〽貧しさに負けた いえ世間に負けた
この街も追われた いっそきれいに死のうか
(さくらと一郎『昭和枯れすゝき』)
1975(昭和50)年。サイゴン陥落によりベトナム戦争終結し世界情勢は次のステージへと歩み出す一方で、日本国内ではあちこちで爆弾が爆発する政治の季節が続いていた。1973(昭和48)年のオイルショックを機に高度成長期は終わりを告げ、70年安保の敗北とシンクロする沈滞のムードに人々は身を委ねてした。
再びやってきた不安にまみれた明日なき日々を忘れるかのように哀愁漂う歌がちまたには流れていた。
そんな時代、あるマンガ作品が痛烈な批判を浴びていた。
「予想以上に平凡」
「マンガ作品としてダメ」
「文章表現も下劣」
作家・大江健三郎(おおえけんざぶろう)のような熱い支持者がいる一方で、このような罵声にも近い批判の集中砲火を浴び「マンガなんて」と顔をしかめられた作品。
それが中沢啓治(なかざわけいじ)の代表作『はだしのゲン』であった。
平和マンガ? グロマンガ? とにかく嫌なのに好き
今では『はだしのゲン』は原爆や戦争への怒りと憎しみが叩きつけられた「平和学習マンガ」の代表格であり、多くの人が一度は読んだことのあるロングセラー。初めて読んだ時にはあまりに凄惨な原爆の描写に恐怖を抱き、夜眠れなくなった体験を持つ人も多いだろう。
しかし、単に恐怖するだけではない。ページを開くのも恐ろしい描写の合間にはユーモアたっぷりに力強く生き抜く主人公・中岡元(なかおかげん)たちの姿が描かれる。
そうした人間ドラマがあるために、読者は単に戦争や原爆への恐怖を超えて作品への親しみを抱いたのだ。
その結果、今や『はだしのゲン』は単なる平和を訴えるだけのマンガではない。時折、SNSに登場するパロディやコラージュ……作品を知っていることを前提にしたネタ投稿は、いかにこの作品が多くの人に親しまれているかを示している。
今は更新がストップしてしまったが、ネット黎明期から存在した『はだしのゲン』公式サイトは、知らない人が見たら作品をおちょくっているようにしか見えない。でも、実は作品の中に散りばめられた独特のユーモアやギャグを理解した上で熱心な読者でなければできないサイトだ。
こんな愛あるサイトがつくられることからも、わかる。『はだしのゲン』は「反戦平和」なんて短絡な言葉では表現しきれない作品であること。そして多くの人が思想に関係なく作品を愛しているのだ。
当初はまったく売れなかった『はだしのゲン』
しかし、冒頭で記したように最初はまったくそうではなかった。1975(昭和50)年5月『週刊少年ジャンプ』に連載された原稿をもとに汐文社から出版された全4巻の単行本はまったくといってよいほど売れなかったのだ。
「単行本になった当初は、まったく売れなかったんです……」。
そんな当時の状況を教えてくれるのは『はだしのゲン』が単行本化された際に、草の根で広がった普及運動に参加した西河内靖泰(にしごうちやすひろ)だ。現在、滋賀県の多賀町立図書館の館長や日本図書館協会図書館の自由委員会委員長を務める西河内は、当時のことを振り返る。
ここで『はだしのゲン』の連載誌の変遷について説明しておこう。今、もっとも普及しているのは汐文社の全10巻の単行本。
このうち、4巻までが『週刊少年ジャンプ』の連載部分。それ以降は掲載誌が何度か変遷している。
・『週刊少年ジャンプ』(集英社) 1973年第25号〜1974年第39号
・『市民』(オピニオン誌) 1975年9月号〜1976年8月号
・『文化評論』(日本共産党の論壇誌) 1977年7月号〜1980年3月号
・『教育評論』(日教組の機関紙) 1982年4月号〜1987年2月号
単行本4巻までの部分が『週刊少年ジャンプ』で1年以上も連載が続いたのは、1970(昭和45)年前後の時代状況で社会性のあるテーマが子どもたちにウケたことがある。今では考えられないが1971(昭和46)年の『週刊少年ジャンプ』ではグラビアページで当時熱かった成田闘争を取材し、少年行動隊に多くのページを割いている。
時の政府やその背後に控えるアメリカに批判的な記事や作品を載せることは出版社にとってはリスクもあるが商機でもあるというのが、当時の時代状況であった。
「俗悪誌」だからこそできた連載
『はだしのゲン』に先だって中沢は1970(昭和45)年に沖縄の基地問題をテーマにした『オキナワ』を連載しているが、この時も輪転機が回る寸前に待ったがかかったことがあると証言している。商機と作者と編集者の情熱と微妙なさじ加減。そうした環境の中で『はだしのゲン』は生まれた。
連載当時の中沢は次のように証言している。
特に俗悪誌だというところを狙ったんです。というのは、俗悪と言われているものの中で何気なくこれは面白い漫画ですよと子どもに読んで貰う。読んで何か一つでも原爆について関心を持って貰えばね、例えば「ピカ」という言葉が原爆だという事を子どもたちが知ったら、そういう事でもいいんです
(『子どもの文化』1976年4月号)
1968(昭和43)年に創刊された『週刊少年ジャンプ』は、競合誌に比べて「俗悪誌」として批判の矢面に立たされることの多い雑誌であった。1970(昭和45)年には永井豪(ながいごう)の『ハレンチ学園』がやり玉に挙げられたのを皮切りに、同誌は殊更に親が子どもに読ませたくないマンガ雑誌と見られていた。でも、そんな雑誌だったからこそ全力を注いで描くことができたのである。
ただ、連載終了後に作品はそのまま忘れ去られてしまいそうになった。当時はマンガが雑誌連載の後に単行本化されるというビジネスモデルが確立されていない時代である。加えて時の政府にも批判的な『はだしのゲン』はなかなか単行本化は困難な作品であった。
「マンガなんて」と蔑まれた中で
西河内が『はだしのゲン』に出合ったのは連載終了翌年の1975(昭和50)年2月のことだった。
「東京の被爆教師の会と被爆二世の会で、石子さんと中沢さんを呼んでシンポジウムを開催したのです。この時に、中沢さんは原画をすべて持って来て“これは、もう出版してもらえないかもしれない”と話していました」。
この時、作品を埋もれさせてはいけないと汐文社に企画を持ち込んだのが評論家の石子順(いしこじゅん)である。1960年代からマンガを評論のテーマとして取り上げていた先駆的な業績のある石子は政治的には日本共産党系文化人であった。その関係で当時は日本共産党系の出版社であった汐文社に話を持ちかけたのである(同社は2013年に買収され現在はKADOKAWAグループの出版社に移行している)。
西河内の回想によれば、企画を持ち込まれた汐文社は容易に単行本にすることを決断しなかったようだ。このシンポジウムでは石子も登壇しているのだが「もっと、皆さんが普及してくれるというのならば、汐文社の感触もよくなるだろう。小さな出版社なので売れるなら出してくれる」と発言したという。
こうして1975(昭和50)年5月に単行本は出版されたものの、まったく売れなかった。大きな理由は、この記事の冒頭に記したようにマンガに対する拒否反応が現代では信じられないくらいに強かったことがあげられる。この年の「赤旗まつり(毎年秋に開催されている日本共産党の催し)」では被爆者団体の呼びかけで中沢のサイン会も開かれた、それでも僅かなファンが来る程度だったという。
前述のように後に『はだしのゲン』は日本共産党の論壇誌『文化評論』にも連載している。ところが、単行本が出版された当時には事情がまったく違った。「反戦平和」を描き政府批判も含む『はだしのゲン』は、日本共産党や周辺に身をおく左派系の人々が歓迎する作品のように見える。
ところが、そうはならなかった。
それは『はだしのゲン』が「マンガだったから」である。
日本共産党の書記長だった宮本顕治(みやもとけんじ)は作家・宮本百合子(みやもとゆりこ)を妻とし、自身も文芸評論を多く書いた人物。文学に造詣が深い一方でおおよそ新興の大衆文化……テレビやマンガを資本主義的な堕落として捉えて忌避する風潮が党内には強かった。
むしろ、マンガを高く評価する石子のような人物のほうが党内にはまれで、マンガを「俗悪」と見る風潮は、正反対の側にある時の政府やPTAのよりも強かったのである。
支配階級の番人である政府、裁判所ばかりではない。現在の秩序に反対する“左翼”の側も、また同断である。およそ、性に関する文章芸術を、日本の革命“党”“派”は、エログロナンセンスとしか、理解することができないのである。
(竹中労『ニッポン春歌行』 現代ジャーナリズム出版会 1971年)
時折、主人公が「たんたんタヌキのキンタマは〜」なんて俗謡を歌ったり、なにかと下品で乱暴な表現の多い『はだしのゲン』は、普段の出版社の客層にはまったく売れず、在庫が積み上がっていった。
テレビを紹介してくれたのは自民党の国会議員だった
それでも草の根で普及運動は盛んに行われていた。今では後半の掲載誌の読者層に即した表現から「左翼マンガ」とみられる『はだしのゲン』。ところが、当時の普及運動に参加したのは反共・保守・右派の思想を持つ人々が多かったと西河内はいう。
やがて、その運動が成果を挙げるときが来た。当時のフジテレビ系昼のワイドショー『3時のあなた』で取り上げられたのである。途端に、汐文社には本の注文が殺到し瞬く間にベストセラーになったのである。
なぜ昼のワイドショーが『はだしのゲン』を取り上げたのか。その理由は判然としない。西河内が覚えているのは「当時の自民党の国会議員が作品に感銘を受けてフジテレビに働きかけた」ということ。いったい、誰がその役目を引き受けたのか。今までの取材を総合すると、どうも複数の国会議員の呼びかけがあったようだ。
「ここまで『はだしのゲン』が普及したのは、作品のファンがいたからです。多くの人になんとか伝えたいと思った人たちが思想の違いを気にせず頑張った成果といえるでしょう」。
なぜか無視される石子と草の根運動の存在
この『はだしのゲン』が現在でも親しまれる作品として残るに至った歴史は、ほとんど顧みられることはない。作品に感銘を受けて出版社に持ち込んだ石子の功績や草の根で作品の普及に情熱を燃やした人たちの姿はほぼ、忘れ去れている。とりわけ石子は単行本が出版された年の文章に「出版社に企画を提案したぼく」と書いている(『子どもの文化』1975年10月号)のだが、これも無視されている。
中沢啓治の『はだしのゲン わたしの遺書』(朝日学生新聞社 2012年)では、改めて石子が紹介してくれたことを記している。一方で研究書である吉村和真・福間良明『「はだしのゲン」がいた風景』(梓出版 2006年)や大村克巳『「はだしのゲン」創作の真実』(2013年 中央公論新社)では、連載終了後に原爆の取材に訪れた朝日新聞記者だった横田喬が紹介したとしている(前者では僅かに石子についても言及している)。
さらに汐文社の公式サイトでは、当時の担当編集者・堀尾眞誠が『子どもの本棚 中沢啓治追悼特集』(一般社団法人 日本子どもの本研究会 2012年)に寄せた堀尾が中沢に直接「『はだしのゲン』を出して」といわれたという文章を掲載している。
このまま真実は忘れられてしまうのか
果たして真実はどこにあるのだろうか。
そして石子や草の根運動の功績が顧みられない理由はなんなのだろうか。
西河内はいう。
「単行本化の経緯を語るときの企画を持ち込んだ石子さんや草の根運動の役割に言及すると、物語が複雑になるからあえて無視されてきたのではないでしょうか。中沢さんも『はだしのゲン わたしの遺書』までは石子さんのことはあまり触れていません。私が最初に『はだしのゲン』に出会ったシンポジウムも若者は民青ばかりで、エピソードは多いんですけどね」。
思想を同じくする評論家から出版社への持ちかけで作品が日の目を見た……では、あまり感動の物語とはならない。結果「なかったことにされてしまった」という見方もあながち間違いではない。
それを取材する手段は、ほとんどない。横田喬は既に鬼籍に入っていると聞いた。堀尾眞誠はどうかと『子どもの本棚』の編集部に問い合わせたものの、当時の編集者がすでにおらず連絡先はわからなかった。
汐文社はといえば、たまたま電話に出たのがボクが一時期追っていたあるテーマで書いた記事に、政治的な立場の違いから批判的な人だったようで、まだ要件を話してないのに名乗っただけで「あなた、私たちの仲間にも評判悪いですよ! 」と、怒鳴られ理不尽な言葉を吐かれて終わった。
石子順はまだ存命のはずだと思い、自宅宛に手紙を書いたが、いまだに返事は来ていない。
別にこのテーマだけではない。これから、このサイトで書くこともあるだろうが今まで追いかけたテーマ、そして今も追いかけているテーマで人を訪ね歩いてもなお確信の持てる事実に出合うことができないこともある。
たいてい人の記憶は都合よく変わりやすく、忘却もしがちなものだ。でも、実はどんなに食い違っても「それはすべて真実」なのだと思っている。だから、なぜその人はそう考えるに至ったのか、個人の歩んだ人生を聞かなくては理由はわからない。
多くは徒労、たまに喜び。だいたい、ルポルタージュとかノンフィクションといわれるものは、そうして書かれていくのだと思う。