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Culture
2020.01.28

「子曰く」ってそういう意味だったんだ。古典で習った『論語』が今読むと、めちゃ染みる

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「子曰く……」誰でも古典の授業で教わったであろう、あのフレーズ。しかし、内容までしっかり理解している人は果たしてどれだけいるだろうか? 少なくともあきみずは多少の興味を持ちこそすれ、「理解」などと公言しうるレベルにはない。

このところ頓に、人の頭脳のピークは高校生あたりなのではあるまいかと思う。学べば即座に理解でき、1度学んだ内容は半年や1年程度は楽々維持する。それが今やどうだ、学んでから理解に至るまでは蛍光灯ほどのタイムラグを要し、短期記憶どころか長期記憶までもが海馬に届くが早いかニワトリ頭の速度で去っていく。かくのごとくであるから、やはり若さとは学びに対しても良いものなのだろう。

と、盛大に脱線したが、そんな訳で、『論語』が今回のテーマである。

論語ってなんぞ?

そもそも『論語』とは何か。四書五経の1つであり、江戸時代の寺子屋の重要な教科書であり……と言われたところで、ではそれが何物で、何の役に立っていたかという理解には直結しない。「孔子」とは誰か、と問われても、何となく偉い人、という程度の認識しかしていない。これは困った。

各種書物によれば、以下の通りである。

孔子(紀元前552~前479年)は、中国・春秋時代に生きた思想家である。中国における中心的思想である「儒教」の祖であり、「己に道徳的修練を課し、その上で民を統治する」と説いた教えは東洋各国に多大な影響を与えた。日本にも4世紀末ごろ(応神天皇の治世下)に伝来し、江戸時代に爆発的普及を見た。

『論語』は、孔子の孫弟子あたり複数人による編纂と目される書物であり、学而(がくじ)・為政(いせい)・里仁(りじん)など20編から成る、儒教の中心的書物である。3系統の伝来書を折衷して纏めたものであり、また各文は短く、前後の文脈も記されていないことから、後世に様々な解釈が成された。

基本的に『論語』は為政者・支配者階級の心構えを説いたものであるが、人としてあるべき姿に言及したものも多く、あらゆる層の人に参考とされるべき書物である、云々……

――多少は分かった、ような気がする。気がするだけかもしれない。

寺子屋の子供も意味は理解していなかった?

江戸時代の寺子屋(主に上方での名称・江戸における名称は「手習指南所」など)では、年端もいかぬ子らが論語をそらんじていたというから、あきみず、無為に年を重ねながら幼児に完敗である。

と、そこまで落ち込む必要はなかったらしい。寺子屋の子供たちも、必ずしも内容を理解していた訳ではなく、外国の歌をなんとなく覚えて歌っているのと同じようなものだったという。

とはいえ、ある程度の年齢になれば内容も伴い、立派な儒教っ子となる(理解せぬまま音読する「素読[すどく]」までの生徒もいたという説もあるが)。しかしまああきみずは修験道に強く惹かれているのだから、先ずは山岳宗教史や密教などから修めねばなるまい。と、思ったら、修験道にも儒教思想が入っているらしい。ううむ。

「子曰く」ってどういう意味?

論語の特徴的なフレーズとして「子曰く」というものがある。しかし「子」とは何か、「曰く」とは何か。

「子」って?

「子」は「し」と読み、孔子のことである。論語においては「子」のみであれば孔子を示すが、この文字自体は「先生・師」という意味だそうで、「有子(ゆうし・孔子の弟子、有若[ゆうじゃく])」や「曽子(そうし・孔子の弟子、曽参[そうさん])」などが論語中には見える。すべてが「子曰く」で始まるのかと思っていたが、その他にも「子夏曰く」「哀公問うて曰く」など、実にバラエティーに富んでいる。

「曰く」って?

「曰く」は「のたまわく」または「いわく」と読み、直前の人物名と併せて「(誰々が)言うことには」、となる。
「のたまわく」と「いわく」の使い分けは、「子」つまり先生という呼称の付く人物には「のたまわく」、それ以外には「いわく」としているものもあるが、特段の使い分けをせず、すべて「いわく」としているものもある。「のたまわく」は「のたまう(おっしゃる)ことには」という意味だから、使い分けの判別は比較的しやすいように感じる。

なぜ「誰かの言うことには」という定型文が短い文それぞれに付くのか、ということについては、孔子の孫弟子がその師や孔子の言葉を書き留めた、いわば聞き書きだから、ということなのだそうだ。

有名なフレーズをちょっと見てみる

論語の言葉は結構身近なところにあったりする。有名なフレーズをいくつか見てみよう。

己の欲せざるところ、人に施すことなかれ

【意味:自分がされて嫌なことは、他人にもしないことだ】

論語中、2度も出てくるフレーズだから、孔子ないし論語の編纂者も強調したかったことなのかもしれない。確かにこれが実行できれば、世の中からいじめもハラスメントもなくなるだろう。

しかし難しいところなのだが、自分がされても何も感じないことを相手が強く嫌がったりすることは多々あるし、またその逆もある。とりあえず自分がされたくないことはしないよう心がけるだけでも違ってくるかもしれない。

学びて時にこれを習う、また悦ばしからずや

【意味:教わって、これを復習する。なんと愉快なことであろうか】

知識を身に付けるのは純粋に楽しい。本来そういうものだが、学ぶことが義務となり、苦行となっている子供も多いのではなかろうか。どうして勉強するの? という子供の質問に明確に答えられない大人こそが改めて考え直すべき課題かもしれない。無論、不詳あきみずも含めて。

「知識を持っていること、それだけでは意味がなくて、じゃあそれをどうやって活かすか、というところまで進んで初めて自分の知識となる」、とは人生の師よりの受け売りである。教わったことを繰り返し復習し、必要な時に取り出して道具とできるよう……言うは易く行うは難し、である。

しかし「時々」の復習程度でよいのだろうか? と疑問に思っていたのだが、どうやら書き下し文の解釈違いらしい。最近の説では、「時」は「常に」や特別の意味を持たない字として扱われている。

とはいえ、取り立てて「勉強は楽しい」と口にするのは、孔子の時代にも楽しくないと思う者あればこそのことだったろうか。昔はよかった、では説明できない、何とも複雑な問題である。まあ何であれ無理なく継続する、ということが重要、であるか。

温故知新

【意味:昔の知識に学んで、そこから新しいものを導き出す】

故(ふる)きを温めて新しきを知る、が書き下し文である。あきみずの時代には「温」は「たずねて」で習ったが、「あたためて」と読むのが最近の主流らしい。冷めたスープを温める、という解釈なのだそう。

次に続く項目「子曰く、君子は器ならず(教養のある人間と言うのは、1つの技に優れているだけではなく、大きく全体を見渡すことのできる人物をこそ言う)」と併せて眺めていたら、前述の人生の師の言葉そのものとなることに、はたと気付く。師もまた孔子の教えに従っていたのかもしれない。

巧言令色鮮(すく)なし仁

【意味:言葉巧みに爽やかな弁舌を振るったり、いかにも善人らしく装ったりするのは、自分を良く見せるためというのが本心だから、真に他者を思って出たものは少ない】

なかなかに痛いところを突いてくる。それらの言動が純粋に真心から出るようになったなら聖人君子ということなのだろうが、そんな人間は滅多にいない。でもまあ目指したいところではある。

義を見て為さざるは勇無きなり

【意味:正しいと分かっていながら実行しないのは、勇気がないからである】

御説ごもっともである。しかし人とは臆病なものである。その臆病な人間が他者の過ちを指摘したりされたりする、というのはけっこう怖い。まさに「勇気がない」からなのだろうが、こと「和を以て貴しとなす(これもまた論語にある文章である)」を重視する日本文化においては、その方法にも留意しなければなるまい。なかなかに人間力の試される行為である。

また、人が正義を振りかざして突き進む時、危うさも同時に生じるように思う。その手段と過程とは充分に吟味されるべきものかもしれない。

過ちては則ち改むるに憚ることなかれ

【意味:間違いに気付いたら、躊躇なく即刻改めること】

自分の過ちをしっかり認めて改善するには覚悟が必要だ。しかし思うに、物事をよく知っていて様々なことが見えている人物は、だいたいこれを実行している。あきみずの素朴な初心の質問に対し、ご自身の専門分野であるにも関わらず再度資料にあたって確認し、後日より正確な回答をくださった研究者がおられた。その時にも、深く感謝すると共に、これを痛感したのだった。

論語は悟りへの一歩?

ちょくちょく中華思想が顔を覗かせるものの、論語は現代人にも学ぶべきところの多い名著であることは間違いあるまい。

不心得者のあきみずなどはいちいち耳が痛くて若干へこむのだが、まあへこむだけへこんで底を見たら、這い上がるだけである。別段、特殊性癖を持っている訳ではないが、これからじっくり読んでみたいと思っている。

書いた人

人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。