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2020.05.14

猛将・島津義弘は大の猫好きだった?戦場ににゃんこ7匹ご同伴って本当?ずばり解説!

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島津義弘(しまづよしひろ)は戦国時代の薩摩の武将。「鬼島津」の異名で知られる猛将で、数々の猛々しい戦歴を残しています。しかし、その裏の顔は……にゃんと! 朝鮮出兵時に猫を7匹も連れて行くほどの大の猫好き! しかし戦場で猫にデレデレしていて兵の士気があがるのか疑問……。
実は義弘が戦場に猫を連れて行ったのには理由があったのです。今回はその苦しい言い訳理由を検証します。

「島津に暗君なし」

義弘は1535年に島津家15代当主・貴久(たかひさ)の次男として誕生(島津四兄弟の次男)。16代当主である兄の義久(よしひさ)が退いた後に17代当主となりましたが、戦国の世は兄弟であっても敵となることが多かった中、義弘は兄の義久を敬い、よく補佐したといわれています。薩摩の島津家といえば「島津に暗君なし」といわれるほど人材に恵まれた家系。名君と名高い斉彬(なりあきら)や、ドラマなどではあまり良いように描かれていない久光(ひさみつ)も、歴史に名を残した偉人として知られています。

島津家の別邸「仙巌園」から望む桜島

九州統一を目前にしていた義久率いる島津家ですが、豊後の大友宗麟(おおともそうりん)が豊臣に援軍要請をしたために豊臣の九州討伐を受け、以後、九州の名門島津家は豊臣政権下となります。

鬼島津の戦歴

鬼島津と恐れられた義弘の戦歴の中でも特に有名なのが、豊臣秀吉による朝鮮出兵「文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)」と関ヶ原の戦いの「島津の退き口」です。

関ヶ原の戦い 東軍のはずが西軍に…

時は前後しますが、関ヶ原の戦い「島津の退き口」からご紹介しましょう。豊臣政権に協力的であった義弘ですが、秀吉の死後は中立的な立場をとっていました。兄弟の処遇に差をつけて義久と義弘を分断するという秀吉の計略によって、兄の義久は豊臣とは距離をおいていたようです。

1600年6月、豊臣と徳川の溝が深まる中、徳川家康は上杉討伐のために義弘に援軍の要請をします。関ヶ原の戦いの幕開けです。義弘は率いていた1,000ほどの兵で伏見城の鳥居元忠(とりいもとただ)のもとに駆け付けますが、「そんな話は聞いていない」と入場を拒否されたため、結果的に再三援軍要請をされていた西軍につくことになります。天下分け目の大戦で西軍か東軍か。そんな大事なことをこんな流れで決められるものなのか? と思われますが、これには諸説あり、もともと西軍に味方するつもりであったという話も残っています。

イメージ画像

1,000ほどの軍勢しかなかった義弘は国元に兵の増強を要請しましたが、島津からの大規模な派兵はありませんでした。それでも義弘を慕って甥の島津忠久(しまづただひさ)や家老の新納旅庵(にいろりょあん)、長寿院盛淳(ちょうじゅいんもりあつ)、山田有栄(やまだありなが)らをはじめとする多くの兵が各々集まり、決戦直前にはその兵力は1,500人ほどに増えていたようです。

さて、西軍についた義弘ですが、石田三成が前戦の島津勢を見捨てたり、三成の家臣が下馬せずに義弘に援軍を要請したりと、わずか1,500ほどの兵しか持たない義弘を軽んじるような態度をとります。このあたりに三成の残念なところが凝縮されているような気がしないでもありません。

かの有名な小早川秀秋(こばやかわひであき)の東軍への寝返りで西軍は総崩れし、島津勢は敵中に孤立。流石の鬼島津も覚悟を決めて切腹しようとしたようです。ですがここからが「島津の退き口」と呼ばれる壮絶な退却戦のはじまり。島津勢は後方に逃げるのではなく前方の敵の大軍の中を突破することを選びました。福島正則(ふくしままさのり)隊を突破し、徳川四天王の井伊直政(いいなおまさ)と本多忠勝(ほんだただかつ)の追撃もかわし、義弘は無事に堺の港から脱出。相当奇跡的な脱出劇ですが、この戦術は「捨て奸(すてがまり)」といい、義弘を逃がすために、何人かずつが死ぬまで敵を食い止めて、その隊が全滅すると次の何人かがまた死ぬまで敵を食い止めるという壮絶なものでした。義弘のために集まった兵たちは、自ら志願してこの作戦を遂行したのだとか。義弘がどれほど家臣たちに慕われていたかよくわかります。しかしながら、ここで豊久や長寿院盛淳も討ち死にしたのでした。

こんな壮絶な戦場ににゃんこ7匹いたらドン引きですが、猫を連れて行ったのは別の戦。次の朝鮮出兵でご紹介しましょう。

にゃんこ好き “鬼石曼子(鬼島津)”

1592年から1598年に行われた朝鮮出兵、いわゆる文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)では、島津軍は朝鮮・明軍から “鬼石曼子(グイシーマンズ、鬼島津の意)” と呼ばれ恐れられ、泗川の戦い(しせんのたたかい)では20万の敵を7,000の兵で打ち破りました。そんな鬼と恐れられる武将が、にゃんこを7匹も同伴して戦に臨んでいたというから驚きです。陣に帰ってから「今日も危なかったニャン♪ 」なんて猫に語りかけていたのでしょうか。血で血を洗う過酷な戦場で、ほんの束の間かわいいにゃんこに癒されたかったというのは理解できなくもありません。まぁ7匹もいれば色んな性格の子がいるでしょうし、楽しそう。これはちょっとした戦場猫カフェでは? なんて想像してしまいます。

妄想は膨らむばかりですが、実は戦場に猫を連れていった理由というのは、癒されるためではなかったようです(なんだ、つまんない)。猫の瞳孔の開き具合で時間を推測するためだとか。戦場猫カフェじゃないんですね。これはこれは失礼いたしました。

古い歌に「六つ丸く 五七は卵 四つ八つ柿の実にて 九つは針」と、猫の目時計を歌ったものがあり、忍者もこの猫の目時計を利用していたといわれています。確かに猫の目は光の量を調整するために、朝と夕方になると丸く(大きく)なり、正午近くは縦に細くなって線のようになりますね。ただし猫の目時計は条件が一定でないと使えません。正午でも暗ければ、猫の目は丸くなります。時間というより光の量です。そういった点から考えると、やはり戦場に猫を7匹も連れ行ったのは、猫カフェ疑惑が(笑)

島津家ゆかりの地に残る猫スポット

いずれにせよ島津の殿様方はやはり猫好きなのでしょう。島津家の別邸「仙巌園(せんがんえん)」には、朝鮮出兵から生還した2匹の猫・ミケとヤスの霊を祀った猫神神社が建てられていて、「健康でありますように」「長生きしますように」など、愛するにゃんこの健康長寿を祈る絵馬が数多く見られます。

画像提供:仙巌園 「猫神神社」

毎年6月10日の「時の記念日」には時計業者が集まり例祭が執り行われ、あわせて猫長寿祈願と供養祭も行われます。特に義弘の次男・久保(ひさやす)は朝鮮から生還したこの2匹を非常に可愛がっていたようです。

画像提供:仙巌園 「猫神神社」

義弘は文禄の役には松尾城(現在の姶良郡湧水町)から出陣していますが、松尾城跡には猫の祠が残っています。

ところで朝に出会ったこの子の瞳は何時?

猫目の表で判断すると午前7時頃のようですが、実際には午前8時。天候や計測場所などの条件で結果が左右されると思うのですが、戦国時代としてはまぁまぁの精度なのでしょうか?

みなさんもお家やご近所のにゃんこで試してみてください。

仙巌園
住所:鹿児島県鹿児島市吉野町9700-1
時間:9:00~17:00 (年中無休)、3月第1日曜日は鹿児島マラソンの為休園
料金:庭園・尚古集成館・御殿:大人1500円、小中学生750円 庭園・尚古集成館:大人1000円、小中学生500円

書いた人

生まれも育ちも大阪のコテコテ関西人です。ホテル・旅行・ハードルの低い和文化体験を中心にご紹介してまいります。普段は取材や旅行で飛び回っていますが、一番気持ちのいい季節に限って着物部屋に引きこもって大量の着物の虫干しに追われるという、ちょっぴり悲しい休日を過ごしております。