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2019.12.12

あなたは覚えてる?百人一首の覚え方、まずはこの12人の歌人から!

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「百人一首」にはその名の通り万葉から平安にかけての時代を代表する歌人・百人が登場します。ここでは、中でもあらゆる意味において重要だと思われる歌人を厳選して12人ご紹介します。

百人一首の覚え方、まずはこの12人の歌人から!

1.第一の歌を飾る 天智天皇

秋の田のかりほの庵の苫を荒みわが衣手は露にぬれつつ

訳/「秋の刈り入れどきの田につくった借りの小屋にいると、屋根が粗末で荒いので、私の袖を夜露が塗らしているよ」。推古34(626)〜天智10(671)年。645年に大化の改新を行った中大兄皇子が、後の天智天皇。平安時代には、桓武天皇の始祖として崇められた。藤原定家も最も尊敬する天皇として「百人一首」の筆頭の歌としたのだろう。実際には「万葉集」の詠人知らずの一首が変形され天智天皇の歌として伝承されたといわれている。

2.万葉歌人の代表 柿本人麿

あしびきの山鳥の尾のしだり尾の長長し夜をひとりかも寝む

訳/「まるで山鳥の長く垂れた尾のように長い長い夜を、私は寂しく独り寝ながら過ごすのだろうか」。生没年不詳。7世紀末から8世紀初頭の持統天皇のころに活躍したといわれる「万葉集」を代表する歌人。歌の神様的存在で、平安時代に句会を開く際には、人麿の肖像画をかけ、祈りを捧げるほどだった。宮廷歌人であったため、度々行幸に同行し皇族に数多くの歌を捧げた。この歌は「拾遺集」の恋の部に収められている。

3.六歌仙の代表 小野小町

花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に

訳/「美しい花の色はあせてしまいました。空しい春の長雨の間に。私の容色も、空しくこの世を過ごして物思いにふけっている間にすっかり衰えてしまいました」生没年不詳。9世紀中ごろに生きた伝説的な歌人で、絶世の美女の代名詞としてもよく知られる。「古今集」が編まれる以前の、紀貫之が選んだ六歌仙を代表する歌人。定家もその妖艶で余情豊かなその歌詠みを大変に好んだとされる。

4.「古今集」を編纂 紀貫之

人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香に匂ひける

訳/「人の心はとても変わりやすいので、あなたの心の内がいかばかりかは分かりません。でも、昔からよく知っているこの土地では、梅の花だけは昔どおりの香りで匂いますね」生没年不詳。平安時代を代表する大歌人であり、勅撰集を代表する「古今集」を編んだことでよく知られる。宮中においては恋愛の道具でしかなかった和歌を、文学作品にまで高めた。「土佐日記」の著者

5.定家のライバル 大納言公任

滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞えけれ

訳/「かつてこの大覚寺に響いた滝の水音も、すっかり絶えて長い年月が経ってしまったが、その名声は今も流れ伝わっているので、やはり聞えているということだろう」康保3(966)〜長久2(1041)年。時代的には紀貫之と藤原定家の丁度中間に位置する、平安中期の和歌の大立者。「拾遺集」や「三十六歌仙」を選んだ。当意即妙な技巧は見事だったが、それ故、定家は、さまざまな意味でライバル意識をもっていた。

6.悲劇の生涯を送った 崇徳院

瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ

訳/「川の瀬の流れがとても急で一旦は岩にせき止められた滝川の水も、やがてはまた同じ流れに戻るように、今はあなたと別れることになったとしても、いつかはきっとまた逢うことであろう」元永2(1119)〜長寛2(1164)年。鳥羽天皇の皇子で第75代天皇。歌人として優れていたが、出生からして悲運の人。それが元で保元の乱を起こし、後に讃岐に配流され没する。定家の父・俊成のパトロンでもあり、西行はじめ新古今時代の歌人にとってはある種恩人でもあった。

7.撰者・定家の父 皇太后宮大夫俊成

世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる

訳/永久2(1114)〜元久元(1204)年。言わずと知れた、「百人一首」の撰者・藤原定家の父。和歌の世界に絶大な影響力をもっていた、中世を代表する歌人。歌学の「御子左家」を創立したのも俊成。この歌は、俊成自らが撰者となった「千載集」に入っている歌であり、俊成の自信作であったのだろう。そういう意味では、息子の定家も父親ならではの味わいがある歌と考えていたに違いない。西行が出家した年に詠んだ歌で、あるいはそのような状況も含んだ寂寥感を歌ったのかもしれない。

8.新古今のスーパスタ− 西行法師

嘆けとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな

訳/「嘆け、と言って月は私に物思いをさせるのであろうか。いや、そうではない。本当は、恋の想いのためなのに、まるで月のせいであるかのように、流れる私の涙であることよ」元永元(1118)〜建久元(1190)年。「新古今集」の中で、最大歌数を誇る西行は、これまでの歌人とはまったく異なった生き方を貫きながらも秀歌を詠み続けたスター中のスター。鳥羽院に仕えた武士であったが、23歳で出家し、日本各地を遍歴。俊成とも親交があり、定家にも多大なる影響を与えた。

9.定家の恋人? 式子内親王

玉の緒よ絶えなば絶えぬながらへば忍ぶることの弱りもぞする

訳/「わが命よ、絶えるならば絶えておくれ。このまま生き長らえていたとしたら、こらえ忍んでいる力も弱まって、恋しい胸の内が現われてしまうといけないから」久安5(1149)〜建仁元(1201)年。白河法皇の第三皇女。定家の父・俊成を和歌の師とした「新古今集」を代表する女流歌人。定家と恋仲にあったという伝説もあるが、定かでない。

10.京に憧れた鎌倉武将 鎌倉右大臣

世の中は常にもがもな渚漕ぐあまの小舟の綱手かなしも

訳/「世の中は永遠に変わらないものであってほしい。波打ち際を行く漁師の船が綱で引かれる風景に、しみじみと心動かされるような平穏な日々が果てしなく続いてほしいものだ。すべてが激変する流転の世では」建久3(1192)〜承久元(1219)年。鎌倉右大臣とは三代将軍源実朝のこと。俊成の門下として歌を学び、京の文化に憧れ続けた。鎌倉八幡宮にて甥に暗殺されるという悲運の武将でもある。

11.定家の庇護者 後鳥羽院

人も愛し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は

訳/「人をいとおしく想い、あるいは恨めしく思う。面白くないこの世を思うところから、私はさまざまな物思いをする」治承4(1180)〜延応元(1239)年。高倉天皇の第四皇子。第八十二代天皇。建久9(1198)年に院政を開始した。多芸多才な天皇として知られ、和歌を大変好んだ。定家らに「新古今和歌集」を選ばせたように、定家の庇護者でありながらも、ある時点からは定家を疎んだことで知られる。承久の乱で破れたことにより、隠岐に配流され没した。

12.鎌倉時代の代表的歌人 権中納言定家

来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ

訳/「松帆の浦で、夕凪のときに焼く藻塩のように、来ない人を待っているわが身も恋焦がれているようです」応保2(1162)〜仁治2(1241)年。俊成の子。「百人一首」および「新勅撰集」の撰者であり、「新古今集」の撰者のひとりでもある。鎌倉時代の歌壇を代表する大歌人。後鳥羽院の熊野御幸にも度々同行。その際の様子なども綴った、自身の日記「名月記」により、当時の貴族社会の情景を現代に伝える。あらゆる意味で重要な役割を果たした文学者。