“戦国の三英傑”といえば織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人。押しも押されもせぬ戦国のスター達であり、愛知県出身の僕にとっては同郷であることを誇らしく思う存在です。彼らからは、溢れんばかりの才覚と時代を読み取るセンスが感じられ、更には類まれなる幸運を持ち合わせた“時代の顔”であったと言っても過言ではありません。
その中において秀吉の貧しい出自から始まるサクセスストーリーには、特にロマンとドラマを感じるという人も多いのではないでしょうか。かくいう僕もその1人。そこで今回は、来年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』の主人公である秀吉と秀長※1生誕の地に建てられた太閤山 常泉寺に伺い、数々の秘められたストーリーについて、伺ってきました!
知る人ぞ知る、まさにここが秀吉生誕の地
秀吉の名が記録上現れるのは、織田信長の家来となってからです。そのため、秀吉、さらに秀長の詳しい出自などは、あまり知られていません。しかし、ここ名古屋市中村区で誕生し、幼い頃に暮らしていたという通説があります。その一つが太閤山 常泉寺です。
「秀吉が母・なかを祀る寺を自らの生誕の地に建てるよう、加藤清正に命じたと言い伝えられています。しかし創建する前に、なかが亡くなってしまい、その後、秀吉が亡くなった後に清正が、豊臣秀吉を祀る寺として創建したというのが常泉寺の由来です。境内には秀吉が生まれた時に体を洗ったとされる『産湯の井戸』や、少年時代の秀吉が植えたという『柊(ひいらぎ)の木』をはじめ、様々な遺品も所蔵されています」と副住職である矢島昭輝(やじましょうき)さん。1600年頃に創建されたと伝わる常泉寺の29代目住職をお父様が務められています。境内をぼんやり眺めていると、元気に駆け回る幼き秀吉と秀長の姿が目に浮かんでくるような場所です。
一度は枯れた井戸が復活。まさにパワースポット
矢島副住職から、早速興味深いお話がありました。現在は蛇口を捻ればいつでも水を得られる便利な時代です。しかし、昔は当然そういうわけにはいかないので、水が豊富な地域に人が集まり活気付いていたんだそう。そして前述した秀吉・秀長の産湯の井戸には、他の場所に類を見ないほど豊かな清水が湧いていたのだといいます。
「それがこの地域の大きな基盤になっていたのではないかと思われます。常泉寺という名前もそこから来ているんですよ」と矢島副住職。ちなみに昭和の時代にこの井戸は、一度枯れてしまったのですが、平成元年に再現に挑み、現在は再び清水が湧き出ているのだそうです。何だか豊臣家のパワーを感じさせますよね。
兄・秀吉の強運と弟・秀長の才、兄弟の絆が歴史を作った!
この地で生まれ育ち、やがて家を飛び出して織田家に仕官した秀吉と、かたや秀吉から声がかかるまで地道に、この地で母や兄弟と生活を送っていた秀長。対照的な2人ですが、秀吉の天下取りへの道のりは、カリスマである兄をよく支え、補佐した秀長の存在を抜きにしては語れません。特に外交の面において、卓越した手腕を発揮したことでも有名な秀長は、我の強い戦国のリーダー同士のやり取りにおいて、いわば潤滑油のような存在だったと、矢島副住職も語ってくれました。
時代を牽引した二人の偉人の仲を取り持った秀長
なかでも僕が特に驚いたのは、秀吉と千利休の間を取り持つ役目を秀長が果たしていたという話です。僕の中では千利休といえば“侘び寂び”のイメージで、控えめな人物なんだろうという勝手な先入観があったわけですが、どうやらそうでもなかったようで……。秀長のとりなしが無ければ秀吉とぶつかり合いかねない我の強さのようなものを、千利休もまた持ち合わせていたそうです。考えてみれば、後世にまで影響を残す美意識を構築してしまうほどのエネルギーとこだわりのある人物ですから、当然という気もします。
ただ、秀吉が持つ天下人としての影響力が欲しい利休と、利休が持つ茶の権威としての発言力が欲しい秀吉の二人の利益は一致していたようで、矢島副住職いわく「秀長は『千利休の地位というのは世間に対して価値があるものです。一緒に盛り上げていかないと勿体無いですよ』ということを秀吉に言い、千利休には『秀吉公とは美意識が合わないとは思うんですけれど、天下における影響力は物凄いですよ』と伝え、それぞれにとってのメリットをプレゼンして取り持ったと言われています」。
まさに敏腕プロデューサーのような秀長。現代社会でもいろいろと板挟みになっている人は多いと思いますが、学ぶべきは秀長の交渉術、調和をとりなすテクニックなのかもしれません。
幼き頃、苦楽を共にしたからこそ、支え合った兄弟愛
ところで戦国時代の兄弟関係といえば、血で血を洗う権力闘争に発展することも多く、最も近しいライバルという側面もありました。しかしその中において秀吉・秀長の絆の深さは、屈指と言えるのではないでしょうか。
「生涯かけて兄を支えた弟、そんな弟に全幅の信頼を置いた兄。その根源は何かと考えた時、2人が武家の生まれではなく、共に貧しい生活を送ってきたというバックボーンにあるのではないか」と矢島副住職は語ってくれます。まれに見る兄弟愛の強さで天下取りの道を突き進んだ2人。まさにそれが物語のスタート地点であり、彼らが最初の絆を育んだ地であるこの場所に立っていることに、なんだか胸が熱くなりました。
御神体に宿る秀吉の面影の謎
常泉寺には秀吉の御神体が祀られています。これはかつての大坂城にあったものですが、加藤清正が願い出て、豊臣秀頼から譲り受けたものなんだそうです。実はこの御神体は、40年ほど前に修復されています。というのも、ここ常泉寺が放火被害に遭って建物が全焼してしまい、その際に御神体も半焼状態までダメージを受けてしまったのです。この痛ましい事件に、僕も憤りを感じるばかりでしたが、それにまつわる興味深い話も聞けました。
「現在、70代や80代の方たちには、修復前の顔の方が馴染みがあるので、『修復をして少し顔が変わったね』と話されていたんです。ところがそれから2年3年と経つごとに『顔が少しずつ変わっていませんか?』と言われるようになった。まさかと思い修復当初の写真を引っ張り出してみると、お顔の感じが違って見えたんです」と矢島副住職。
実際に僕も現在の御神体と修復直後の写真を見比べると、確かに面持ちが違う気がして驚きました。それに加えて放火被害に遭う前の写真も見せていただくと、更にビックリすることが。ジワジワと修復する前の顔つきに戻っているように見えるのです。もともと大坂城にあったこの御神体は豊臣家を象徴する像だったからこそ、魂が宿っているのではないかと矢島副住職は話してくれました。もちろん科学的根拠などがあるわけではありませんが、御神体が本来の姿に戻ろうとしているならば、まさに秀吉がそこにいるんだという感じがして何だか心にグッと来てしまいます。
寺宝の数々に圧倒される!
他にも秀吉ゆかりの物が多く残されている常泉寺。文字通り寺の宝、寺宝と呼ばれるそれらは普段公開されていませんが、今回特別に見せていただきました。
まず最初に目に入ってきたのは硯(すずり)。現代では見かけない独特の造形に驚きましたが、現在の山口県あたりで1600年頃に流行していた模様だそうで、秀吉が九州の名護屋城(なごやじょう)へ赴く際に手に入れたものではないかと言われているそうです。他にも、硯と共に保管されていたという茶釜や、井戸で使われていた釣瓶(つるべ)、当時の天皇から賜ったという采配(さいはい)など盛り沢山。歴史の深さに思わず息を呑んでしまいました。更には寺の歴史を紐解く文献や、寺の由来が刻まれた版木(はんぎ)、御神体と共に運ばれたと思われる秀頼の書や加藤清正の画像といったものなどなど……。じっくり見ていたら日がくれてしまいそうなほどのラインナップ。
それらの中でも僕が特に心惹かれたのは秀吉が書いたという手紙です。文中に書かれた
秀吉の 心のうちに 咲く花は 我より他に 知る人もなき
という句がどうにも印象的で。
「天下を獲って嬉しいけれど、1人寂しいような気持ちが書かれていますよね」と矢島副住職に教えていただき、なるほどと膝を打ちました。栄華を極め何でも手に入れられるような存在になった秀吉にも、心の内には登り詰めたからこその孤独感があったという事実に、戦国のスターもやはり1人の人間なんだと再認識したんです。そしてそんな心模様を吐露した手紙が今、天下人としてではなく、ただひたすら一生懸命に生きた少年時代の地にあるという事にも意味を感じてしまうのです。
取材を終えて、感じたこと
名古屋生まれ名古屋育ち、この常泉寺の近くの会場で舞台公演を行ったこともある僕ですが……。まさかこんなに近くに秀吉と秀長の人生に思いを巡らせられる場所があるとは知りませんでした。2026年度の大河ドラマ『豊臣兄弟!』に向けて気分と理解を深めるにもぴったりの場所です。「このあたりは秀吉の地元でね〜」どころではない、まさにここで生まれ育ったという現実感を、皆さんにも現地で味わっていただけたら嬉しいです。
Photo/松井なおみ
取材・構成/黒田直美