CATEGORY

最新号紹介

6,7月号2025.05.01発売

日本美術の決定版!「The 国宝117」

閉じる
Culture
2025.05.19

遊女や犯罪被害者に寄り添った「鬼」――遊び人・長谷川平蔵はいかにして人情派の火付盗賊改になったのか

この記事を書いた人

火付盗賊改・長谷川平蔵は岩波正太郎の時代小説『鬼平犯科帳』の主人公として知られるヒーローです。凶悪犯を武力制圧する「鬼」である一方、町人に寄り添う人情派の男として人気を博しました。それがNHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』では、ちょっと間抜けで金遣いの荒い若者が次第に成長していく、新たな鬼平像を打ち出しています。長谷川平蔵とはどんな人物だったのかひも解いてみましょう。

「本所の銕」の異名をとった旗本の放蕩息子

「平蔵」の名は親子2代にわたる通称です。父も子も長谷川家の家督を継いで平蔵と呼ばれました。父の本名は宣雄(のぶお)、子は宣以(のぶため)。私たちが「鬼平」と呼ぶのは子の方です。

宣以の生誕日は正確には不明です。延享3(1746)年に誕生したとされていますが、これは幕府が編纂した武家の家譜集『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)に宣以死去の日が「寛政七年(1795)五月十九日、五十歳没」と記されているため、そこから逆算しています。

父の宣雄は明和元(1764)年、将軍の警護を務める小十人頭(こじゅうにんかしら)に就いていた時期に、本所に屋敷を持ちました。宣以が19歳のときです。この頃の宣以は悪友とつるんで遊びまわる放蕩息子だったようで、幼名が「銕三郎(てつさぶろう)」だったことから「本所の銕(てつ)」の異名をとっていました。

文久2年(1862)年版『本所深川絵図』。赤枠の箇所に町奉行「遠山金四郎」(遠山の金さんのモデル)の名があるが、天明・寛政期はここが長谷川平蔵の屋敷だった。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

明和9(1772)年3月から同年10月まで、父は火付盗賊改の本役(正規に課せられた役職)の任にあり、同年に起きた明和の大火(目黒行人坂火事)の放火犯を捕らえ、その功績が評価され京都町奉行に栄転します。

宣以は父とともに京都に赴きます。この時、すでに妻子がいました。ところが翌年6月、父が京都で死去。宣以は江戸に戻り家督を相続し、以降、「平蔵」という通称で呼ばれるようになります。

江戸に戻っても平蔵の素行は改まっておらず、相変わらず遊びほうけていました。『京兆府尹記事』(けいちょうふいんきじ)は、その頃の平蔵を「本所の銕が帰ってきた」と、皮肉っています。

『京兆府尹記事』
遊里へ通いあまつさえ悪友と席を同じうして不相応な事など致し
大通(だいつう/遊びに通じている)と身持ちをしける
その屋敷 本所なれば本所の銕と仇名せられる通り者(遊び人)なり

「気取巧者」で世渡り上手なところが同僚に嫌われる

あまりの散財に長谷川家のカネが尽きたのか1年ほどで遊びは収まり、安永3(1774)年に江戸城西の丸書院番(しょいんばん/将軍の親衛隊)、翌年に進物番(しんもつばん/将軍への献上品の管理)の役に就きました。

火付盗賊改の役を命じられるのは、その12年後の天明7(1787)年。42歳になっていました。最初は臨時の当分加役(とうぶんかやく)で、43歳で本役となります。

すでに時代は老中・松平定信の治世でした。平蔵は前老中・田沼意次に近い人物だったようですから、定信が平蔵を抜擢したことを訝(いぶか)しむ幕閣もいたといいます。事実、定信の側近・水野為長(みずの・ためなが)が記録した風聞書『よしの冊子』は、平蔵をひどく悪し様に書いています。

『よしの冊子』
長谷川平蔵のやうな姦物をどふして加役に仰申付候哉(おうせもうしつけそうろうや)

平蔵は天明7年に飢饉が原因で発生した打ちこわしの鎮圧に功績がありましたから、定信は治安維持を担う火盗改に適任と考えたのでしょう。しかし、取り巻きはそうは思っていませんでした。『よしの冊子』は「気取巧者」——上層部に取り入るのが巧み——という言葉も使って批判しています。

ただし、抜け目なく立ち回るだけの男ではないと、その後、証明していくことになるのです。

老齢犯罪者に示した情状酌量

火盗改の任期は通常1〜2年ですが、平蔵は天明7年〜寛政7(1795)年まで就いています。それほど長く任にあったのは、犯罪者を検挙することにおいて平蔵の右に出る者がいなかったからです。法政史家の滝川政次郎が調べたところ、任期中に平蔵が扱った事件は『御仕置例類集』(おしおきれいるいしゅう/当時の刑事判例集)に残る記録だけで202件に及びます。仕事熱心であり、かつ実績も折り紙付きだったとわかります。

幕府役人を記した名簿『袖玉武鑑』(しゅうぎょくぶかん)の寛政4年の章に「火付盗賊改 長谷川平蔵」の名がある。その左に名前があるのは「松平定寅」、通称・左金吾だろう。平蔵のライバルと目された男である。国立国会図書館所蔵

さらに犯罪者の更生施設・人足寄場(にんそくよせば)の創設に尽力するなど、歴史上重要な事績も残しています。

罪人に対して情状酌量を示すことで、大衆に評判の良い人物でもありました。判例集をはじめとした記録・風聞には、人情味を感じさせる話がいくつも登場します。

[老齢犯罪者への配慮]
寛政6(1794)年、平蔵は西念(さいねん)という男を博打の罪で捕えました。御定(おさだめ)では博打は胴元なら遠島(島流し)、参加者も「百敲(百叩き)」の刑を言い渡されるのが慣例でした。しかし、西念は70歳。高齢ゆえに100回の叩きは命に関わると、平蔵は老中に減刑を進言します。しかし、この意見は退けられます。

[病人へのいたわり]
播磨屋吉右衛門(はりまや・きちえもん)は町人ながら役人の下で働く目明し(めあかし)、つまり密偵でしたが、その地位を利用して非合法の売春組織を率いていた悪党でした。平蔵は吉右衛門を捕らえると、通常は小伝馬町牢屋敷送りとするところを、病人や未成年を収容する品川溜(しながわため)へ送ります。吉右衛門が老齢で病弱だったからです。吉右衛門の配下のひとりも、介護のため品川に送りました。罪人の収容に付き添いを同伴させるなど、例外中の例外でした。

「敲(たたき)」の刑に処される罪人。『徳川政刑史料』国立公文書館所蔵

[凶悪強盗・神刀徳次郎に衣類を渡す]
真刀徳次郎(しんとう・とくじろう)は関東一円で数百件の押し込みを働いていた盗賊団の首領でした。寛政元(1789)年、平蔵によって一味もろとも一網打尽になります。徳次郎は手下3人とともに獄門に処されますが、大盗賊のボスともあろうものは少しは身なりを気づかえと、牢に入る際に自費で3両出し、着物を整えてやったといいます。

民家に押し入った盗賊団の非道を描いた『街談文々集要』(文化年間刊)。国立公文書館所蔵

犯罪被害者への気配りも見逃せない

[遊女に見せた温情]
寛政6年、鳩ヶ谷宿(日光街道の宿場/埼玉県川口市)にいた飯盛女(めしもりおんな/宿場で働く非合法の娼婦)が、旅籠の主人のカネを盗んだ罪で召し取られました。窃盗は10両で死罪、対して女が盗んだのは9両3分2朱。ぎりぎり10両に満たなかったため、平蔵は「入墨および百日入牢」としますが、娼婦という不憫な境遇を考慮し、さらに情状酌量を訴えます。結果、「入墨・五十日入牢」に減刑されます。

[誤認逮捕の補償]
誤って捕縛してしまった者を釈放する際、勾留した日数分の手当を渡しました。たとえ数日でも牢に入れば収入は途絶え、妻子を養うのに苦労すると考えたのです。

もうひとつ、見逃せない逸話をあげましょう。

寛政3(1791)年頃、葵小僧(あおいこぞう)と名乗る凶悪な押し込み強盗が江戸市中を恐怖に陥れていました。金品を強奪するのみならず、押し入った家の婦女子を容赦なく陵辱することで知られていました。平蔵に捕らえられた葵小僧は、自慢げにレイプした女性たちの名を口にしました。それを聞いた平蔵は、被害女性たちから口書(くちがき/供述)を聴取するのを控え、彼女たちの名も、取り調べの記録も一切残さず、葵小僧を死罪に処したと伝わります。

法政史・刑事政策史専門の重松一義は、性犯罪被害者への配慮だったと分析しています。

平蔵はかつての遊び仲間を通じて独自の情報網を持ち、「散所言葉」(さんじょことば)、すなわち悪党たち独特の言葉も理解している地獄耳だったのだろう——と。散所言葉とは例えば「おつとめ」=盗み、「もんもん」=入墨、「七七」=放火(八百屋お七をもじっている)など、旗本の御曹司が知り得ないスラングでした。なかでも「すけ」=女性については噂になりやすく、すでに裏社会で被害女性の実名が流布しているのを耳にしていたのかもしれません。万一、その名が市中に拡散したら、取り返しのつかない事態になる——そう考え、記録を抹殺したのではないか。

噂が広まることと、それを耳にしたときの大衆心理の怖さを知っていたところに、他の役人と異なる資質が見てとれます。

長谷川平蔵はただの幕府官僚ではなく、人心に気を配り、寄り添い続けた男だったといえるのではないでしょうか。

参考資料:『火付盗賊改』高橋義男 中公新書、『江戸の名奉行』丹野顯 文春新書、『鬼平 長谷川平蔵の生涯』重松一義 新人物往来社

アイキャッチ画像: (右)歌舞伎の演目『豪傑七党競』に登場する真刀徳次郎。芝居では「神道徳次」と名前が変わっている/東京都立中央図書館特別文庫室所蔵。(左)『徳川禁令考 後集第3帖』には、平蔵が徳次郎の裁き(獄門)を老中に諮った寛政元年「伺い書」の文面が載っている。赤枠に平蔵と徳次郎の名が見える(国立国会図書館所蔵)

書いた人

東京の下町生まれ。ジャズやらヌードやらの雑誌編集に闇雲に関わったのち、フリーランスの編集者兼物書きへ。独立後は何だかよくわからないうちに、歴史および文化風俗史の駄文を書き散らし、気づけば60歳を超えて頚椎症に悩んでいる。憧れの人は蔦屋重三郎とボブ・ディラン。