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2024.07.29

絵の中の美女が嫉妬して…二次元に恋した、江戸時代の男たちの末路とは

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画に描かれた女性というのは、どうしてこうも艶めかしいのだろう。
色っぽくて、あだっぽい。しなやかで、みずみずしくて、動物的というよりも植物にちかい美しさがある。絵具のせいだろうか。それとも画家の妙手がそうさせるのだろうか。じっと見つめていると、化かされているような気分になる。怪しい魅力に、とりこまれそうになる。

そうして本当に画の中の人物(画中人)に囚われてしまった者たちの物語を紹介しよう。

嫉妬する絵のなかの女たち(『伽婢子』より)


ひと商売を終えて都へ帰る男がいた。
秋のせいか日が暮れるのが早い。里に着くころには人影も稀になり、山際には狐火が燃え、草むらからは狼の声が聞こえはじめた。気味が悪い。今夜は御香宮(神功皇后の御廟)に身を寄せることにしよう。
その夜、男は冷たい松風の音に耳を傾けながら肘を枕に、かすかな御燈の光りを頼りに眠りについた。

夜中、まどろんでいると誰かが枕もとに立つ気配があった。
驚いて起き上がると枕もとに青い直衣に烏帽子をつけた男が立っている。
「今から高貴な御方がここにいらっしゃいます。少し傍らへ退いてくださいませ」
しばらくすると一人の美女が少女を連れてあらわれた。そして商人がうずくまっているのを見て、微笑んだ。
「旅の御方ですか。慣れない場所で夜を明かすのは侘しいでしょう。どうぞ遠慮せず、一緒に遊びましょう。どうぞ、こちらへ」
その女の美しさといったら昔語りに伝え聞く楊貴妃や李夫人にも劣るまいと思われた。
彼女は何者だろう。夢か現実かも判然としない。
それに、隣を歩く少女も美しい。歯は雪のように白く、腰は糸を束ねたみたいに細い。指は生え初めた筍のよう。声は清らかで言葉も洗練されている。
主である女は商人に盃をさしだした。少女は弦楽器を弾いている。女のほうも琴を取りだし、ささやかに歌いつつ奏でた。
そうして過ごしているうちに商人の男はすっかり酔っぱらってしまった。
商人の男は懐から花模様の白銀の手箱を取り出すと主の女に呈上した。
そして少女には琴爪のひと揃いを布に包んで与えた。その際、手をとって握りしめると少女のほうも笑って手を握り返してくれた。
その様子を見た主の女は妬みの色をあらわにし、側にあった盃の台を少女の顔へと投げつけた。少女の顔から血が流れ、袂が赤く染まり、商人は立ちあがった――ところで、目が覚めた。

いつの間にか夜が明けている。
商人の男が神前にかけられた絵馬を覗くと美しい女が琴を弾いている絵があった。青い直衣に烏帽子の男もいる。美しい少女の顔には傷跡があった。
どれも夢で見たままの光景だ。
女というのは絵のなかでも嫉妬するのだろうか。
そもそも、この絵は誰によるものだろう。それすら、わからないままだった。

画中人たちの預言(『伽婢子』より)


時の勢力を握っていた細川右京大夫政元が寝ていると、どこからともなく聞こえてきた不思議な歌声に眠りを覚まされた。頭をもたげて見てみると、枕もとの屏風の絵に異変が起きていた。
この屏風には美しい女と少年たちが描かれていたが、今は誰もいない。
「世の中に、恨みは残る有明の、月にむら雲春の暮、花に嵐は物憂きに、洗ひばしすな玉水に、映る影さへ消えて行く」
彼らは屏風をすっかり離れ、足拍子を踏み、手を打ち、歌いつつ踊っていた。
「曲者ども所為かな」政元がしかりつけると一同ははらはらと屏風にもどり、もとの画におさまった。
奇妙に思った政元は陰陽師を呼んで占わせることにした。陰陽師のいうことには、
「屏風の画から抜け出た女は風流(日本の古い舞)を踊りながら〈花に風〉と忌むべきものを歌っています。すべて〈風〉の字に関わることは慎まなくてはいけません」
翌日、政元は愛宕山でひたすらに祈念した。
その後、山から降りてくる際に政元が乗っていた馬が坂道で倒れた。
またある日、風呂に入っているところに乱入者があり、政元は刺し殺された。
陰陽師のいうとおり「風」の字が重なる場所を避けるべきだったのだ。言葉のとおり「風」呂に入っているところを殺されたのだから。

天才浮世絵師に魂を与えられた女(『御伽百物語』より)


江戸に暮らす菱川吉兵衛と名乗る浮世絵師は「草木鳥獣の事は心を動かすに足らず」と、あちこちへ出向いては人物のありのままを画に彩ってみせたので、その画を求める者は多かった。ここに菱川吉兵衛の描いた美女にまつわる話が残されている。

あるところに篤敬という書生がいた。
篤敬は講義に通う途中、古いついたてを見つけて買い求めた。このついたてには片面に美しい女の姿絵があった。
年のころは14、15歳ほどだろうか。彩は鮮やかで目もとは芙蓉の花のよう。唇は牡丹の花のごとく、抱きしめれば消えてしまいそうだ。話しかければ物を言いそうな雰囲気さえある。
篤敬は画の中の女に恋をしていた。ひたすらに姿絵の女を慕い、一日中側にいて口説いた。そのうち、病んで臥してしまった。
話を聞いた友人が篤敬を訪ねてきた。
「君、この画は菱河がとある女性を前にして、心をこめて写したものだよ。だから魂が移っている。この女性に話しつづければ、かならず答えてくれるはずだ。そのときには100軒の家から酒を買いとって供えるんだ。そうすればこの人は画からはなれて本当の人間になるだろう」
篤敬は心を尽くして絵に語りかけた。すると、ついに応えがあった。篤敬は急いで酒を買いにでかけ、画に供えた。
女性はしとやかに歩み出た。その美しさは画の中に見ていた時よりもさらに美しい。
二人は夜具の下で契りの言葉を交わし、縁を結んだ。二人は末永く添い遂げたということである。

ほんものの人間になった美女(『太平百物語』より)


出雲に暮らす調介は友人の家で見かけたかけ軸の美女に惚れてしまった。
「これほどの美女なら大金を投げだしてもいい」
調介の言葉に友人はかけ軸の美女を本物の人間にする秘術を教えた。
調介は友人に教えられたとおりにした。
持ち帰ったかけ軸を前に百日間、一人で祈りつづけた。そして百日目に八年の古酒を画にそそいだ。ほんものの人間になった画中の美女と調介は契りを交わし、やがて子どもも生まれた。
あるとき、訪ねてきた従弟がことのあらましを聞いて忠告した。
「それは妖術にちがいない。災いがあるかもしれない」
それを聞いていた画中の美女がいった。
「私は南に住む地仙です。疑われてしまっては、もうここにいられない」
驚いた調介が件のかけ軸をのぞくと、そこには子どもを抱いた彼女がいた。どうやら画のなかへ戻ってしまったらしい。

死者との結婚


いっこうに時が進むことのない画の中は、いつも静かで密やかだ。静かすぎて、ぞっとする。画中人が人間へと向ける関心が愛情なのか執着なのか好奇なのかは分からないけれど、不安定な輪郭といい、怪しい美しさといい、私には画中人が幽霊みたいに見えることがある。彼女たちは死の気配を色濃く纏っている。

画中人のモチーフを中国の「冥婚」や「死霊結婚」の風習と結びつける説もある。
冥婚には、「鬼婚」とか「幽婚」とか「冥配」だとかいろいろな呼び名があるが、簡単に言ってしまえば生者と死者とのあいだの結婚のことを意味する。
たしかに虚ろな体に魂が入り、ふいに動きだす場面などはまさに死者が生き返るようだし、画中人の話にしばしば登場する人間と幽霊との恋愛は冥婚のイメージと結びつく。
なにより、画中人のほうから積極的に人間と関わろうとしていることも、疑り深い私には恐ろしく感じられる。画のなかに生きる、なにも持たない彼らに誘われるまま手をとりでもしたら、あちら側に引きずりこまれてしまいそうで。

画中美人と幽霊と人間の女と

『長崎絵 卓子の唐美人』(The Art Institute of Chicago)

画や屏風や掛け軸に描かれた人物が紙や布からするりと抜け出す。
古典怪談のひとつ〈画中人〉は、その題材の怪しさ故か恋愛話がおおい。画の中から歩み出た美女が(しかも、とびっきりの美人でなくてはいけない)人間の男と恋をするという、まさに夢のような物語。

信仰から導かれた習俗が伝説を生み、物語として発展していくことを考えれば、画の中の美女と結ばれるというロマンチックなストーリーの背景を当時の宗教の隆盛に重ねてみることもできるかもしれない。
画であれ、屏風であれ、彫刻であれ、人間の手で造られたものには魂が宿るといわれるから、それが古いものであれば画の中の人物を付喪神のひとつと考えることもできそうだ。
あるいは、外見的な美しさだけでなくて音楽的な才能や優しい性格、清らかな声を兼ね備えた彼女たちは自由恋愛が禁止されていた時代の封建社会で男性たちが抱いた理想的な女性像だったのかもしれない。

どんないわれがあっても、画中人の姿はいつも恐れおののくほど端正で、その神秘的な立ち姿は美しいがゆえに人の心を苦しめる。
でも、画中の美女も幽霊の女も魔性性という意味においては、生きた人間の女とそう変わらない気がするのは私だけだろうか。

書いた人

文筆家。12歳で海外へ単身バレエ留学。University of Otagoで哲学を学び、帰国。筑波大学人文学類卒。在学中からライターをはじめ、アートや本についてのコラムを執筆する。舞踊や演劇などすべての視覚的表現を愛し、古今東西の枯れた「物語」を集める古書蒐集家でもある。古本を漁り、劇場へ行き、その間に原稿を書く。古いものばかり追いかけているせいでいつも世間から取り残されている。