江戸時代に将軍の妻子が暮らしていた場所、大奥。そこに若君や姫君が生まれると、家臣の妻たちに乳母の募集がかかります。
2025年の大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』にも登場する第11代将軍徳川家斉(とくがわいえなり)は、50人以上も子どもをもうけたから、さあ大変。
▼側室は20人以上!
55歳まで53人の子作りをした徳川家斉の「精活」とは?
ときの老中松平定信(まつだいらさだのぶ)の側近だった水野為長(みずのためなが)の雑記帳『よしの冊子(ぞうし)』には、「御乳持ち(おちもち/乳母のこと)を選ぶために、あちこちに募集をかけたという」「しかし、まったく応募がなかったという」と、乳母探しに苦労していたことが書かれています。
それもそのはず。当時の大奥では、乳母は食事も満足に食べられないような厳しい処遇を受けていたのです。
借金背負って乳母奉公?
乳母の仕事は、赤ん坊にお乳をあげること。つまり、若君や姫君が生まれたのと同じ時期に、子どもを出産した女性でなくてはなりません。自分の生んだ子どもを人に預けて、御乳持ちとして大奥へ働きに出たのは、主に御家人の妻たちでした。
御家人の地位は、幕臣のなかでは下級の御目見え(おめみえ)以下です。大名や旗本とは違って将軍に直接目通りすることのできない立場ですから、妻が将軍の子どもの乳母に選ばれたとしたら、光栄なことだったはず。もちろん、仕事に見合ったお給料も約束されていたはずです。
ところが。
これまで御乳持ちとして奉公すれば、生活の苦しい家の出身であっても少しずつ衣装をそろえることができ、つらい目に合うことなく勤めたという。
ところが今回、姫君様の御乳持ちとして雇われた者たちは、いろいろな道具類などを自分の持ち出しで揃えなくてはならず、短い間に30~40両の借金をした者までいたという。
『よしの冊子』より
水野為長がこう書いているのは、家斉に長女の淑姫(ひでひめ)が生まれた寛政元(1789)年のことです。
きらびやかな大奥で働いてみたら、あれが必要これも必要となにかと物入りで、あっというまに借金まみれになるなんて、大奥って恐ろしい所なのでは。
3日に1度のごちそうは、腐った鯛
ちなみに乳母にもランクがあり、御乳持ちの上には御乳人(おちのひと)と呼ばれる養育の責任者がいました。奥女中の実質的なトップである御年寄(おとしより)が御乳人を兼任し、御乳持ちはその下で授乳のみを担当していたようです。
▼乳母から出世した人も
田沼意次失脚の裏に…松平定信ともケンカした大奥御年寄・大崎の正体
授乳のみといっても赤ちゃんは、生後しばらくは昼夜を問わずお腹を空かせて泣くもの。まして雲の上の存在ともいえる将軍の子どもにお乳をあげるのですから、気もつかう大変な仕事だったはずです。
ところが、ところが。
御乳持ちは4人同部屋なのに、朝夕の食事はなぜか1人分ずつ作って出されるという。食事にありつける時間が、かなり遅れてしまうこともあるようだ。
3日に1度、表(本丸御殿の表は、政治の場)からおかずとして5~6寸(15~18センチ)の鯛が支給されるものの、古くなっていて食べられたものではないという。
そのほか朝夕に出されるおかずも粗末で、あらめという海藻と大豆の煮もの、八杯豆腐、青菜のおひたしくらいで、とても食が進むとは言えず、お乳を差し上げるのによくないだろうということだ。
『よしの冊子』より
八杯豆腐とは、豆腐を水6、醤油1、酒1の汁で煮たおかず。お豆腐1丁を短冊状に切ることで、8杯できるからその名がついたという説もあります。
お腹をすかせてご飯を待って、やっと食べられると思ったら、腐った鯛を焼いたものにちょっぴりのお豆腐? なんだか想像するだけで泣けてきます。
5日に1度、饅頭が支給されるがこれまた粗末なもので、量もとても少ないらしい。表から支給されるものが、本来このようなものであるはずがないので、途中で何が起こっているのだろうか。
『よしの冊子』より
つまり、大奥の誰かが意地悪をしていたのでしょうか。水野為長は「まるで犬猫に食べろというような扱いだ」と憤慨しています。
半月ほどで、みんなお乳が出なくなる
その上(御乳持ちは)御年寄やほかの女中たちに気をつかい、また部屋も4人相部屋だから気兼ねが多い。どんな者でも14、15日から20日も勤めればお乳が出なくなってしまう。
町人のように身分の低い者でも乳母に対しては、3日に1度は栄養のとれるおかずを食べさせて、それ以外の日も何か少しずつ野菜のおかずを食べさせるというのに、天下の将軍家の御乳母様を、あまりに粗末に扱っている。
『よしの冊子』より
せっかく御乳持ちを雇っても、すぐにお乳が出なくなってしまったというのですから、本末転倒な話です。大奥の女中たちはいったい何を考えて、御乳持ちにこんな仕打ちをしていたのでしょう。
覆面をつけ、子どもを抱かずにお乳をあげた
お乳を差し上げるときも覆面をつけて、若君や姫君を抱くことも許されず、別の者が抱いてお乳を差し上げているという。
このようにあまりにひどい扱いだから、御乳持ちに願い出る者がいなくなってしまったという。
『よしの冊子』より
御乳持ちは授乳するときに覆面をしなくてはならず、若君や姫君を抱くことも許されていませんでした。
本来であれば将軍や、将軍の妻子に直接目通りをすることのできない、御目見え以下の身分だったからです。
身分の低い者に、若君や姫君が懐かないようにという警戒もありました。
つらい思いをしたのは若君、姫君
しかし御乳持ちのお乳が枯れてしまうと「食事も満足に取れない」のは、若君や姫君も同じ。
水野為長に限らず、表の役人たちはこの事態を問題視していました。
幕府の目付役(監察)だった旗本の森山孝盛(もりやまたかもり)が書いた『蜑の焼藻の記(あまのたくものき)』には、家斉に長男の竹千代君が生まれた寛政4(1792)年、御乳持ちの募集を御目見え以上に広げたことが記されています。
森山孝盛と同じ目付役の矢部定令(やべさだのり)が「身分の低い者でなく、御目見え以上の大番組、書院番組、小姓組、寄合(無役)ら旗本の妻や娘からお乳を与える者を選びましょう。市井の人のようにくつろいで子どもを抱きながらお乳を与え、乳を含ませながら添い寝もするのが、若君のためにもよいはずです。若君が懐いて、そのまま乳母を側に置くことになったとしてもよいではありませんか、若君のためです」と松平定信に上申。
ちょうど子どもを生んだばかりでお乳の出も良かった森山孝盛の娘が、若君の御乳持ちに選ばれて大奥へと上がることとなりました。
▼松平定信ってこんな人
要注意人物とタッグを組んだ? 松平定信の意外な素顔と人生に迫る!
しかし大奥で出されたのは、美味しいけれども作りたてではない、冷めてしまった食事です。しかもそれを、御広敷(おひろしき)内台所で、御広敷番という大奥の警護などを担当する役人の立会いのもとで、食べなくてはなりませんでした。
のどが渇いても、自分の部屋でお湯やお茶を飲むことができず、所定の場所に行って、検分役の前で飲まなくてはなりません。いろいろと気をつかってやつれ、すぐにお乳の出が悪くなってしまったそうです。
4、5日後に竹千代君が幼くして亡くなったため、森山孝盛の娘もお役目を解かれて、大奥から下がりました。
食事の時間が一人一人ずれていたり、役人の前で食べなくてはならなかったというのは、御乳持ちが口にしたものが姫君や若君に影響しないよう、警戒していたからなのでしょう。
幕府は、実子を人に預けて御乳持ちになりお乳が出なくなってしまった者に、その子どもが4歳になるまでお給料を払いましたが、それでも御乳持ちになりたがる者は少なかったそうです。
さまざまな人の思惑と事情が交錯した大奥の乳母不足。もっともつらい目にあったのは、本来であれば大奥で一番守られるべき将軍の子ども、若君や姫君だったのかもしれません。
アイキャッチ:『Young Mother Nursing Her Baby』著者:喜多川歌麿 出典:メトロポリタン美術館
参考書籍:
『随筆百花苑』(中央公論社)
『論集 大奥人物研究』(東京堂出版)
『大奥学事始め』著:山本博文(NHK出版)