NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」に、朋誠堂喜三二・恋川春町・山東京伝の3人の戯作者が登場しました。彼らには、蔦屋重三郎の耕書堂から出した著作が、幕府に絶版を命じられたという共通点があります。どのような記述・描写が発禁の対象となったかを、「絵」を中心に解いていきましょう。なお、江戸時代は本の印刷・発行を禁止することを正しくは「絶板」といいましたが、ここでは現代に通じるように「絶版」または「発禁」としています。
寛政2(1790)年、松平定信が出版統制を強化
まず、当時の政治情勢について簡単に触れましょう。
天明6(1786)年、「田沼時代」といわれるほど権勢を誇示していた老中・田沼意次が失脚し、辞任します。その翌年に老中首座に就いたのが松平定信です。
定信は質素倹約を促す町触(まちぶれ/江戸庶民に下した法令)や、武士への文武奨励などを基本政策とした「寛政の改革」に踏み切ります。その政策の1つに出版統制もありました。
江戸時代の出版統制は、実は定信が初めて施行したわけではありません。すでに享保7(1722)年、「大岡越前」として知られる江戸町奉行・大岡忠相(おおおか・ただすけ)が、
・好色本は段階を踏んで絶版とする
・徳川家康と徳川家に関する本の出版は禁止する
などを盛り込んだお触れを出していました。好色本は、主に遊郭での生活や遊びをテーマとした草双紙(くさぞうし)のことです。
しかし、半世紀以上を経て規制が緩くなり、蔦重が活躍した天明年間(1781-1789)には好色本も、公儀を皮肉った草双紙もおおっぴらに流通していました。そこで定信は再び引き締めをはかるべく、改めて寛政2(1790)年5月に町触を発します。その内容は、
・好色本は風俗上好ましからず
・草双紙には昔のことのように装った不謹慎な内容があるが社会に無用
といったもので、どれも耕書堂が得意としている本でした。ましてや蔦重制作の本は庶民の支持を得て売れていたため、厳重に規制する必要があったといえます。「出る杭は打たれる」ということです。
そして、耕書堂の屋台骨を支えていた作家こそが、朋誠堂喜三二・恋川春町・山東京伝だったのです。
武士は「ぬらくら(怠惰な者)」ばかり
朋誠堂喜三二は秋田藩江戸藩邸の留守居役で、本名は平沢常富(ひらさわ・つねとみ)といいました。狂歌師として手柄岡持(てがらのおかもち)の号もある知識人です。
蔦重との交流は、吉原の一大イベント「俄(にわか)」の模様を描いた『明月余情』(めいげつよじょう)に序文を寄稿した安永6(1777)年頃から確認でき、天明8(1788)年には代表作となる『文武二道万石通』(ぶんぶにどうまんごくどおし)を、耕書堂から刊行しました。
絶版を命じられたのは、この『文武二道万石通』です。処分を受けた正確な時期は不明ですが、近世文学研究者の佐藤至子氏は寛政元(1789)年3月以降だったと指摘しており(江戸の出版統制/吉川弘文館)、前述の出版統制の町触以前だった可能性もあります。寛政の改革の早い時期に、目を付けられていたのかもしれません。
『文武二道〜』のあらすじを紹介します。
時は鎌倉時代初期。世の中が平和になり、武士が戦(いくさ)への備えをおろそかにすることを憂慮した源頼朝は、御家人の畠山重忠(はたけやま・しげただ)に武士を「文」「武」に振り分け、各々精進させよと命じます。
そこで重忠は文が得意な者、武に長けた者に分けようとしました。ところが、どちらも不得手な「ぬらくら(怠惰な者)」が最も多いと判明します。
重忠は再教育を試みますが、ぬらくらは文を茶道・蹴鞠・俳句、武を将棋・囲碁・釣りなどの遊びにこじつけ、一向に上達しないという物語です。
問題となったのは、重忠の描き方でした。写真下は重忠が武士を集めて文・武に分けている場面。右上にいるのが重忠で、着ている装束に梅鉢紋が見えます。梅鉢紋は徳川の縁戚である久松松平家、つまり定信の紋でした。重忠を定信に“見立て”、揶揄したわけです。
そうなると、重忠の殿様に当たる鎌倉殿・頼朝は、定信の主君、幕府11将軍・徳川家斉を見立てていることになります。「昔のことのように装った不謹慎な内容」そのものでした。
定信の自著まで強烈に皮肉った春町
一方、恋川春町の著作で絶版となったのは『鸚鵡返文武二道』(おうむがえしぶんぶのふたみち)。天明9(1789)年刊で、発禁となったのは『文武二道〜』と同じ寛政元年3月以降だったと考えられます。
春町の本名は倉橋格(くらはし・いたる)。彼も駿河小島(するがおじま)藩の留守居役でした(のち藩側用人)。人気絵師の勝川春章(かつかわ・しゅんしょう)に師事していたことから絵も達者で、酒上不埒(さけのうえのふらち)の狂歌名も持つ多才な人物でした。
『鸚鵡返〜』のあらすじ——。
醍醐天皇(在位897〜930)を補佐する菅秀才(かん・しゅうさい)は、武士が武芸を疎かにしているため、源義経らを指南役に起用します。醍醐天皇と義経では生きた時代が異なりますが、そうした荒唐無稽の設定が、大衆には面白かったのです。
ところが、武士たちは牛若丸の千人斬りを模倣して往来の人々に斬りかかったり、乗馬の訓練と称して遊女や男娼に馬乗りになったりと、悪逆・放蕩の限りを尽くします。
見かねた秀才は、自著『九官鳥のことば』を教科書にして道徳を教ばせようとしますが、その中にある「天下国家を治めるは凧を上げるようなもの」という記述を武士たちが勘違いし、正月でもないのに「凧あげ」に精を出す有様——。
ここでも秀才が、梅鉢紋の装束を身にまとっています。また、極めつけは『九官鳥のことば』。これは定信選・著の『鸚鵡言』(おうむのことば)を茶化した題名です。
そもそも本のタイトル『鸚鵡返〜』自体が『鸚鵡言』のパロディで、文武奨励・質素倹約などと声高に叫んでも、人々は定信の言ったことをオウムのように真似ているだけ、と嘲笑する意図を込めているわけです。
ここまで悪し様では、定信も見過ごせなかったでしょう。
1年で3冊が絶版となった山東京伝
北尾政演(きたお・まさのぶ)という名で絵師としても活躍していた山東京伝は寛政元年、まず『黒白水鏡』(こくびゃくみずかがみ)の挿絵が原因で、科料(かりょう/罰金刑)に処されます。
この作品はフィクションの体裁をとりつつも、田沼意次の失脚を招いた佐野善左衛門(さの・ぜんざえもん)による意次の子・意知(おきとも)の刺殺事件をモチーフとし、その善左衛門を庶民が「世直し大明神」として崇拝するというストーリーで、幕府の内紛を露骨に風刺していました(『黒白水鏡』の版元は不明)。
その後、京伝は謹慎を経て、寛政3(1791)年に『仕懸文庫』(しかけぶんこ)、『娼妓絹籭』(しょうぎきぬぶるい)、『青楼昼之世界錦之裏』(せいろうひるのせかいにしきのうら)の3冊を上梓します。版元はいずれも耕書堂、そして3冊とも発禁となります。
理由は吉原を舞台にした洒落本であり、好色本禁止に抵触したからです。
寛政3年は出版統制の町触施行後のため、洒落本は4冊しか刊行されませんでしたが、その内3冊が蔦重と京伝のコンビによるものでした。
もっとも、2人も気を使って制作してはいたようです。例えば『仕懸文庫』は相模国大磯の架空の遊郭という設定で、吉原とは明言していません。実在する色里ではなく、あくまで空想ですよ、という体裁をとったわけです。
しかし、文をよく読むと「縄町」(なはてう=なわちょう)という地区があり、これが吉原の「仲の町」(なかのちょう)を指しているのは明らかでした。他の2冊もこの調子で、「おくんなんし」「おざんす」などの吉原言葉も満載。これでは「吉原ではありません、架空の遊郭です」といったところで、通じなかったでしょう。
寛政3年の3冊の発禁処分は、山東京伝の「筆禍事件」として歴史に刻まれています。京伝は手鎖50日の刑(鉄製の手錠をかけて自宅謹慎)、蔦重は身上半減(身上半減は財産の半分没収という説と、年収の半分という説あり)に処されました。
一連の事件によって蔦重の出版活動は停滞を余儀なくされ、喜多川歌麿や東洲斎写楽を起用した浮世絵の制作へと、転換していくことになるのです。
参考資料:『江戸の出版統制』佐藤至子 吉川弘文館、『山東京伝の黄表紙を読む』棚橋正博 ぺりかん社
アイキャッチ画像:『鸚鵡返文武二道』東京都立中央図書館特別文庫室所蔵