箱根は今も昔の人気の国内旅行先である。首都圏に住む人々にとっては、最も手軽な保養地だ。
その箱根の観光開発が急速に進んだのは、1950年代のこと。
だがその開発とは、決して平和なものではなかった。当時の日本経済の頂点に君臨していた巨大グループが、まるで喧嘩独楽のようにぶつかり合ったのだ。
西武グループの堤康次郎と東京急行電鉄(東急)の五島慶太。昭和中期を代表する大資本家が、箱根山でまさに戦争を勃発させた。
観光バスがデッドヒート!
1950年代の日本は、現代人が想像する以上に明るい時代だったかもしれない。
太平洋戦争の記憶がまだ生々しく残るとはいえ、もう徴兵や空襲に怯えなくても済むようになった。中国や南方からの旧日本兵の復員もほぼ終わり、それに伴うベビーブームも到来した。
藤山一郎と奈良光枝が歌った『青い山脈』は、1949年発表の曲である。YouTube等で検索して聞いてみれば分かるが、終戦から4年しか経っていないにもかかわらず非常に明るい曲調だ。
少しずつではあるが戦後復興が進み、国民の気持ちも上向きになってくる。この時代は、高度経済成長期につながる良性インフレーションの始まりでもあったのだ。
箱根山には、東京から行楽の客が大勢集まるようになった。国鉄小田原駅前では拡声器の大音量が響き渡る。
「箱根にお越しのお客様は黄色のバスへ!」
何しろ最大音量での声だから、旅行客からすれば音割れして何を言っているのか聞き取ることができない。かと思えば、
「お客様は緑色のバスにご乗車ください!」
という大絶叫も飛び込んでくるではないか。一体どうなっているのか?黄色のバスと緑色のバス。前者は小田急の箱根登山鉄道、後者は西武の駿豆鉄道だ。もはやこの拡声器合戦は公害に近い状態で、小田原駅長が何度も注意勧告をしているほどだった。
しかもこの両者のバスは、カーブの続く箱根の車道で文字通りデッドヒートを繰り広げることでも知られていた。バスの運転手が熟練した手つきでシフトレバーを切り替え、絶妙のタイミングでクラッチペダルを戻すと同時にアクセルを踏み込む。乗客の悲鳴を背中に受けながらハンドルを急回転させ、トルクを頼りに傾斜の利いたコーナリングを攻めていく——。
断っておくが、これはモーターレースの記事ではない。あくまでも駿豆鉄道と箱根登山鉄道という、ふたつの鉄道会社が保有する観光バスの話である。
「強盗慶太」の暗躍
箱根山戦争の始まりは1947年、駿豆鉄道運行のバスが小田原駅に沿線してきた出来事だ。駿豆鉄道は西武傘下である。
それに猛反発したのが、当時東急傘下だった箱根登山鉄道。理由はその路線が自社と重なってしまうから、要はライバルができるからである。
間もなく箱根登山鉄道は東急から小田急の傘下になったが、これが「西武VS東急・小田急」の構図を決定的なものにした。箱根登山鉄道は先述の小田原駅乗り入れの反撃とばかりに、
「駿豆鉄道の専用道路をウチでも使わせろ」
と、運輸省に主張したのだ。専用道路とは即ち私道だから、当然この主張は退けられる……と思うだろう。しかし「強盗慶太」の悪名高い東急のボス五島慶太は、戦時中に東条英機内閣の運輸通信大臣を務めた男である。そもそもが元官僚で、運輸省にも顔が利いた。運輸省から東急への天下りも多かった。
その働きかけが奏功し、駿豆鉄道の専用道路に箱根登山鉄道のバスが乗り入れることになる。
芦ノ湖畔の戦い
両陣営の戦いは、陸だけでなく湖でも展開された。
芦ノ湖の遊覧船競争である。
もともと芦ノ湖の元箱根港には西武側が、箱根町港には小田急・東急側が拠点を置いていた。しかし当時は箱根町の観光整備が未発達で、そのため旅行客は元箱根港に集中した。即ち西武側のひとり勝ちである……と書きたいところであるが、なかなかそうはいかない。ここでも強盗慶太が動いた。西武側が所有する遊覧船桟橋の60m隣に、自分たちの桟橋を新設すると言い出したのだ。
バスならばまだいい。これは船である。すぐに方向転換できないから、桟橋というものは感覚を空けていなければ危険だ。この事業計画はさすがに修正を余儀なくされたが、それでも「100mの間隔であれば」という条件付きで関東運輸局に許可された。いや、許可される一歩手前だった。
小田急・東急側は夏の観光シーズンを見越して、許可が降りる前に桟橋を建造してしまったのだ。もちろん、これは違法行為である。西武側はおろか神奈川県もこれを問題視し、最終的に行政代執行が入り小田急・東急側の桟橋は撤去された。
西武のボス「ピストル堤」
ここまで記事を読むと、まるで小田急と東急が悪者のように感じてしまうかもしれない。
しかし西武グループの創業者である堤康次郎も、強盗慶太に負けず劣らずの買収屋だった。
「ピストル堤」の渾名で呼ばれたこの人物は、土地買収とその開発で巨万の富を成した。箱根、軽井沢、伊豆、そして西東京。これらの地域の宅地開発は、堤が先行して行ったからこそ現在の姿がある。
一般国民扱いになった旧皇族所有の不動産を買いまくったのも堤だ。皇族でなくなったということは、資産に対する税金が発生するということである。それに追われていた旧皇族に堤は手を差し伸べた形だが、もちろん慈善事業というわけではない。これらの不動産は漏れなく商業施設に生まれ変わった。
あらゆる機会を生かして将来有望な地域の土地を買い占める堤と、霞が関とのつながりをフル活用して強引に攻めかかる五島。この両者が激突することは時代の必然でもあった。
一方で、箱根山の観光インフラはまさに日進月歩の勢いで整備されていく。
西武側が保有する自動車道(これは有料道路だった)に対抗するべく、小田急が取った手段はロープウェイ建設だった。バスよりも有効な旅客輸送手段を新設してしまおう、ということだ。これが箱根ロープウェイの始まりである。また、西武側の自動車道についても行政のメスが入る。これは神奈川県が買収し、県道にするという案が浮上したのだ。西武社内では当然ながら反対論が巻き起こったが、当時の神奈川県知事内山岩太郎を高く評価する堤は、この案を快諾した。
こうして箱根山戦争は終息に向かうが、高度な観光インフラが施された箱根はその後も大勢の旅客を受け入れ続けることになる。