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2024.07.20

『光る君へ』の怪演も話題!?よみがえる安倍晴明!不世出の陰陽師が現代に伝えるもの

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安倍晴明(あべのせいめい)といえば、日本史上で最も有名な陰陽師(おんみょうじ)。また、2024年の大河ドラマ『光る君へ』に、天皇や左大臣藤原道長(ふじわらのみちなが)を支える官僚の一人として登場しています。和樂webにおいてもすでに数々の記事があり、サイキックヒーローとしての伝説や、シルバー人材だった実像について解説していますが、今回は「なぜ、そんな晴明を現代人は求めるのか」という視点をまじえて、改めて晴明と陰陽道(おんみょうどう)の謎に迫ります。

晴明ブームの背景

バブル景気と『帝都物語』

明治45年(1912)、東京。
帝都を見下ろす小高い神社の境内とおぼしき場所で、儀式の用意をする、白い装束(しょうぞく)の陰陽師。土御門(つちみかど)家の総帥・平井保昌(ひらいやすまさ)である。そこへ後方から、杖をついた老人が大儀(たいぎ)そうに石段を上ってくる。実業家、渋沢栄一(しぶさわえいいち)であった。渋沢を迎えた平井は、2人の弟子を従えて、儀式を始める。祭文(さいもん)を読み上げると高台が鳴動し、地面が割れ、割け目から白煙が噴き上がった。平井が説明する。
「地脈(ちみゃく)。中国の地相学では『地の龍』と呼ばれる、大地のもつ霊力の流れにござります。申すまでもなく帝都東京は、江戸の昔から呪われ続けてきた、我が国の巨大な霊場であります。この帝都を走る地脈は、すべからく一点を貫いている」。平井が、眼下の大蔵省がある方向を指さす。「将門(まさかど)の首塚! 将門が怨霊として千年の眠りから目覚めるとき、帝都は巨大な墓場と化しましょう。今まさにその将門を目覚めさせ、帝都を破壊せんとする者がいる」
ぼそりと、渋沢がつぶやく。「それで私に、どうしろと言うのかな」
「渋沢翁、あなたが秘密裏に進めておられる東京改造計画が、近々実行に移されると聞きました。その東京改造計画に、ぜひともわが土御門一門をお加えいただきたい。霊的な改造なくしては、真の帝都改造はあり得ませんぞ」「霊的な、改造・・・」
激しい稲光とともに、ズシーンと雷が落ちる。場所は、大蔵省構内の将門の首塚だった。そこで印(いん)を結ぶ、マントを着た異相の陸軍軍人。白い手袋には五芒星(ごぼうせい)が描かれていた。

映画『帝都物語』の冒頭のシーンです。昭和63年(1988)公開の本作品に安倍晴明は出てきませんが、晴明の末裔(まつえい)である土御門家の陰陽師平井保昌や、将門の血を引く辰宮洋一郎(たつみやよういちろう)と妹の由佳理(ゆかり)、さらに将門に連なる相馬俤(そうまおもかげ)神社の巫女目方恵子(めかたけいこ)らが、将門を目覚めさせて東京の壊滅を図る陰陽道の使い手、加藤保憲(かとうやすのり)とサイキックバトルを繰り広げるというストーリーでした。なお平井保昌の名は、源頼光(みなもとのらいこう)とともに悪鬼・酒呑童子(しゅてんどうじ)を討った伝説の武者に由来し、宿敵加藤を鬼に見立てていたことがわかります。一方、魔人・加藤保憲の「加藤」を「賀茂」に変えると、賀茂保憲(かものやすのり)。晴明の師匠である高名な陰陽師の名でした。「陰陽師」「式神(しきがみ)」「地脈」「風水」「晴明判(せいめいはん)」といった言葉を私が初めて知ったのはこの作品からでしたし、当時、大学生で時間だけはあった私は、荒俣宏(あらまたひろし)の長すぎる原作を読んで、劇場に足を運んだことを覚えています。のちの安倍晴明ブームに先駆けて、おそらく一般人が陰陽道の世界を知るきっかけとなったのが、本作品だったでしょう。ちなみに冒頭シーンの平井保昌は平幹二朗、渋沢栄一は勝新太郎が演じていました。加藤保憲は嶋田久作です。

『帝都物語』の原作は昭和60年(1985)に執筆開始ですが、大いに盛り上がったのはやはり映画公開の時期。折しも80年代後半から90年代初めにかけての、バブル景気の真っ只中でした。当時、国土庁は「首都改造計画」を掲げており、作品中の東京改造計画とオーバーラップします。とはいえ「イケイケ」の好景気の時代に、なぜサイキックバトルの『帝都物語』なのか。いま思えば、作品テーマの底流にある膨張と破壊を繰り返す大都市への不安が、実体のないバブル景気に狂奔し、やがて破綻を迎えるであろう予感と重なっていたのかもしれません。また不安といえばもう一つ、時代が終わりかけていることへの不安がありました。それは、映画公開の翌年に現実となった、昭和の時代の終焉です。つまり、陰陽道や晴明をはじめとするサイキックなものへの関心の高まりは、少なからず時代に対する不安とリンクしているように感じられます。同じ昭和63年に、夢枕獏(ゆめまくらばく)の小説『陰陽師』の第一作が刊行されているのも、偶然ではないのかもしれません。

『帝都物語』の映画パンフレットと当時の文庫

平成、そして世紀末の「晴明ブーム」へ

空前の安倍晴明ブームが起きたのは、それから12年後。平成12年(2000)頃から17年(2005)頃にかけてのことでした。夢枕獏の小説『陰陽師』と、それを原作にした岡野玲子のコミックが大ヒットし、平成13年(2001)には野村萬斎主演で映画化もされました。書店に行けば、安倍晴明関係の本が山積みになり、京都の晴明神社を訪れる若い女性が、ひきもきらなかったことを覚えています。当時、歴史雑誌の編集部にいた私は、京都ブライトンホテルで行われた、夢枕獏さんと民俗学者の小松和彦さんの、安倍晴明をテーマにしたトークショーのお手伝いをしたりもしました。ちなみに安倍晴明の屋敷跡は一般に、一条戻橋(もどりばし)近くの晴明神社とされていますが、正確にはブライトンホテルのある場所だといいます。では、なぜ平成に晴明ブームが起きたのでしょうか。

岡野玲子『陰陽師』と映画『陰陽師』のポスター

映画『帝都物語』の公開翌年に年号が平成に改まると、日本ではショッキングな出来事が立て続けに起こりました。まずは平成2年(1990)頃から始まる、バブル崩壊です。株価の暴落、地価の暴落、銀行の倒産、失業者・自殺者の急増、多額の不良債権。好景気のお祭り騒ぎから一転、長い不況の時代へと突入します。平成7年(1995)1月には阪神・淡路大震災が起こり、6,400人余りの犠牲者を出しました。また同年3月には地下鉄サリン事件が起こり、カルト集団によるテロが社会に大きな衝撃を与えます。その影響でテレビ局はオカルト系の番組を自粛するようになり、宗教や精神世界への関心を口に出しづらい空気が生まれました。しかし一方で当時、昭和生まれの少なからぬ人たちが、半信半疑とはいえ気にしていたのが、無事に21世紀を迎えられるのだろうか、という不安でしょう。「1999年7の月、地球は滅亡する」という、あのノストラダムスの大予言の日が近づいていました。幸い平成11年(1999)にそんな事態は起こらず、翌年の20世紀最後の年に晴明ブームが到来するわけです。こうして見ると、平成に入ってからの混乱、絶望、恐怖、不安と隣り合わせだった日本人の感情と、安倍晴明への関心の高まりは、やはり無縁ではなかったといえるでしょう。
そして、平成の晴明ブームからおよそ24年経ったいま、ネットでアニメ『陰陽師』が配信され、大河ドラマにも登場し、映画『陰陽師0』が公開されるなど、再び晴明が脚光を浴びているのはなぜなのでしょうか。その辺も踏まえながら、以下、晴明と陰陽道の謎について、改めて探ってみましょう。

陰陽道と陰陽師とは

陰陽五行

まず、そもそも陰陽道とは何かについて、簡単に紹介します。陰陽道は古代中国の陰陽五行(いんようごぎょう)という考え方をベースに、占いや呪術、天文占星術などを行う技術です。
古代中国の陰陽五行とは、陰陽という考え方と、五行という考え方の2つが合わさったものでした。陰陽の考え方とは、宇宙万物すべては陰と陽の2つの相反する気で構成されているというものです。また五行の考え方とは、万物は5つの要素で構成されているとするもので、具体的には木・火・土・金・水。そしてこれらの要素にはそれぞれ他を活かし、また負かす関係、つまり陰陽があります。まず活かす方では、木は燃えて火を生み、火は灰を生んで土に還(かえ)り、土を掘ることで金を得ることができ、金属の表面には凝結して水がたまり、水によって木が養われる、というもので、これを「相生(そうしょう)」といいます。逆に他を負かす方では、木は土に勝ち、土は水に勝ち、水は火に勝ち、火は金に勝ち、金は木に勝つ、というもので、これを「相剋(そうこく)」といい、関係を図で表わすと下のようになります。相剋の関係は五芒星、つまり安倍晴明が用いたシンボル、晴明判でした。逆にいえば晴明判は、相剋する5つの要素、つまり万物のありようを示しているわけです。

陰陽と相生・相剋

十干十二支

この陰陽五行の考え方は、実は現在の日本でも使われています。たとえば今年令和6年、2024年は甲辰(きのえたつ)の年です。カレンダーなどで見たことがある方もいらっしゃるでしょうが、これは十干十二支(じっかんじゅうにし)と呼ばれるもので、干支(えと)ともいいます。十干とは万物を構成する5つの要素「木火土金水」それぞれの陽と陰を兄と弟で示したもの。この場合、兄は「え」、弟は「と」と読みます。具体的には木の兄(甲)、木の弟(乙)、火の兄(丙)、火の弟(丁)、土の兄(戊)、土の弟(己)、金の兄(庚)、金の弟(辛)、水の兄(壬)、水の弟(癸)の10種類。これに子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の十二支を組み合わせたものが十干十二支で、60通りの組み合わせがあります。したがって今年の甲辰の年が次に来るのは、60年後になります。そしてこれは年ごとだけでなく、毎日の日にち単位でも当てはめられていて、60日ごとに一巡します。陰陽五行は、現代にも生きているわけです。
なお十干十二支は暦(こよみ)、つまりカレンダーに用いられるだけでなく、時刻や方角を示すものとしても用いられました。こうした古代中国の考え方と暦、さらに天文学や易学(占い)が中国から日本に入ってきて、陰陽道のベースとなります。このため陰陽道は、中国で生まれたものと思いがちですが、そうではありません。実は中国には、陰陽道と呼ばれるものは存在しないからです。

十干と十二支

陰陽道は日本にしかない

陰陽五行の考え方や、暦、天文学、占いといった、いわば当時の先端科学が日本に伝わったのは、飛鳥時代(593~710)といわれます。そして同じく飛鳥時代に、天武(てんむ)天皇が朝廷内の中務省(なかつかさしょう)に陰陽寮(おんようりょう)を設けました。主に占い、天文観測、時刻の管理、暦の作成を行う役所で、特に天体の動きから吉凶を占う占星術は、国の運命を左右するトップシークレットとされます。そして陰陽寮の中で、占いに従事する技術者を陰陽師と呼びました。つまり陰陽師とは、中務省陰陽寮所属の国家公務員であったわけです。ただし、飛鳥時代や奈良時代に、陰陽道という言葉はありません。陰陽道という言葉が記録上にあらわれるのは、平安時代の中頃、つまり安倍晴明が活躍する頃からでした。
実は平安時代の晴明らが用いた陰陽道は、飛鳥時代に中国から伝わった技術とまったくイコールというわけではないのです。中国の知識や技術をベースにしつつも、そこに中国の道教(どうきょう)、仏教の中の密教、さらに日本の神道(神祇〈じんぎ〉信仰)なども取り入れて発展していった、オリジナルの祭祀法であり、呪術でした。つまり陰陽道は、日本にしかないものなのです。そして日本独自の陰陽道をつくりあげたキーパーソンの一人が、他ならぬ安倍晴明でした。

陰陽師と「追儺」

さて、陰陽師は陰陽寮に属する国家公務員であり、特に占いに従事する技術者と紹介しましたが、では彼らは、一般にイメージされるような呪術や魔物の退治はしていたのでしょうか。答えは、YESです。中でもよく知られているのが、宮中で毎年12月晦日(みそか)に行われた「追儺(ついな)」の儀式でした。「儺」とは「鬼を追い払う」という意味で、現在の節分のルーツです。年の変わり目の12月晦日は、陰陽のバランスが崩れて鬼が現れ、人に害をなすので、陰陽の専門家である陰陽師が追い払うというものでした。
追儺の儀式は12月晦日の夜、内裏(だいり)の南庭(なんてい)に宮中の役人たちが集まります。「儺人(なびと)」という鬼を追い払う役人が、桃の木でできた弓や杖を持って並び、先頭には「方相氏(ほうそうし)」という黄金の四つの目がある面をかぶり、戈(ほこ)と楯(たて)を持った人物がいます。そして儀式が始まると、方相氏が戈で楯を叩きながら「儺やろう、儺やろう」と声を上げ、一同も「儺やろう」と叫んで鬼を追い出すと、儺人が門の外に逃げていく鬼に矢を射かけました。陰陽師の出番は儀式の冒頭で、鬼を追い出す「祭文」を読み上げる役です。祭文は「鬼たちの住みかを日本の外に作り、食べ物をたくさん用意するので、おとなしく立ち去ってください」といったん懐柔しつつ、「ただし、もし私の言うことを聞かなければ、恐ろしい方相氏が探し出して、殺してしまうぞ」と、鬼を脅(おど)す内容でした。陰陽師の、鬼に対するスタンスがわかります。

方相氏と陰陽師

陰陽師と「すそのはらへ」

ところで、朝廷の祭祀を司るのは陰陽寮ではなく、神祇官(じんぎかん)という役所で、全国の主要な神社も管理していました。そこには大嘗祭(だいじょうさい)をはじめ、神事を行う神官たちがいます。一方、仏教においても鎮護国家(ちんごこっか)のための大寺院があり、僧侶たちが国の安泰を祈願しました。こうした神官や僧侶と、陰陽師はどのように区別されたのでしょうか。
たとえば平安時代の初め、桓武(かんむ)天皇の弟・早良親王(さわらしんのう)が、冤罪(えんざい)で流罪となった末に自害し、怨霊と化した事件がありました。このとき早良親王の墓に、僧侶と陰陽師のペアが派遣されています。僧侶が早良親王の怨霊を鎮(しず)め、陰陽師が墓のある土地を鎮めるためでした。平安時代の初めまで、陰陽師は僧侶や神官の補佐役、または代行者という位置づけだったのです。しかしその後、陰陽道が道教、密教、神道などの知識も取り入れて、独自に発展していくと、位置づけが変わっていきます。その象徴が「すそのはらへ」でした。
清少納言(せいしょうなごん)の『枕草子(まくらのそうし)』にも登場する「すそのはらへ」とは、すなわち「呪詛(じゅそ)の祓(はら)え」のことです。平安時代中頃になると、貴族たちは呪詛を気にし、体調不良なども誰かの呪いのせいではないかと疑うようになりました。ところが神官が行うお祓いも、僧侶たちの鎮護国家の読経も、あくまでも国家レベルの儀礼であって、個人を救済してくれるものではありません。そこで貴族たちが頼ったのが、陰陽師でした。陰陽師は独自の呪術によって「すそのはらへ」を行い、貴族たちの求めに応えていきます。しかし陰陽寮の陰陽師に相談できるのは、上級貴族に限られました。そこで中級以下の貴族は、陰陽寮と関係のない民間の陰陽師に依頼します。平安時代中頃には、陰陽道の知識を持つ者が怪しげな者も含めて、一定数、市井(しせい)にも存在していました。そんな時代に活躍するのが、安倍晴明なのです。

イメージと異なる晴明の実像

謎に包まれた前半生

では、いよいよ安倍晴明の話に入りましょう。安倍晴明が記録に初めて登場するのは、村上天皇の御代(みよ)、天徳4年(960)のことです。この年、御所で火災があり、「大刀契(だいとけい)」という天皇を守護する霊剣が焼けてしまったので、陰陽寮の天文得業生(てんもんとくごうしょう)という学生だった晴明は、霊剣を作り直すための調査を命じられました。ときに晴明は、ちょうど40歳。逆算すると、延喜21年(921)の生まれになります。ちなみに藤原道長の父・兼家(かねいえ)は、このとき32歳。藤原道長が誕生するのは、この5年後です。記録に初めて登場するのが40歳になってから、しかもいまだ学生の身分というのは、従来の若き陰陽師・晴明のイメージとそぐわないかもしれません。
記録に登場する以前の晴明の足取りは不明で、さまざまな伝承で語られるのみです。よく知られるのが、晴明の母親が和泉国(現在の大阪府南部)信太(しのだ)の森の狐・葛(くず)の葉だったという伝説で、父親は安倍保名(やすな)とされます。もちろんそれは物語で、実際の父親は大膳大夫(だいぜんのだいぶ)安倍益材(ますき)ですが、両親の記録は乏しく、幼少期の晴明の詳細も伝わっていません。『今昔物語集』には、高名な陰陽師・賀茂忠行(かものただゆき)の弟子となっていた幼い晴明が、鬼の接近を察知して忠行の命を救った話があります。のちに忠行の息子・保憲が晴明の師となりますので、幼少期に陰陽師の賀茂氏に弟子入りしていた可能性はありそうです。

葛の葉と幼い頃の晴明

地味で勤勉な公務員だったのか?

晴明がいつ頃、陰陽寮の学生となり、また特待生ともいうべき得業生になったのか、記録がなく、わかりません。陰陽寮は、占い、天文観測、時刻の管理、暦作成の実務を行うかたわら、それらを学生たちに教授する学校としての機能もありました。陰陽寮には長官である陰陽頭(おんようのかみ)を筆頭に、吉凶・方位などを占う専任の陰陽師が6人います。その他、各部の責任者として陰陽博士、天文博士、暦(れき)博士が各1名、漏刻(ろうこく)博士が2名いて、陰陽、天文、暦の各博士はそれぞれ10名の学生、及び2名程度の得業生に指導を行いました。得業生は特待生的な扱いで、次期博士候補です。そんな陰陽寮の様子は、映画『陰陽師0』でも描かれていました。
晴明は40歳のとき、得業生の身分でありながら霊剣を作り直すための調査に抜擢されており、陰陽師としての実力がすでに知られていたことがうかがえます。そして翌応和元年(961)に陰陽寮の陰陽師の一人に任じられ、天禄元年(970)には4等官である陰陽少属(しょうぞく)に昇進。翌天禄2年(971)に51歳で、天文博士のポストを師の賀茂保憲から譲られました。とはいえ、決して昇進が早いわけではなく、50歳を越えてようやく陰陽寮の主要ポストに就いた、いわゆる地味で勤勉な公務員であり、コミックや映画で描かれるサイキックヒーローのイメージからはほど遠く感じられるかもしれません。しかし、陰陽師・安倍晴明の真価が発揮されるのは、実はこれからなのです。

陰陽師の頂点に立つ晴明

生涯、陰陽師であり続ける

記録に残る晴明が活躍した期間を、天皇の御代(みよ)で示すと、村上、冷泉(れいぜい)、円融(えんゆう)、花山(かざん)、一条の5代にわたります。晴明の年齢でいうと、天徳4年(960)の40歳から、没年である寛弘2年(1005)の85歳までで、生涯現役でした。そして晴明はその間、ずっと陰陽寮に所属していた、というわけではありません。51歳で陰陽寮の天文博士となりますが、そのポストに就いていたのは断続的に寛和2年(986)の66歳までで、それ以降は陰陽寮から離れています。ところが面白いことに、陰陽寮を退いて別のポストについたら陰陽師ではなくなったのかというと、そうではなく、晴明は生涯、陰陽師であり続けました。つまり晴明が活躍した時代、陰陽師は陰陽寮の役人を意味するだけでなく、陰陽道の技術に長けた者を指す、職能を意味する言葉に変化していたのです。またそれは、傑出した陰陽師として誰もが認め、その能力を発揮することを生涯求められ続けた、晴明ならではの事情もあってのことでしょう。では、晴明が具体的にどんな活躍をしたのか、いくつか紹介してみます。

オリジナルの呪術で陰陽師の頂点へ

●「天文密奏(てんもんみっそう)」 天文博士の重要な任務に、天文密奏があります。当時、天体の動きに異変が見られるときは、悪いことの兆しと考えられており、天皇はそれをいち早く知って、政治的な対策をとることが重要だと考えられていました。天文密奏とは、天体の異変とその意味を占った結果を密封し、天文博士が速やかに天皇に奏上するものです。晴明は天文博士になった翌年の天禄3年(972)から3年連続して、ときの円融天皇に天文密奏を行った記録がありますが、公にされるのはどんな異変が起きたかまでで、異変をどう占ったかは明らかにされず、天皇にのみ伝えられます。というのも占った結果が国家の機密や、天皇の運命に関わる可能性もあるからで、だからこそ密封した上奏の「天文密奏」なのです。

天文密奏

●「式神」 寛和2年、ときの花山天皇は藤原道兼(みちかね)にそそのかされて、突如、深夜に内裏を抜け出して出家し、退位します。その夜、天体の異変に天皇の退位の兆しを見た66歳の晴明は、式神に急ぎ内裏の様子を調べるよう命じますが、すでに天皇を乗せた牛車(ぎっしゃ)は内裏を出て、晴明の屋敷前を通過したところでした(『大鏡』)。また鎌倉時代の説話集『宇治拾遺(うじしゅうい)物語』には、陰陽師の式神による呪詛で命を奪われかけている若い公家を晴明が守り、式神を打ち返したところ、呪詛していた陰陽師が命を落とす話があります。陰陽師というとすぐに式神を連想する方も多いでしょうが、何者なのでしょうか。式神とは、そうした生命体がいるわけではなく、陰陽師が作り出すものといわれます。ひとがたの紙や木片などに呪文を唱え、息を吹いて、一種のエネルギーを吹き込みます。また、陰陽師が退治した鬼や妖怪を用いる場合もありました。式神は陰陽師の命令で動き、身の回りの用事から使いの役目、ときにボディガードや呪詛にも使われますが、いずれにせよ式神を十分活用できるか否かは陰陽師の技量次第でした。
なお晴明が使った式神に、「十二天将」と呼ばれる12体もいます。陰陽師は占いをするとき、式盤と呼ばれる円盤状の道具を回転させ、記された文字を読み取って占いました。式盤には十干十二支をはじめ、占いに必要なさまざまな要素が記されていますが、その中に星にまつわる神の十二天将があり、それが具現化したものとされます。式盤上の神なので、式神というわけです。

式盤

●「泰山府君祭(たいざんふくんさい)」 永祚元年(989)、69歳の晴明は一条天皇のために泰山府君祭を行います。泰山府君とは聞きなれませんが、陰陽道で重んじられる神で、冥界にいて生者と死者の戸籍を管理するといわれます。祭は陰陽師が泰山府君に対し、死にかけている者を死者の戸籍に移さず、生者として寿命を書き換えることをお願いするもので、晴明が密教などの要素も加えて、新たに作り上げたオリジナルの延命長寿の呪術でした。つまりこの術は晴明にしかできないものであり、陰陽寮の官製陰陽師を晴明が凌駕した象徴ともいえそうです。晴明は一条天皇だけでなく、書の達人として有名な藤原行成(ゆきなり)にも泰山府君祭を行っており、晴明の死後も貴族たちがリクエストして、晴明の後継者が継続して行っていたという記録があります。
なお長保4年(1002)、81歳の晴明は災厄の消除と一条天皇の長寿のため、北極星を祭る「玄宮北極祭(げんきゅうほっきょくさい)」を行いますが、これも晴明オリジナルの呪術でした。

●「蔵人所(くろうどどころ)陰陽師」 長徳元年(995)、75歳の晴明は、新設された蔵人所陰陽師の筆頭となっています。これは従来の中務省陰陽寮とは別で、天皇直属の組織である蔵人所の専属、いわば天皇直属の陰陽師。それは安倍晴明が名実ともに、陰陽師の頂点に立つ存在であることを朝廷が認めたものでした。なおこのとき、晴明に次ぐ地位で蔵人所陰陽師となったのが、賀茂光栄(かものみつひで)。晴明の師匠・賀茂保憲の息子で、晴明よりも18歳年下ですが、晴明のライバルであったともいわれます。その後、陰陽道は安倍、賀茂両家の家業となっていきました。

●「反閇(へんばい)」 反閇とは、呪文を唱えたのちに兎歩(うふ)という独特の歩き方をすることで、地を鎮め、邪気を祓い、凶事を吉事に変えるマジカルステップ。一説に北斗七星の呪文を唱え、ステップを踏むともいいます。長保2年(1000)10月11日、79歳の晴明は、火災後に新造された内裏に入る一条天皇のために、反閇を行いました。実はこれは先例になく、かつて同様のケースでは米をまく散供(さんぐ)が行われましたが、晴明はそれでは不十分として反閇を行ったといいます。晴明が不十分とした理由は、日取りにありました。10月11日という吉日は、陰陽寮、晴明、賀茂光栄の3者の意見から選んだものですが、実はその日は「太禍日(たいかにち)」にあたることを晴明が気づき、先例に反してでもあえて強力な反閇を行うことで、災禍を未然に防いだのです。これについて藤原行成は、堂々と先例を破った晴明を「道の傑出者」と激賞しました。なお寛弘2年(1005)3月、中宮彰子(しょうし/あきこ)の大原野社行啓(ぎょうけい)に際して、反閇を奉仕したのが、晴明の陰陽師としての最後の仕事となりました。同年、晴明没。享年85。

いま、晴明とどう向き合うか

以上、記録に残る晴明の活躍は、コミックや映画でのイメージと比べるとおとなしく感じられるかもしれませんが、今回紹介したのはごく一部です。また晴明が新たに数々の術を生み出し、陰陽寮の官製陰陽師たちをはるかに凌いだのは事実で、晴明が陰陽道に画期をもたらしたといっても過言ではないでしょう。陰陽師の頂点に立つ、天才的な陰陽師が安倍晴明であることは間違いないのです。加えて彼が、人生後半から大活躍した点も、現代のシニア世代を勇気づけてくれるでしょう。

晴明が没してから150年余りのち、源平の武士たちの台頭で貴族が脅かされる時代を迎えます。そこに彗星のごとく現れるのが、安倍泰親(やすちか)。晴明から数えて6代目直系子孫の陰陽師です。『平家物語』が「天文は淵源(えんげん)をきはめ、推条掌(すいじょうたなごころ)をさすが如し。一事もたがはざりければ、さすの神子(みこ)ぞと申しける」と称えた逸材でした。そして泰親は能力を称賛されるたびに、自分の術が晴明流であることを強調し、家祖晴明がいかに異能の陰陽師であったかをアピールしたのです。そこには晴明を称賛することで、自らのステータスを上げるねらいがあったのでしょうが、同時に晴明もまた、伝説の陰陽師として広く語られていくことになりました。時代の激変に脅える人々に晴明の名が深く浸透し、鎌倉時代の説話に晴明がよく登場するのもそのためでしょう。ある意味、泰親が最初の晴明ブームを演出したといえるのかもしれません。

そして令和のいま、平成の晴明ブームほどではないにしても、再び晴明が脚光を浴びているのは事実です。いまだ完全収束に至らない疫病、世界各地で起きている戦争や混乱、自然災害への恐れ、政治への不信など、私たちが不安になる要素は枚挙にいとまがなく、晴明のようなサイキックヒーローにある種の救いを求めたくなるのも無理からぬことでしょう。しかし、異能の人とはいえ、晴明もまた人間でした。晴明の実像を知った令和の私たちは、救いを求めるだけでなく、能動的に時代に向き合うこともできるかもしれません。たとえば晴明のシンボルである五芒星の晴明判が意味するのは、万物のありよう。陰陽道とは自然の流れに逆らわず、バランスを失している部分を見つけ、手当てして本来の姿に戻し、災難を未然に防ぐ術であるようにも感じられます。それに生涯をかけたのが晴明だとしたら、私たちはそこから学び、いまに活かせるものもあるのではないでしょうか。

参考文献:斎藤英喜『安倍晴明』(ミネルヴァ書房)、斎藤英喜『陰陽師たちの日本史』(角川新書)、小松和彦『安倍晴明 「闇」の伝承』(桜桃書房) 他

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。「歴史を知ることは人間を知ること」を信条に、歴史コンテンツプロデューサーとして記事執筆、講座への登壇などを行う。著書に小和田哲男監修『東京の城めぐり』(GB)がある。ラーメンに目がなく、JBCによく出没。