奇術――。巧妙な技術、仕掛け、錯覚によって人の目をくらまし、常識的な判断を超えた奇現象をみせる芸能は、時として努力のみならず才能を必要とするものでしょう。明治後期、大正、昭和初期の3つの時代にわたって天性の才能と美貌を駆使し、人々を魅了させた「魔術の女王」がいました。
奇術との出合い
背が高く、色白美人でグラマラス。八重歯にダイヤモンドを嵌め、笑うとキラキラと光る妖艶な女性。これが「魔術の女王」と称された松旭斎天勝(しょうきょくさいてんかつ)です。
本名は中井かつ。元々は奇術とはかかわりのない質屋の娘として1886(明治19)年に、東京・神田に生まれますが、彼女が12歳のときに父親が別の事業で失敗。家業が傾くと、当時一流の奇術師として名を馳せていた松旭斎天一(しょうきょくさいてんいち)のもとに25円の前借金と引き換えに身売りされてしまいます。
天一は明治を代表する奇術師で、1889(明治22)年にアメリカ人奇術師ジョネスに学び、日本人の中でいち早く西洋奇術を習得。西洋風ステージ・マジックの興隆に大きく貢献しました。それまでの日本は奇術というよりも、水芸などの伝統的な和妻(わづま:江戸時代から伝わる日本独自の手品)が主流でしたが、鎖国が終わると日本での公演に訪れた外国人奇術師との交流によって、西洋奇術の仕掛けを手妻に取り入れたり、西洋奇術に転向したりする者も現れたのです。こうした流れの中でスター的存在となったのが、天一です。
その天一がかつを一目見て器用さを見込み「天勝」という芸名を与えます。この頃、天一には100人超の弟子がいたため、かつは嫉妬の対象とされ意地悪もされたそうですが、それでもめげずに奇術の稽古に励み、技に磨きをかけていきます。さらにかつは14歳の頃、天一に愛人になるよう迫られます。当時は、愛人を持つことは公然で、政治家や、豪商などの間では至極当然のことでした。かつははじめは拒否し自殺を図りますが、一命は取り留め、最終的には宿命として受け入れます。元々裕福な家庭で育ち、幼少期の頃から踊りや常磐津(ときわず)を習っていたかつですが、その器用さだけでなく人を魅了する色っぽさは幼少の頃からあったのでしょう。
国内外で一斉を風靡
舞台映えのする美貌と天性のスター性があったかつは、たちまち一座のスター的存在となります。かつが得意としたのは「羽衣ダンス」という演目で、スパンコールをつけた薄物の衣装を纏い、目元にはつけまつげという派手な姿で洋舞を披露。その目新しさとモダンさに大衆は熱狂したといいます。
一座は1901(明治34)年から3年間、欧米を巡業。演出のテンポをアメリカ風に早くし、日本舞踊を加えるなど、プログラムにアレンジを加えることで舞台は成功。さらにヨーロッパを巡業し、かつは外国人から「キュートなスター」と呼ばれ話題になりました。その後、日露戦争の影響で帰国を余儀なくされ、1905(明治38年)、帰朝公演を行います。タイツ姿で登場すると西洋奇術をスピーディにこなし、人々を圧倒させ各地で幅広く人気を集めていきました。
国民的マドンナの誕生
1912(大正元)年、師匠の天一が60歳で病死。かつは27歳でそのあとを継ぎ、座員100名を越す「天勝一座」の座長となります。のちにマネージャーとして野呂辰之助(のろたつのすけ)を雇い、結婚しますが、これがもとで一座は分裂。しかし、ここから一座はさらなる隆盛を見せていくのです。上野で行われた家庭博覧会ではギリシャ式の扮装で50台以上の人力車を連ねたパレード。その後ろには、水色の洋装にバラ色のボンネット姿のかつが馬車に乗ってつづきます。
1915(大正4)年には、川上貞奴(かわかみさだやっこ)、松井須磨子2人の女優がそれぞれサロメを演じ話題を集めると、それに対抗して天勝も奇術の応用として肉体的美貌を武器に「サロメ」を上演。これも大ヒットしたといいます。彼女の必殺技は、「目線」。舞台から観客に流し目を送ると、その相手は翌日も同じ席に座ったというほど虜になってしまう人が多くいたのだとか。「流し目の天勝」恐るべし…。
さらにかつは、伊藤博文、後藤新平を筆頭に、エリート官僚、国会議員要人にも人気が多かったことで知られています。また、三島由紀夫は『仮面の告白』に、舞台を観て「天勝になりたい」と思った様子を描いています。まさに国民的マドンナだったのでしょう。
「天」という名
1927(昭和2)年、夫の野呂が死去。その悲しみを乗り越えるも1937(昭和12)年に日中戦争がはじまると、座員が出征し舞台どころではなくなってしまいます。そして、1944(昭和19)年、かつは食道がんに罹(かか)り亡くなってしまいます。
奇術の黄金時代に一役買った生涯。かつの成功以降、女性の奇術師の活躍は珍しくなくなったといいます。そして「天一」「天勝」の天の字は、その後のマジック界にも受け継がれ、天勝の孫弟子である初代引田天功、その弟子にあたるプリンセス天功と、「天」の名前は今もなお受け継がれています。
参考:『明治・大正を生きた女性たち 逸話辞典』(第三文明社)
文化デジタルライブラリー:https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc20/geino/kijutsu/column.html