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2020.03.27

百姓の美人姉妹が武士を討った!宮城県に伝わる、幼き少女たちの勇ましい仇討ち

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漫画「鬼滅の刃」で圧倒的人気を誇る女性キャラクター胡蝶しのぶ。敵である鬼に両親と姉を殺され、仇討ちに生を果たします。

浄瑠璃をはじめ狂言、浮世絵、神楽にと数々の創作の手が加えられてきた『宮城野・信夫姉妹の仇討ち(みやぎの・しのぶしまいのあだうち)』もまた、父を殺された姉妹が恨みを晴らす物語。「白石噺」として歌舞伎の演目で耳にしたことのある人もいるかもしれません。

田舎の村に住む貧しい百姓の姉妹が活躍するこのお語は、かつて民衆のあいだに大流行を巻き起こしました。北は青森のじょんがら節、南は沖縄の組踊と日本全国へと広がっていき、400年近く経った現代でも愛され続けています。

芝居や踊りになじみがなくても、2人の仇討ち伝を知れば、きっとあなたも宮城野・信夫姉妹のファンになること間違いなしです。

※田辺志摩(志賀団七)は資料や史実により名前の表記が異なりますが、この記事では田辺志摩で統一しています

『宮城野・信夫姉妹の仇討ち』のストーリー

逆戸村(今の宮城県白石市)に与太郎という百姓と2人の娘が暮らしていました。
姉の名は宮城野(みやぎの)、妹の名を信夫(しのぶ)と言います。
貧しいながらも幸せに生活していた彼らを、ある日、不幸が襲います。

幼い姉妹の上にふりかかった思いもがけぬ災難

それは、一面の萩が咲き乱れるある日のことでした。
宮城野と信夫姉妹の父親、与太郎が八枚田で田の草をとっていたときのことです。

「白石噺」、牧金之助 編、明治23年、国立国会図書館デジタルコレクションより

たまたま通りかかった片倉小十郎の剣術の先生、田辺志摩の袴に泥がかかってしまいます。
火のように怒る田辺志摩。父と娘は土下座して、自分たちの非を一生懸命に詫びます。
しかし団七は聞く耳をもたず、与太郎はその場で斬り殺されてしまいます。
あれほどお詫びを乞うたのに、あまりにも酷い仕打ち。しかし11歳と8歳の姉妹はなすすべもなく、ただ嘆くしかありませんでした。

父の恨みを晴らすと決心。修行によって鍛え抜かれてゆく姉妹

幼心に刻み付けられた父の非業の最期。
もともと病床にあった母親はその話を聞くと、後を追うように亡くなってしまいます。
こうして仇討ちの決心を固めた姉妹。苦しく辛い励みの日々が始まりました。

両親を殺された恨みを果たそうと決めたところで、相手は武士。対するこちらはか弱き乙女が2人だけ。
武術の武の字も知らない乙女の上達は遅い。
そこで姉妹は親のかたみの家を売り、江戸の剣術家・由井正雪(ゆいしょうせつ)を訪ねます。

はじめは相手にされなかった姉妹ですが、何度も願い出る熱心な姿に心打たれたのでしょうか。なんとか正雪の門下となることが叶い、姉妹は血のにじむような稽古に励みます。正雪は、3年間のあいだに仇討ちさせることを約束してくれました。

待ちにまった仇討ちの時!勝敗は…?

時は2月。舞台は白鳥神社の境内。
姉妹念願の仇討ちの日がついにやって来ました。
周囲は姉妹の仇討ち話を伝え聞いた群衆であふれかえっています。

「白石噺」、牧金之助 編、明治23年、国立国会図書館デジタルコレクションより

ドーンという太鼓の合図で立ち合いが始まります。
妹の信夫は長刀を手に、憎き相手田辺志摩を見据えます。続いて姉の宮城野が鎖鎌のふんどうを振って戦いました。鎖が団七の腕にからまった瞬間、信夫の長刀が男の両腕を切り落とします。
「父母の無念をはらしたまえ!」
たかが百姓の娘2人と油断したのか、孝心一途の姉妹の力量が勝ったのか、ついにその首をはねられ田辺志摩は倒れるのでした。

目的を果たした姉妹。その後は……?

かくして仇討ちをおえた姉妹。
親の仇、孝心からの行為だとしても農民の子が武士を手にかけた罪は重いものです。姉妹はその場で死のうと覚悟を決めます。
しかし、人々の姉妹を見守る暖かい眼に思いとどまり、髪をおろして出家し、亡くなるまで仏に仕えたのでした。

「白石噺」、牧金之助 編、明治23年、国立国会図書館デジタルコレクションより

姉妹に力を貸した由井正雪とその妻

両親の敵討ちのために、一流の剣術を習得したいと願った姉妹が訪ねたのが江戸の剣術家、由井正雪。

姉妹の身の上を聞き感心した正雪は、姉を宮城野、妹を信夫と名付けました。
そして表向きは女中見習いということで、姉には鎖鎌や手裏剣を、妹には長刀の稽古を朝と晩に行ったとされています。
さらに、正雪の妻も姉妹に協力。母親を亡くしている2人に女としてのたしなみを叩きこんだそうです。

そのおかげで姉妹はたったの3年で器量、立ち振る舞いともに門第一となります。
正雪とその妻の力添えがなければ、姉妹の仇討ちは叶わなかったでしょう。

姉妹の仇討ち話は史実だった!?

若くて美しい姉妹の孝心、血のにじむような稽古の日々の果ての仇討ちというドラマチックな展開で魅力の『宮城野・信夫姉妹の仇討ち』。それだけでも、芝居の題材には十分ですが、実は、2人の百姓娘の仇討ちは史実だと伝えられています。

一説によると寛永17(1640)年、春まだ浅い2月、白石川六本松河原が仇討ちの場所になったと言います。
仇討ちの舞台には片倉家の侍が約150人ほど集まり、見物客は1000人にを超えたとか。
宮城野と信夫姉妹と戦った田辺志摩は2尺5寸の大刀を帯び、華やかな出で立ちで登場したとも伝えられています。

宮城県の大鷹沢三沢には、姉妹をまつった孝子堂があり、仇討ちが行われたと伝えられる白石川の河川敷には石碑が建てられています。
宮城野と信夫の姉妹の父・与太郎が斬られたとされる八枚田もしっかり残されていて、勇敢に立ち向かった姉妹物語の跡を辿ることができます。

か弱き乙女が勇ましい剣術家になるまで。宮城野と信夫姉妹の魅力

『宮城野・信夫姉妹の仇討ち』が史実かどうかを確認する術はありませんが、もし本当だとしたら、当時としてはきわめて重大な事件だったに違いありません。
当時の身分制度に不満を抱えていた民衆にとっては、痛快な話題だったことでしょう。

実否はさておき、民衆の口から口へと伝えられ、今日まで語り継がれている勇ましくも美しい姉妹の仇討ち物語。
萩にもたとえられよう美しい孝行の心を持った宮城野と信夫姉妹は、心根が美しだけでなく、タフな根性と行動力の持主だったのかもしれません。

書いた人

文筆家。12歳で海外へ単身バレエ留学。University of Otagoで哲学を学び、帰国。筑波大学人文学類卒。在学中からライターをはじめ、アートや本についてのコラムを執筆する。舞踊や演劇などすべての視覚的表現を愛し、古今東西の枯れた「物語」を集める古書蒐集家でもある。古本を漁り、劇場へ行き、その間に原稿を書く。古いものばかり追いかけているせいでいつも世間から取り残されている。