5歳年下のアーティストと運命的な出会い。気付けば恋愛に発展する二人。すれ違う時期もあったが、互いにようやく人生を共に歩む決意をする(※コレ、日本文化を伝える和樂の記事です)。
でも、ちょい待ち。「結婚制度」って何よ?(女の心の声)
その疑問は膨らむばかり。共に人生を歩むって決めたけど、国が決めた「結婚」の制度には縛られたくない。だって自分の姓を捨てることになるし。そもそも、結婚制度に保証してもらう二人の関係自体がイヤ。だから、籍を入れずに…ええっと、今でいう「事実婚」ってやつ?まあ、正確には「共同生活」を始めようって決めたワケ。
さて、これは誰の話か。ところどころ、私と似ている気もするが…うちは更に年下で…いえいえ。そんなことはさておき。なんと、この話、じつは100年以上前の大正時代の女性の話である。女性解放運動家との肩書で紹介される「平塚らいてう(らいちょう)」の結婚観を、現代版として私が超訳したものだ。以下、正確な文章を自伝より抜粋した。
「私たちは愛するもの同士なので、日本婚姻法に定められているような夫と妻との関係ではありませんし、また、あってはならないのです。自分が納得しえない法律で自分たちの共同生活を承認し、また保証してもらわなければならないなんて、そんな矛盾した、不合理なことができますでしょうか」平塚らいてう著 『平塚らいてう わたくしの歩いた道』より一部抜粋
超がつくほどの「時代の先取り」ともいえる「平塚らいてう」の結婚観。今回は、明治・大正時代のド直球の結婚ネタを真正面から取り上げたい。
平塚らいてうといえば、雑誌『青鞜』を発刊した「新しい女」?
歴史の教科書にも掲載されている「平塚らいてう」は、「新しい女」として、女性解放運動の立役者としてのイメージが強い。
「原始、女性は太陽であった。真正の人であった。
今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である」
平塚らいてう著 『平塚らいてう わたくしの歩いた道』より一部抜粋
明治から大正にかけて、女性は従属した立場に置かれていた。現代でも、女性の活躍が政策の一つに挙げられていることに、なんとなくデジャブを感じるのは私だけだろうか。女性が勉強に励み、バリキャリとして立身出世するなど、当時は逆立ちしても考えられないことであった。
そんな時代に、平塚らいてうを中心に女性ばかりで『青鞜(せいとう)』という雑誌を発刊する。明治44年(1911年)9月のことだ。当時は「女だけで作った女の雑誌」という理由で大いに反響があったとか。その初刊に際して、平塚らいてうが寄稿した文章の始まりが「原始、女性は太陽であった」という先ほどのフレーズである。このインパクトある言葉に、抑えられていた日本中の、とりわけ若い女性の自我が大爆発した。確かに、女性解放運動家といわれるのも分からなくはない。しかし、彼女の出自や経歴、自伝を読めば、どちらかというと、迷いながらも自我に目覚め、必死に「自分」という存在に真正面から挑んだ女性という印象を持つ。当時の時代背景、また周囲が求めていた役割に、ちょうど平塚らいてうが当てはまった結果のことのように思うのだ。
そもそも「平塚らいてう」はペンネームだ。「らいてう」とは「雷鳥」という鳥の名前だ。この『青鞜』の寄稿文を書いた際に、ふと頭に浮かんだのがこの鳥だったという。
本名は平塚明(はる)。明治19年(1886年)に会計検査院検査官である平塚定二郎氏の三女として生まれる。12歳で女子高等師範学校附属高等女学校(通称お茶の水高女)に入学、17歳で日本女子大学校家政学部へ進む。本来ならば英文学部を志望したが、父の反対で家政学部に落ち着いた。卒業後は、もともと関心のあった英語を習うため、女子英学塾や私立成美高等英語女学校などに入学し、勉強と座禅の毎日。哲学や仏教、そして文学にも興味があったという。
お茶の水高女時代には、封建的な教育制度に反発し、級友と「海賊組」を作ったエピソードも。臆することなく自分の気持ちや考えを表現し、真っ直ぐ突き進む性格だったようだ。『青鞜』という雑誌の趣意書には「婦人もいつまでも惰眠を貪っている時ではない。早く目覚めて、天が婦人にも与えてある才能を十分伸さねばならない」と書かれている。これも、当時の日本人女性に対するらいてうの率直な気持ちなのだろう。ちなみに『青鞜』とは18世紀のロンドンで流行った「ブル―ストッキング」からのネーミングだ。サロンで盛んに芸術や化学を論じた新しい婦人たちが、青い靴下を履いていたことが由来だとか。何か変わったことをする新しい婦人への嘲笑的な意味合いの言葉を、予め名乗って先手を打とうとする気概は、並大抵ではない。
じつは心中未遂に巻き込まれた過去も
さて、平塚らいてうが世間から最初に注目されたのは『青鞜』の発刊ではない。意外にも、全く別の出来事、スキャンダルが理由で、新聞を賑わすことになる。それが「煤煙(ばいえん)事件」、いわゆる文学士との「心中未遂事件」である。
当時の平塚らいてうは、またペンネームを使わない、ただの明(はる)であった。22歳の彼女は、英語などを学び、相変わらず禅寺で自分が何者であるかを模索していた。その頃、成美女学校の中に女性たちの文学研究会「閨秀文学会(けいしゅうぶんがくかい)」が生まれる。その講師だったのが、心中未遂事件を起こす森田草平(もりたそうへい)氏である。平塚らいてうよりも3、4歳年上の文学青年であった。
二人のきっかけは、閨秀文学会の回覧誌に平塚らいてうの短編小説『愛の末日』が掲載されたことによる。あらすじは、若いインテリ女性が相手の妥協的な態度に愛想を尽かして、恋愛関係を清算して地方の女学校へ赴任するというもの。この作品に対して、森田氏が長い批評の手紙を送ってきたのだ。
らいてうは森田草平氏を「陰性のはにかみや、話も上手とは言えない、気分的な、空想的な、ひとり合点のところが多い」と評し、かえってそれが「愛嬌、魅力」と分析していたようだ。まあ、なんとも、芸術家の特徴ばかりが際立った人物なのだろう。以後、二人は手紙のやりとりを続けていく。手紙といっても、勝手な夢や独り言を各々がつぶやくようなものだったとか。
ちなみに、らいてうは好奇心の塊のような人だった。そのため、誘われればどこへでも一緒に行ったとされている。あとに、女学校の友人とは異なる別の興味やスリルが味わえたからと、自伝では明かしている。ただ、一方で「永久には噛み合うことない2つの歯車」とも。こんな二人のボタンの掛け違いが、スキャンダラスな事件へと発展していくのだった。
事が起こるのは明治41年(1908年)3月21日。朝、らいてうが通っていた浅草の海禅寺に森田草平氏が訪ねてくるところから始まる。らいてうは散歩かと思って付き添ったが、着いた先は蔵前の鉄砲屋だった。いきなり入って、森田氏はピストルを注文したという。らいてうは自伝の中で、これまでの森田氏からの手紙を回想している。「人は死ぬ瞬間が最も美しい、私は芸術家だ、詩人だ、美の使途だ、あなたを殺す、そして最も美しいあなたを冷静に観ようと思う」などの文言が書いてあったというのだ。らいてうからすれば、その場その場の興味として捉え、まさか本気とは思っていなかったようだ。この時点で、一般人であれば警察署へ即ダッシュ。ただ、やはり彼女は度胸が違う。
「でもやるという気なら行くところまで行ってみるばかり、外す(そらす)こともできず、また外す気もありませんでした…(中略)…先生は、相変わらず顔色がわるく、何かおどおどとして元気がないのでしたが、私はすべてからとき放たれたような軽々とした思いで、心はしきりにはずんでいました」
平塚らいてう著 『平塚らいてう わたくしの歩いた道』より一部抜粋
らいてうは、いったん帰って家出の準備をする。当時アルバイトとして行っていた速記の仕事も、受けたものを終わらせ完結させている。これから心中するかもしれないという状況の中で、非常に冷静に行動している。また、友人の一人に家出のことを告げ、日記などを燃やしてくれるように頼んだようだ。そうして、部屋を整理し、お線香を一本あげてから、母の懐剣を持って家を出たのであった。
田端駅で待ち合わせをした二人は、行先を決めず列車に乗り込む。着いたのは、栃木県の塩原温泉の尾頭峠(おがしらとうげ)。雪深い山中であった。
あまりにも現実的ならいてうを前にして、森田氏はビビったのだろう。「ヤバい。えっ?本気で死ぬ気あんの、この人?」的な。よく、言うではないか。自分よりも緊張した人やパニックに見舞われた人を見れば、正常な精神状況に戻れるのだとか。きっと、そんな感じだろう。案の定、山中にて森田氏は「殺すことはできない」と、らいてうの母の懐剣を谷底に捨てている。気持ちが変わったのだ。いや、死ぬ気など最初からなく、引くに引けなかったようにも思える。らいてうはというと、自伝の中でこの時のことを「虚無のような気持ち」と表現しているが、一転して、次の瞬間には「私は山をのぼるのだ、早く雪の山頂をきわめよう」と、俄然積極的になって山を登り始めている。
3月24日、こうして尾頭峠の山中を彷徨っていた二人は、巡査に保護される。この心中未遂事件は、当時マスコミがこぞって取り上げた。というのも、らいてうは当時女子の最高学府の一つの日本女子大学校、森田氏も東京帝国大学と、高学歴同士の男女だったからだ。ただ心中未遂の真相はというと、よくある男女の関係がこじれたなどの理由ではなかった。単に芸術家としての「死への興味」といった類の、一般人には到底理解できない理由であった。
その後、らいてうは信州の山で半年ほど静かに過ごす。よほど、この騒動がこたえたのだろう。しかし、以降は『青鞜』を発刊し、女性解放運動へ繋がっていくのである。ちなみに、転んでもただでは起きないのは、らいてうだけではない。森田氏はこの心中事件のいきさつを、小説『煤煙(ばいえん)』として書き上げ、朝日新聞に掲載した。晴れて小説家デビューしたのである。売名行為とも取られるウルトラGの着地点だ。一方で、森田氏が師事していた夏目漱石は、この心中未遂事件の決着として「森田から平塚家へ結婚の申し込みをさせること」を提示している。もちろん、らいてうはというと、この提案を一蹴。「結婚は万全の解決方法である」という男性陣からの考えとは異にしている。当時から、らいてうには独自の結婚観があったと思われる。
互いに惹きつけ合った運命の出会い
出会った瞬間にはっきりと「この人だ」と分かるものなのだろうか。自分の経験からすれば、分かる場合もあれば、分からない場合もある。それは、恋愛に発展するスピードにも違いが表れるように思う。
平塚らいてうは、互いに直感したという。大正元年(1912年)26歳のらいてうは、既に『青鞜』を刊行して、働く女性として自立しつつあった。そんな時、偶然にも仲間と訪れていた神奈川県茅ケ崎(ちがさき)で、まだ若い奥村博史(おくむらひろし)氏と出会うことになる。彼は美術学校に通う5歳年下の青年であった。
鮮烈な出会いだったのだと思う。文学だからというのを抜きにしても、その直情的なニュアンスが今でも激しく伝わってくる。人間的な魂の揺さぶりというよりは、強烈な異性として意識するようなものだろうか。
「眼と眼が合った瞬間、心臓を一突きに射ぬかれたようなせんりつが走り、青年になってはじめて、かつて覚えぬ想いで、ひとりの女性を見た―と、奥村はのちに述懐しました。わたくしもまたこの異様な、大きな赤ん坊のような、よごれのない青年に対して、かつてどんな異性にも覚えたことのない、つよい関心がその瞬間に生まれたのでした」
平塚らいてう著 『元祖、女性は太陽であった―平塚らいてう自伝』より一部抜粋
なんともドラマティックな出会いだったが、ここで予期せぬ試練が待ち構えていた。あろうことか、本来ならば応援してくれるはずの友人が、嫉妬により二人の邪魔をしたのだ。平塚らいてうの友人である尾竹紅吉(おたけべによし)と、奥村氏側の友人である新妻莞(にいづまかん)。ともに、らいてうと奥村氏を独占したがるような傾向が二人にはあったという。特に奥村氏は相当参ったようだ。紅吉からは脅迫状や絶縁状などが届き、友人からは勉強中の身だと散々説教される。外野の騒音に耐えきれず、とうとう奥村氏はらいてうの前から姿を消す。
のちに、らいてうは自伝の中でこう振り返っている。「それだけでは恋愛というようなところまで進まなかったでしょうが、ふたりの間にいろいろな邪魔がはいったために却って早く結びつくような結果になった」と。結果的には、まさしくラブロマンスの王道のような展開となったのだ。
ちなみに、この邪魔者の一人だが、かの有名な「若い燕(つばめ)」という流行語を生みだすことになる。「若い燕」とは、俗に年上の女性の愛人である若い男の意味で、現在でも使用されている言葉だ。まさか、語源が平塚らいてうに関係あるとは驚くばかりだ。今となっては、知る人も少ないだろう。じつは、らいてうの前から姿を消すときに、奥村氏は一通の手紙を書いている。
「『池の中で二羽の水鳥たちが仲良く遊んでいたところへ、一羽の若い燕が飛んできて池の水を濁し、騒ぎが起こった。この思いがけない結果に驚いた若い燕は、池の平和のために飛び去って行く』とまあだいたいそんな意味のことが書いてありました。私は、取りあえず『燕ならきっとまた、季節がくれば飛んでくることでしょう』と返事を出しておきました…」
平塚らいてう著 『平塚らいてう わたくしの歩いた道』より一部抜粋
らいてうはこの手紙を読み、彼の人柄が感じられないことを不審がった。予想は見事的中。あとから、この手紙は新妻氏の代作だったことが判明する。ただ、これらの手紙は新妻氏によって公開され、世の人の知るところとなる。そして、手紙の中の「若い燕」だけが独り歩きをしてしまうのだ。ある意味、こんな経緯で慣用句が生まれるのも斬新だといえる。
さて、他人の思惑ですれ違った二人だったが、意外にも早く再会を果たすことになる。きっかけは、帝国劇場で上演中の「ファウスト」。皮肉にも仲を引き裂いた紅吉が、奥村氏の出演に気付き、らいてうに知らせるのだった。らいてうは楽屋に深紅のバラの花束を届ける。この9ヶ月後の再会から、急速に二人の関係が発展していく。
大正3年(1914年)、二人は「共同生活」を始める。あえて婚姻届を出さずに、日本の「婚姻制度」から脱却することを目指したのだ。当時は自由恋愛からの結婚は「野合(やごう)」と呼ばれ、世間から非難を浴びた。それでもらいてうは諦めず、さらに「結婚」と区別した「共同生活」という言葉で、二人の関係を世に知らしめる。のちに二人の子供を授かるが、旧民法に則って分家し、らいてうの戸籍に入れて育てた。ただ、兵役に不利があることを知り、最後は息子を守るため、婚姻届を提出している。
病気や貧困など生活自体は順風満帆とは言えなかったが、二人の関係は生涯変わらなかった。創作ジュエリーの分野で、奥村博史氏は「先駆者」ともいわれているが、動機は至って単純。「妻の指を飾るふさわしい指輪」を作るため。こうして最期まで二人は仲睦まじく連れ添い、一生を全うした。
人生は何度も選択の繰り返しだ。振り返っても、結局どの道が良かったのか、分からない。それでも、自分の直感を信じて進むしかないときもある。江戸時代が終わり、新しい風が日本に吹いた明治・大正時代。それは政治の力だけではないのだろう。平塚らいてうのように、迷いながらも自分の信念を貫いた人たちの人生の積み重ねで、時代は進むのだと思う。まだ家としての結びつきが強かった時代に、あえて一人の人間としての結びつきを重視したらいてう。
あれから100年。
ようやく、時代がらいてうに追いついたのかもしれない。
参考文献
『平塚らいてう わたくしの歩いた道』 平塚らいてう著 1994年10月 日本図書センター
『命みじかし恋せよ乙女 大正恋愛事件簿』 中村圭子編 2017年6月 河出書房新社
『平塚らいてう わたくしは永遠に失望しない』 らいてう研究会編 2011年9月 ドメス出版
『元祖、女性は太陽であった―平塚らいてう自伝』 平塚らいてう著 1971年1月 大月書店