江戸時代、身分の高い武士や金持ちの町人は「乳母(うば)」をつけるのが一般的だった。乳母とは文字通り母親に代わって子どもに乳を飲ませ、また養育する女性のこと。
毎日のように乳を与え、側にいるのだから子どもが乳母の性格に似ることもあるだろう。そういうわけで、どんな乳母を選ぶかは当時、家長にとってかなり重要な問題だった。そんな知られざる江戸時代の乳母事情を当時の子育てを通して紹介しよう。
乳母なくしては語れない江戸の子育て
いまではすっかり廃れてしまったが、母親でない女性が授乳するというのは、なにもこの時代に始まったことではない。
『日本書紀』に「ほかの婦人の乳で皇子を養育する。これが世に乳母によって乳児を育てた起源である」と記されているくらい、乳母の存在は日本の古い習俗だ。
当時の子育ての話をまとめた浮世草紙『小児養育気質(しょうにそだてかたぎ)』には、乳母選びに奮闘する甘崎小左衛門なる人物が登場する。夫婦の苦労話からは、江戸時代ならではの子育ての苦労が見えてくる。
甘崎小左衛門の憂鬱
時は江戸時代。
京都に暮らす絹布商人、甘崎小左衛門は悩んでいた。商売はうまくいっている。妻との関係も悪くない。なにせ自分には二人も息子がいる。この上ない幸せだ。
長男の小市郎は五歳になったばかり。弟の小次郎は三歳。小市郎は少し短気なところがあるが、生まれついての気の勝った男気のある子どもだ。先日もぐずぐず言って泣き止まないから「お前は弁慶じゃ!」と誉めそやしたところである。この間など、知り合いの番頭が「最近はめっきり力が強くなりました」と言いに来た。夫婦そろって子どもたちの成長が楽しみでならない。
しかし、と甘崎小左衛門は腕を組みながら考える。悩みというのは、その息子たちのことなのである。良い乳母がなかなか見つからないのだ。
日本における乳母の文化は長い。あの『古事記』や『日本書紀』にも登場しているし、儒者たちは子育てにふさわしい完璧な乳母を選ぶようにと『礼記(中国の経典)』で説いている。巷で話題の育児本『小児必要養育草』でも乳母選びには用心するようにと書いてあった。息子たちの健やかな成長のためにも素晴らしい乳母を見つけてやりたい。
そういうわけで、甘崎小左衛門はこのたび新しい乳母を雇うことにした。
甘崎屋の乳母たち
芝居通いがやめられない小次郎(次男)の乳母
かくして小左衛門夫婦のもとへ新しい乳母がやってきた。念願の乳母である。期待が高まる。夫婦はさっそく小次郎(次男)を預けた。
さてこの乳母、かなりの芝居好きだった。
「外で守してきます」と言っては小次郎を抱いて、明けても暮れても芝居三昧。帰ってくると「寺でひなたぼっこをしていました」と嘘までつく始末。まだ三歳の小次郎が泣きだすと、乳母は芝居を見逃すまいと砂糖たっぷりのお菓子を食べさせ、乳を飲ませては頭をおさえて懐にねじこんだ。
こんな具合だったから小次郎は風邪ひとつひいたことのない子どもだったのに、手足が細くなり、毎晩熱を出すようになってしまった。
不信に思った小左衛門夫婦は乳母に訊いた。
「お前、外でなにか食わせてないか」
「大事な小次郎さまに何もあげるわけがないでしょう!」
「悪かった。赤い顔で怒るのは律儀な気持ちからだろう」
乳母を怒らせて乳が出なくなったら、それこそ大変である。小左衛門は乳母の機嫌をとるしかなかった。
結局、乳母の芝居通いは発覚することなく、小次郎の病も無事治り、すべてはまるく治まった。が、これをきっかけに乳母は芝居通いができなくなり、しかも小次郎が本当のことを口にしたらと思うと不安でたまらず、すっかり痩せてしまったとか。
真面目すぎて辞めた小市郎(長男)の乳母
小市郎(長男)にも新しい乳母がやってきた。
彼女は身分は低いものの武家方に奉公したこともある男の娘で、子どもが一人あったが、いろいろあって養子に出し、夫もよそに奉公しており、自分は甘崎屋に七年の約束で乳母として働くことになった、という身であった。
小市郎の乳母は、素直で余計なことは口にしない女性だった。奉公に出されるときに父から教わった「言葉少なきを求めて子の師たらしむ」という言葉を守っているのだ。噓つきで口の軽い小次郎(次男)の乳母とは正反対の性格である。ただ、そのぶん胸に秘めた想いは熱かったとみえる。
この乳母は、小左衛門夫婦が子に甘いのを口には出さないが不満に思っていたのだ。
「子どもだからといってあのように育てては、大人になってから悪くなる。我儘がすぎないように今からでも躾けなくては」
自分もまた乳を与える身である。小市郎のことを大切にしているからこそ、小左衛門夫婦の子への扱いが気に入らなかった。
そのうえ、このあいだ夫婦に言われた言葉が胸にひっかかっていた。
「弟が病の時など、弟の乳母は泣いて神仏へ願って心配していたというのに、小市郎の乳母はあまり機転がきかない。そのせいか遊ばせかたまで下手だ。息子が気にいらないことばかり教える。偏屈な、変わった女だ」
真面目に働いてきたからこそ、そんなふうに言われるのは心外だった。
「しょせんこのように主人に思われるのなら、心を尽くして奉公する甲斐がありません。小市郎は五歳だからもう乳も必要ないでしょう。七年の約束ですが、暇をもらうことにします」
そうして、七年の約束を途中で切り上げてしまった。
「そっちがそのつもりなら、居てくれとは言わぬ。志がおもしろくない」
小左衛門夫婦は乳母を解雇してしまった。
乳母探し、三度目の正直となるか
気に入らない乳母を解雇して困ったのは小左衛門夫婦だ。七つまでは乳を飲ませないと成長してからのためにはならぬと信じていたから、またべつの乳母を探す羽目になった。
江戸の親たちが何歳まで子どもに乳を与えていたのかは定かではないが、一般的には七歳くらいまでは飲ませたほうがよいとされていたらしい。乳を与えるのは成長のためというのもあるが、親の子への愛情表現のひとつでもあった。
もう二年だけでも小市郎(長男)の面倒を見てくれる人を探さなくてはいけない。それも、出来の良い乳母でなくてはならない。そんな乳母がどこにいるだろう?
さて、幸運にも(?)新しい乳母が見つかった。
しかし小左衛門夫婦はよっぽど乳母運が悪いらしい。次にやってきた乳母は小市郎(長男)を連れて外で酒を飲み歩き、そんな調子で乳を与えたから、小市郎もすっかり体を壊してしまった。兄弟そろって病に伏せることになるのである。
良い乳母、悪い乳母
乳母が一般的だった江戸時代、甘崎小左衛門の家でも長男と次男それぞれに乳母を雇い、乳母の乳で子を育てていた。江戸期に書かれた医学書『小児必用養育草(しょうにひつようそだてくさ)』によれば、世の中には良い乳母と悪い乳母がいるという。
たとえば、こんな乳母は雇ってはいけない。まず、血色が悪く、痩せすぎている女性。そして、わきがのある女性。声が濁っている女性。こぶがあったり、髪が少なかったり、わがままで怒りっぽいのも避けたほうがいい。
この本には、乳母が熱性のものを食べれば乳も熱を帯びるとか、乳母が夜露にあたると乳児が嘔吐するとか。酒に酔って眠り、目覚めたあと授乳すると乳児の声が出なくなる、なんてことまで書かれている。
赤ちゃんの免疫力を高めたり、母親の産後の回復を促したり、母乳にはたしかに良い効果があるのだろう。日本にはかねてから「母乳信仰」なんて言葉もある。江戸の医学書『小児必要養育草』が乳母についての項目をたっぷりともうけていることからも、乳母が当時どれほど大切にされていたかがよくわかる。
良い乳母というのは、生命力が旺盛でお乳をたくさん出す女性のことだ。乳母の栄養が母乳となるのだから、乳母となる女性は「飲食に注意し、性欲をすて、男女の営みから遠ざかっていなければならない」と、本書には書かれている。「とにかく乳母選びは慎重のうえにも慎重でなければならない」のである。
次なる乳母を求めて
小左衛門夫婦の苦難を単なる笑い話にできないのは、『小児必要養育草』が子どもの健全なる発育を願って医療上の関心から書かれたものだからだ。ページをめくっていると、子どもの誕生から養育、教育にいたるまで、真剣に子どもたちと向き合おうとした当時の医者や親たちの姿が浮かんでくる。
親というのは子どものために真剣に悩む生きものである。だから小左衛門夫婦も乳母選びに慎重にならざるを得なかったのだろう。とはいえ、乳母選びは思い通りにはいかなかったらしい。親の愛と乳母の愛をその身にたっぷり受けて育てられた江戸の子どもたち。育て方は違えど、子どもへと向けられる眼差しは今と変わらず暖かい。
【参考文献】
(著)香月牛山、(訳)中村節子『小児必要養育草』農山漁村文化協会、2016年
中江和恵『江戸の子育て』文藝春秋、2003年