集部スタッフが繋ぐ、日本文化の思い出】

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和樂web編集部スタッフがリレー形式で日本文化の思い出をつづるシリーズ! 第3回はかわらたにさんからバトンを受け取った安藤整が担当します。お題は、「わたしがハマった日本文学」とのこと。ということで早速、以前妻に話して「…ふーん」という返答しか返ってこなかった話を、ここぞとばかりに書いてみようと思います。

▼第2回のかわらたにさんの記事はコチラ
ニザ様LOVEから歌舞伎の沼へ【編集部スタッフが繋ぐ、日本文化の思い出】

夏の星座にぶら下がって上から花火を見下ろして

いまから遡ること四半世紀も前の1999年に発表された、歌手・aikoによるシングル曲「花火」。作詞作曲を手掛けた彼女は、サビの部分でこう歌い上げています。

「夏の星座にぶら下がって 上から花火を見下ろして/最後の残り火に手をふった」

有名すぎるこの歌詞ですが、まずは何がすごいのかから、お話しさせてください。

はじめに、夏の星座にぶら下がった人は、誰もいません。

この歌詞の中の花火は「最後の残り火に手をふった」とあることから、手持ち花火ではなく打ち上げ花火であると想像されます(手持ち花火に手を振るということがあるでしょうか、いやない)。

その打ち上げ花火を、実際に上から見下ろしたことがある人も、飛行機などを使えば不可能ではありませんが、ごく少数でしょう。

にもかかわらず、です。

誰も経験がないにもかかわらず、「夏の星座にぶら下がって 上から花火を見下ろした」ときの「心持ち」は、聴いた誰もがなんとなく想像できると思いませんか?

誰も表現したことのない気持ち、でも誰もが共感できる

この曲は

「眠りにつくかつかないか シーツの中の瞬間はいつも あなたの事考えてて」

と始まるように、恋する少女(あるいは成人した女性、もしくは少年/青年)の気持ちを歌っています。この曲の主人公は、「あなた」のことを「こんなに好きなんです」という切ない気持ちを抱えながら、一方でどこか二人の関係にモヤモヤとした部分があり「疲れてるんならやめれば?」という自分自身の声を聞きながら、花火を眺めているのでしょう。

実際にそんなことをしたことがある人がいない以上、「夏の星座にぶら下がって 上から花火を見下ろした」ときに実際にどのような心境になるのかは誰にもわかりません。

でも、「夏の星座にぶら下がって〜」と聴いたとき、なんともメルヘンチックでありながら夏の夜空にプラプラと浮かぶ心持ち、そこで花火を「見下ろす」といういつもとは異なる美しさ——花火大会の喧騒など何も耳に入らない、色とりどりの小さな火花から成る、手のひらほどの大きさの球体を見下ろしたときのなんとも穏やかですがすがしい気持ち良さ——は、誰もが同じように想像するのではないでしょうか。

1999年にこの歌が世に出されるまで、そんな心持ちを言葉で表現した人は、人類史上ただの一人も存在しませんでした。

まだ誰も表現したことのない、でも言われてみると誰もが共感できる、そんな気持ちを言葉によって表現する。

これこそが言語によって表現される芸術、「文学」だと思うのです。

文学には究極の自由がある

「花火」の発表から数年後のこと。京都の大学に入学した自分が、文学のおもしろさを知ったのは、後にゼミを履修することになる、ある近代文学研究者の授業を聴講したことからでした。

「たとえ牢獄に入れられたとしても、想像の世界だけは誰にも犯すことができない。文学とは想像の世界であり、だからこそ文学には究極の自由がある」

そんな授業を聴いて文学のおもしろさを知った自分は、その先生の専門である森鴎外、そして漱石や芥川など、日本の近代文学を全集の1冊目から順に読むようになっていきました。

想像の中の世界は誰にとっても自由。どんな想像であれ、それを止めることは誰にもできない。

そして文学の真髄とは、そんな想像の世界において、まだ名前のついていない、いまだ表現されたことのない心境や心持ちを、言葉で表すことにある。

それは単に突飛な言葉を並べればよいということではない。それは、人々の共感を呼ぶものでなければならない。読者が共感するからこそ、文学は時代を超えることができる。普遍性を持つことができる。それを探求することとはつまり、「人間とは何か」を探ることである——。文学とは何かを、私はそう習いました。

「二度目の車輪の音は、もう彼を驚かさなかった」

さて、明治から大正、昭和期にかけて活躍した文豪・芥川龍之介に、「トロッコ」という作品があります。

主人公は「良平」という名の少年。次のようなあらすじです。

小田原・熱海間に軽便鉄道が敷設されようとしていた時代、良平は工事現場で土砂の運搬に使われていたトロッコにあこがれて、「せめては一度でも土工と一緒に、トロッコへ乗りたい」「乗れないまでも、押す事さえ出来たら」と、大人の男たちの作業の様子をいつもながめていたのでした。

そんなある日、彼にチャンスが訪れます。偶然にもその日は工事現場に誰もいなかったのです。二つ下の弟ともう一人と共に、良平は、恐る恐るトロッコに手をかけます。その時の様子を芥川はこう描写します。

三人の子供は恐る恐る、一番端にあるトロッコを押した。トロッコは三人の力が揃うと、突然ごろりと車輪をまわした。良平はこの音にひやりとした。しかし二度目の車輪の音は、もう彼を驚かさなかった。ごろり、ごろり、——トロッコはそう云う音と共に、三人の手に押されながら、そろそろ線路を登って行った。

触れてはならないものに触れたときの「ひやり」とした恐怖。でも、それにまさる少年の好奇心と冒険心。

二度目の車輪の音は、もう彼を驚かさなかった

の一文は、少年の中で揺れ動く気持ちとその一瞬の移り変わりを、いとも端的に、かつ的確に表現しています。

10分もあれば読み終わってしまうような短い物語。けれど初めてこの一文を読んだとき、文字通り「しびれる」ような感覚があったのを覚えています。この一文に出会うまでは忘れてしまっていた、幼いころの記憶が蘇ってきたように感じたからです。

あのときの気持ちは、確かにこういう気持ちだった

とはいえ、自分自身、かつて良平のような経験をしたことがあったかどうか、定かではありません。けれどもこういう心境、すごくわかる。イタズラをしたときに一瞬よぎる「怒られるかも」という恐怖感と、けれどもそれをすぐに忘れさせてしまうおもしろさ。

あえて思い出すほどの記憶でもなかったけれど、芥川龍之介という人物によって言葉に表されたことで、おぼろげな記憶の一部分に突然ピントがあったように明確になるイメージ。それはまるで「あのときの気持ちは、確かにこういう気持ちだった」と、答え合わせをするような感覚。そこには時空を超えて著者と、あるいは登場人物と通じ合う嬉しさがあります。

「トロッコ」は、それまで(おそらくは)表現されたことのなかった人間の心境を表現しているという点で、少なくとも私にとっては非常に価値のある文学作品です。

しかし同時に、まったく同じ基準において、aikoの「夏の星座にぶら下がって〜」の一節もまた、非常に高尚な文学(あるいは文学的)と言えるのではないでしょうか。

「夏の星座にぶら下がって〜」の歌詞を聴いたとき、「あのときの気持ちは、確かにこういう気持ちだった」と感じた人がいたはずです。そのように感じた人がいたからこそ、この歌詞は(もちろん曲もですが)四半世紀を経た今も多くの人に愛されているのでしょう。

そのように考えたとき、文学とは何も「文豪」によって書かれるものだけを指す言葉ではないと痛感します。今の時代には今の時代にしかない感覚があるはず。言葉をなりわいとする自分は、文学とまではいかなくても、やはり読者の人と共感する文章を、この時代に残したい。そうして編んだ言葉が、いつか時代を超えて、「その気持ち、わかるよ!」と後世の人々と通じ合えたらどんなにいいだろう。

その一瞬のために生きてもいいとさえ思わせるほどに、文学には深い魅力があるように、私は感じます。

ということで、次回は「編集部C」さんにバトンタッチ。「深い魅力」を持つモノ・コトについて、熱く語っていただきます。