忍者と聞くと、どんな様子を思い浮かべますか?
優れた体術、巧みな戦術、華麗な変装……色々とありますが、そのひとつに諜報活動があげられます。
時は幕末。開国に揺れる日本で、最後の隠密活動をした忍者として知られるのが伊賀国(現在の三重県西部)の沢村保祐(やすすけ。通称、甚三郎)です。彼の活動とはどのような内容だったのでしょうか。
時代で変わる忍者の役割
戦国時代、夜襲や放火などを行なっていた伊賀の忍びも、平和な江戸時代になるとその役割が変化。「伊賀者」と呼ばれ、国内の情報収集や、護衛なども担うようになります。
他にも、無足人として各村の自治を任される者もいました。無足人は禄はあまりありませんが名字帯刀を許され武士に準じて一般の農民とは区別されていたようで、甚三郎もその一人でした。
隠密活動のきっかけは、ペリー来航
彼が忍者としての活動することとなったきっかけは1853(嘉永6)年の浦賀(現在の神奈川県横須賀市)沖へのペリー来航です。武家諸法度により500石積より上の軍船が厳しく禁じられていた日本において、船体が黒く塗られたアメリカの大きな軍艦は、当時の人々に相当な驚きをもたらしたことでしょう。
アメリカは日本との通商を行うため、江戸幕府に開国を強く迫りましたが、その対応に幕府は戸惑います。そこで、とりあえず親書を受け取り、引き返してもらうことにしました。ペリーは「来年また来る」と告げ、いったん日本を引き上げます。
当時の老中首座は阿部正弘。開国するか否か、外様大名や旗本、庶民に至るまで意見を求めました。世間では「泰平の ねむりをさます 上喜撰(じょうきせん) たった四杯で 夜もねられず」(上喜撰という上質の茶を飲むと夜眠れなくなるように、4隻の蒸気船により安らかな眠りが妨げられ、不安で仕方がないという意味)という狂歌が流行したことからも、その困りようが窺えます。
とにかく相手の情報が欲しい。そんな時に白羽の矢を立てられたのが甚三郎です。代々狼煙(のろし)役の家柄だった甚三郎に、藩主の藤堂高猷(たかゆき)から、潜入調査を行うよう命がくだります。
無事に潜入!その結果は?
甚三郎はペリーの艦隊に潜入、乗組員からパン2個、煙草2葉、蝋燭2本、紙片2枚を入手し、高猷に報告します。
オランダ語で書かれた紙片には
1.「イギリス女はベッドが上手、フランス女は料理が上手、オランダ女は家事が上手」という言葉、
2.「音のしない川は水深がある」ということわざ
と書かれていました。
当時オランダ語が読める人は限られており、手に入れた紙片が重要なものかどうか、甚三郎にはすぐに判断がつかなったことでしょう。翻訳してもらって初めて、「えっ……」と戸惑う甚三郎の様子が目に浮かぶようです。
ところで、甚三郎はどうやって潜入したのでしょうか。日米和親条約締結のため1854(嘉永7)年にペリー艦隊が来航の際、日本側の60人が艦内に招待されました。その中に甚三郎がいたのではないかという説があります。しかし、甚三郎が入手したとされる紙片には「1856」の透かしがあり、ペリーではなくハリスに関わるものかもしれないという説もあるようです。
普段は無足人として生活していた甚三郎。突然諜報活動を命じられ、情報を掴んで帰ったと思ったのにまさかの結果。最後の忍びの諜報活動はこうして幕を閉じたのでした。
【参考】
『全国版幕末維新人物事典』 歴史群像編集部編集 学習研究社
『少年少女 日本の歴史 第16巻 幕末の風雲(江戸時代末期)』監修:児玉幸多 漫画:あおむら純 小学館
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