Culture
2020.01.10

まるで食育の教科書!日本昔話を「食べもの」から紐解き、隠された意味や秘密を探る

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「日本昔話」が世代をこえて、今日までその形をほとんど変えずに残されているのには理由がある。昔話には、子どもたちに伝えるべき教訓が隠されているのだ。その教訓の一つが「食べもの」について。

今回は「浦島太郎」や「桃太郎」などの有名どころはスルーして、ちょっとマイナーな昔話を紹介しよう。知っていたら誰かに話したくなる、美味しそうな食べものが登場する昔話だ。

昔の日本人は「食べもの」を通して何を伝えようとしたのだろう?食べものをめぐる昔話を紐解いてみると食への意識が見えてきた。

お腹が空いてくる!食べものをめぐる日本昔話4選

『猿とヒキガエルとの餅競争』


季節はちょうど、お正月の頃。
里ではあちこちで餅をつく杵の音がしている。猿はヒキガエルに言う。「あの餅を一臼取って来て食べることはできないだろうか?」

二人は里へ降り、人間たちをだまして餅の入った臼を奪うのに成功する。しかし餅を独り占めしたい猿は臼を谷底に転がして、早く追いついたほうがまるごと餅を食べてよいことにしようとヒキガエルに持ちかける。

さて、勝負の結末は?
餅はいつのまにか臼の中から抜け出して、萩の枝にだらりと引っかかってしまった。これは有り難しと餅のそばに座りこんで一人、餅を堪能するヒキガエル。猿はというと、空臼をおいかけてがっかりうなだれるのだった。

『継子の栗拾い』


昔あるところに、姉と妹の二人の娘がいた。妹は実子で姉のほうは継子だったので、母親はいつも妹の方にばかり良い袋をもたせて栗を拾わせ、継子がもたせてもらえるのは穴の開いた袋ばかり。継子はいつまでも袋がいっぱいにならず、山の中に置いてけぼりにされてしまうのだった。

ある日、お腹がすいて仕方がない継子が谷を降りて水を飲んでいると美しい鳥になった本当の母親が現れる。母親は頑張っている娘に小袖や葵の笛、そして新しいこだす(採集用の入れ物)を贈る。娘は栗の実で袋をいっぱいにして家に戻ることができた。

『団子浄土』


春の彼岸に、お爺さんが彼岸団子をこしらえていたところ、団子が転がっていってしまった。
地蔵の前でやっと団子を捕まえたお爺さん。土のついた汚れた団子を自分で食べて、きれいな団子を地蔵に供えた。すると、地蔵が自分の頭の上に上がるようにという。お爺さんは遠慮するが、断りきれずに思いきって地蔵の頭に上る。

やがて鬼たちが賭博をしにやってくる。お爺さんは地蔵に教えられた通り、鶏の鳴きまねで鬼を払い、鬼が驚いて残していったお金を地蔵にもらい、喜んで帰って行った。

食べることへの欲求と不安から生まれた昔話

どの国のどの時代の昔話にも共通しているのは、物語を通して生活の知恵を伝えようとしていることだろう。
ことさら食料生産が不安定な時代には、人々の関心のほとんどは、毎日の食料を手に入れることだった。つまり、飢えに対する恐れが常にあったのだ。
だから農山漁村には、山川海の食べられるものと、食材の利用方法のぼう大な知識が伝承されてきたし、天候不順などで食べものが不足したときのために備えるようになった。限りある食料をどのように食べるか、しかし食べないわけにはいかないから、より少なく食べるのが望ましいとされた。

なかでも食べることを制限されていたのが「米」だった。

お米が食べたくても食べられなかった昔話の主人公たち


かつてお米を食べることは、地位や豊かさの象徴であり、食事の威信の高さを意味していた。稲作の技術には限界があったから、米は誰もが自由に好きなだけ食べらる代物ではなかった。そのうえ米は年貢として収奪されたから、庶民は米の消費を抑える必要があった。
代わりに食べられていたのが、粟や稗、豆。だから、昔話にはお米をめぐる話がたくさんある。

こうした時代背景が垣間見えるのが『継子の栗拾い』や『団子浄土』だ。
子どもたちが栗を拾いに行かされるのは、それが食料だったから。お爺さんが団子を地蔵に渡すのも、食べたいお米を控えることを教えているのだ。

「ハレ」と「ケ」の食べ物

古来より日本人は、普段の日常を「ケ」の日、祭礼や年中行事などを行う日を「ハレ」の日と呼び、日常と非日常を使い分けていた。
食べることに憧れがあった「米」は、「ハレ」と「ケ」の考え方に結び付いている。

『団子浄土』のお爺さんは団子を追いかけて地蔵に会い、鬼を払い、宝をもらった。米を加工した「団子」や「餅」はハレの食べものだ。だからこそ『猿とヒキガエルとの餅競争』の猿は特別な餅を独り占めしたがったのだろう。

『意地の餅』『三枚のお札』など「ハレ」の食べものである「餅」が登場する昔話はたくさんある。

「ハレ」の食べものを追いかけて、非日常の空間である「ハレ」に迷い込んでしまった「団子浄土」のお爺さんを思いだしてほしい。餅や団子は、お米とはちがう、ちょっと特別な食べものだったのだ。

だけど、できることならお腹いっぱい食べたい!

人類史を振りかえると、誰もが好きなものを好きなだけ、お腹いっぱい食べられるという状況は、限定された時代の限定された地域にしかなかった。
昔話の世界では、食べることは生きることと同じくらい重要な問題だったのだ。
だから昔話には、食べ物を粗末に扱わないようにとの教訓や、食べることの尊さ、食料を分かち合うことの大切さを教えているものがある。そして、特筆すべきは善い行いの結果として良い結果がもたらされるということ。

つきたてのお餅、栗、団子…おいしそうな食べものが登場する昔話は、食べることの大切さを記した、食育の教科書でもあるのだ。

書いた人

文筆家。12歳で海外へ単身バレエ留学。University of Otagoで哲学を学び、帰国。筑波大学人文学類卒。在学中からライターをはじめ、アートや本についてのコラムを執筆する。舞踊や演劇などすべての視覚的表現を愛し、古今東西の枯れた「物語」を集める古書蒐集家でもある。古本を漁り、劇場へ行き、その間に原稿を書く。古いものばかり追いかけているせいでいつも世間から取り残されている。