風が、変わった。2019年下半期、そんな確かな感触を捉えた。強い立場にある人の言うことには問答無用で従え、自分を犠牲にしてでも会社や組織のために尽くせ……そんな旧来の価値観が、明確に崩壊しはじめたのである。
アイドルたちの楽曲の歌詞にもそれが見て取れる。周囲に押し付けられたレッテルに何の意味があるのか、誰のための人生なのか、そうした強いメッセージを発信しているものがいくつも見られた。
中でも、2020年2月現在も放送されているファストフード店のテレビCMは秀逸だ。明らかな過干渉に対し、ナルシスティックな答えを返して見下そうとしてきた相手を煙に巻く。予想外の反応に、相手は呆気に取られて言葉を失う。
理屈ではなく、単に相手を貶めることで優越感を得たいような手合いに対して、非常に有効な手段である。
新世代の潮流と見えるこの言動、しかし実は400年ほども前に実践していた男がいた。
奥州の雄、派手に謝罪する
漆黒の鎧兜に三日月の前立て。戦国随一の洒落者、伊達政宗である。
派手好みで、能楽でも囃子のうち最も華やかとされる太鼓を好んで打っていたと伝わる奥州の雄は、一歩誤れば命を落としかねない状況に複数回陥っている。が、その度に切れ味鋭い変化球を放っては鮮やかに切り抜けてきた。
遅れてさーせん!
天正18(1590)年、豊臣秀吉は再三命令に背いた後北条(ごほうじょう)氏を討つため、小田原征伐を決行した。政宗にも出陣命令が下ったが、伊達家は父・輝宗(てるむね)の頃から後北条氏と同盟関係にあった。理由は他にも様々あったかもしれないが、政宗は秀吉の命になかなか応じず、ようやっと重い腰を上げた時には戦はほぼ終了していた。
少々遅参してしまった、などというレベルの話ではない。風の行方を読んで、有利なほうに付こうとしていると見なされても文句は言えない状況である。政宗にしても守るべき存在がある以上、それは責められることでもないように思うが、秀吉にしてみれば下命に背く行為に他ならない。
この危機に政宗のとった行動が、「死装束を纏って謁見する」。死に値する過失であったと自ら認め、のみならずそれを逆手に取った、実に肝の据わった派手なパフォーマンスである。というより、こちらにはこちらの事情があるんだよ、という開き直りの匂いも若干感じなくはないのだが……
政宗とは方向性が異なるものの、秀吉も大変な派手好みである。「もう少し遅くなっておれば、その命はなかったぞ」と告げ、政宗の首は辛くも繋がった。
裏切ろうとしてさーせん!
天正19(1591)年、政宗はまたもや派手なパフォーマンスを行う。今度はなんと、一揆の扇動をしたのである。
全国統一を成し遂げた秀吉は、政宗の本拠地を含む奥州の再編成に着手する。政宗は領土を一部没収され、さらに南北を秀吉の長年の臣下に挟まれる格好となった。
この時、新たに秀吉の臣下が入った北の地で、元々ここを統治していた大崎氏と葛西氏の旧臣を中心とした一揆が起こる。この黒幕が政宗であるとの嫌疑がかかったのだ。恐らくこの嫌疑は事実であっただろうと言われる。
政宗は前回の死装束に加えて金箔を貼った磔柱(はりつけばしら・十字架)を担いで参上し、あくまで知らぬ存ぜぬを貫いた。しかしさすがにこれは許されないだろうと思いきや、秀吉はまたもや政宗を領地の制裁のみで赦免したのだった。
政宗は稀代の戦巧者である。その影響もあったかもしれないが、この人物を生かしておきたい、と思わせるような政宗自身の魅力を秀吉は強く感じていたのではないだろうか。
ちなみに、政宗は関ヶ原合戦に際し、家康に対しても一揆の扇動を行って露見する羽目に陥っているが、ここでは派手なパフォーマンスは行っていない。相手を見極めて行動を起こしていた証拠と言えるかもしれない。
政宗は秀吉からは羽柴姓、家康からは松平姓を、それぞれ与えられている。気に入られたということもあるのだろうが、それだけ敵対したくない、懐に入れて大人しくさせておきたい厄介な相手と見なされていたようにも思える。
いつも心に政宗を
高圧的な態度を取る人間は、得てして強いコンプレックスを抱えていることが多い。自分を信じきれず不安で、それを補完するための振舞いなのだから、正面切って立ち向かっても無駄である。元より理屈の通じぬ相手と考えておくのがよさそうだ。
完全なる理不尽といったケースではなかったにしろ、政宗も基本心理にあるそれを悟っていたからこそ、人を食ったような行動に出たのだろう。秀吉も人の心の機微を巧く利用してきた男であるから、その辺りに敏感に気付き、一目置いたのではないか。まあ政宗も相手が良かったと言えるかもしれない。政宗も相手を見ての行動だろうから、お互い様か。
現代の実生活においてもこの「政宗流」は活用できる。実行できるかどうかはケースバイケースだが、自分の心を収める術として、常に内なる伊達政宗を育んでおくと、精神衛生上、実によろしいように思える。いわゆるアンガーマネジメントの一環として、空想で楽しんでしまおうというわけだ。様々なストレスにさらされる現代、溜め込まずに変換して昇華させるのは重要な作業となってくるし、何より、遊びをせんとや生まれけむ、楽しまずんば是いかん、である。この浮世の生、与えられるものを存分に楽しまずして何としょう。
――この記事がお嫌いでも、伊達政宗のことは嫌いにならないでほしい。
以上、愛らしさの欠片もないほうの「あっちゃん」がお送りいたしました。