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Gourmet
2020.07.08

みんなの笑顔のために。被災地を支援し続けたPasco敷島製パンの100年の歴史

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パンをこねていると不思議と心が和らぎます。オーブンに入れたパンの焼ける香ばしい匂いには、誰もがワクワクします。新型コロナウィルスの影響で、STAY HOMEとなった時には、「小麦粉がスーパーから消える!」という現象が起こったほど、多くの人がパン作りに熱中しました。食べる楽しみだけでなく、作る楽しみも私たちの生活を潤してくれたのです。それにしても、いつからパンが、これほどまでに私たちの生活に欠かせないものとなったのでしょう。

思い返せば、給食の思い出もご飯ではなくパンでした。コッペパンに揚げパン、待ちに待った給食で食べたほんのり甘いパンの味。それは昭和生まれの世代にとって忘れられない味の記憶でもあります。

パンの製造をスタートしたのは、食糧難から人々の食生活を支えるためだった

一般大衆に向けて、パンの生産が広がったのは戦後の食糧難がきっかけです。大正3年(1914年)7月28日に勃発した第一次世界大戦により、農業人口が減り、都市での工業労働者が増え、軍需景気の高まりで一気に物価、中でも米が高騰していきました。一般庶民に米が手に入らない状況となり、大正7年(1918年)には富山県の主婦たちが、米の高騰を阻止しようと立ち上がります。その運動が全国に広がり、米商人や精米会社が襲撃されるなど「米騒動」と呼ばれる事件が起きました。そんな中、人々が安心して食べられるパンを作れないかと一念発起した日本人がいました。敷島製パンの創業者・盛田善平(もりたぜんぺい)です。

彼は、一連の米騒動を悲しみ、「パンは米の代用食になりうる」と考え、人々を苦しみから救うため、パンの製造を決意したのです。今年、敷島製パンは創業100周年を迎えました。今では当たり前に食卓に並ぶパンですが、当時はまだ技術もなく、パン作りに必要なイースト菌もあまり普及していない時代。盛田氏は、貧困と飢えで苦しむ人々を助けたい一心で創業したと言います。

戦争の悲劇から生まれた奇跡。日本に伝えられたドイツの技術

いつの時代も、戦争はいくつもの悲劇を生みます。しかし、その悲劇の中にも一粒の希望があります。今、いつでも美味しいパンが食べられるのは、この戦争が引き起こした奇跡からだと言えます。盛田氏が名古屋の俘虜(ふりょ)収容所にいたドイツ人との出会いがまさにその奇跡でした。
※俘虜=捕虜

第一次世界大戦では、日本は日英同盟を結んでいたため、ドイツは敵国であり、拠点であった中国・青島を攻撃します。優勢を誇っていた日本軍は、中国・青島から4700人を超えるドイツ人俘虜を連れて帰ります。そして全国各地の収容所に送りました。しかし俘虜ではありましたが、彼らに強制労働をさせることは国際条約で禁じられていたため、日本に抑留される間、彼らは自分たちの技術を日本人に伝えることを仕事とします。この時の技術指導者の中に、日本で初めてバームクーヘンを焼いた菓子職人・カール・ユーハイムや甲子園で初めてホットドックを販売したヘルマン・ヴォルシュケなどもいました。

日本人とドイツ人の俘虜兵が生んだパンが日本を元気にした開発ストーリー

名古屋でも、この俘虜収容所にいたドイツ人俘虜たちが、自分たちの技術を地元の会社に教えるようになり、盛田氏はその中の一人、ハインリッヒ・フロインドリーブというパン技師と出会います。そして終戦を迎えますが、彼は日本に残ることを決意し、盛田氏はフロインドリーブを技師長として会社に招きました。彼もその期待に報いるべく、敷島製パンの本社裏の社宅に住み、工場の建設からパンの焼き方まで指導していきます。その頃、丸十製パンの田辺玄平氏がドライイースト(別名:玄平種)を発明したこともあり、これを使ってふっくらした美味しいパンが焼けるようになっていきました。こういった好条件が重なり、名古屋ではいち早く、パンを製造できる体制が整ったのです。

「新修名古屋市史」によれば、当時、名古屋には、帰国を選ばず、戦後も日本に残る選択をしたドイツ人が20人ほどいたそうです。ドイツ人俘虜たちと名古屋市民の交流も盛んで、後に名古屋市長にプロシア赤十字勲章が贈られています。戦争の歴史や厳しい体制下でも友情を育んだ人々がいたことに心が救われます。

日本のパン製造の技術を向上し、商品を安定供給していくために開発を続ける

昭和25年(1950年)第二次世界大戦終戦後、アメリカからの小麦配給で、学校給食にパンが導入されるようになります。8大都市の小学生児童対象の完全給食が行われ、コッペパンを提供。その後、全国すべての小学校を対象に完全給食が始まります。敷島製パンの広報室の加藤祐子さんによれば、敷島製パンがいち早く大量生産の体制を作れたのは、盛田氏の研究所設立がきっかけだそうです。

「創業した頃、多くの食品は職人の経験や勘に頼って作られており、パンや菓子も例外ではありませんでした。メーカーやお店はパン専門、菓子専門のように分かれ、職人の技術は、徒弟制度により受け継がれていました。また、商品を大量に安定して、毎日つくり続けることも困難な時代で、盛田は『パンのつくり方を科学的に研究し、客観的な数値のもとで製造するべきだ』と考え、大正13年(1924年)、本社に研究室を設置します。ここでの科学的な研究によって、製パン技術は進歩し、品質やおいしさも向上していきました。こうして、新鮮なパンを毎日、安定して供給できるようになったのです」と加藤さん。

ところが、大量生産、安定供給ができるようになったにも関わらず、当時は一般的な小売りという販売方法が確立されていませんでした。そのため敷島製パンは販路拡大にも苦心したそうです。パンの製造の歴史、発展は、そのまま日本の戦後復興の歴史と重なっていきます。

大正10年(1921年)シキシマパン中央宣伝部 (直売店)をオーブン。看板は、赤地に白い文字のカタカナで「シキシマパン」と書き、街を歩く人々に新鮮な印象を与え、連日行列ができ、早い時間に売り切れになる日もありました。

大正11年(1922年)1月 第二宣伝部(のちの東新町宣伝部)を開店。赤いたすき掛けにトルコ帽という珍しいユニフォーム姿でが注目を集めました。

大正11年(1922年)5月 第三宣伝部(のちの上前津宣伝部)を開店。人々が集まれる場所として、隣には喫茶店も開きました。おいしいトーストとコーヒーが評判となり、さらにアメリカから輸入した、当時まだ一般に普及していなかったコカ・コーラを提供して話題を呼びます。その後、喫茶店は「シキシマホール」という洋食も食べられるお店へと進化していきました。
 
大正14年(1925年) 栄町宣伝部を開店。象2頭と宣伝隊が広小路を練り歩きます。象の背中には「開店大売出 シキシマパン」と書かれた行灯が飾られ、それを見た多くの人がパンを買いに宣伝部に押し寄せました。

日本を襲う度重なる災害時、パンが人々の命を救う

日本には毎年、数多くの自然災害が起こります。こういった突然の災害時に私たちの命をつなぐ食料として重宝するのがパンです。敷島製パンが創業してからの100年の間にも何度も大きな自然災害に見舞われました。

「創業からわずか3年後の大正12年(1923年)、関東大震災が起こります。当時、敷島製パンは関東地方には進出していませんでしたが、地震の知らせを聞くやいなや、工場をフル稼働。食パンとコッペパンを救援物資としてお届けし、被災地を支援しました」と加藤さん。

次に、敷島製パンの被災地支援に対する意識をいっそう高めたのが伊勢湾台風だったと言います。

「昭和34年(1959年)に起きた伊勢湾台風は、敷島製パンのある東海地方を直撃した大型台風でした。幸いにも本社工場と岐阜工場、豊橋工場に大きな被害がなかったので、ただちに工場を動かして、支援のためのパン作りを始めました。その数は100万食以上にも及び、70台のトラックで各地に輸送。水没して孤立した地域には、いかだでパンを運び、被災した特約店にはお見舞金をお届けしました」

それ以降も、平成7年(1995年)に近畿地方を襲った阪神・淡路大震災では、神戸冷食プラントと大阪豊中工場が被災し、製造がストップしているにも関わらず、地震後の7日間、毎日菓子パン3万個を大阪昭和工場から自衛隊の大型ヘリコプターで被災地に届けます。その後も3ヶ月間、パンや弁当で3万4千世帯分を支援。

そして、平成23年(2011年)東日本大震災では、パスコ利根工場とパスコ埼玉工場が被災し、その他の工場も大規模な計画停電などで一部操業停止。原材料の仕入れが難しくなり、一部の商品は製造できない状況となる中、それでも被災地に届けるパンを作り続けました。

いつの時代にも困難とそれを乗り越える力が与えられる

長い歴史の中、日本は何度もの悲劇や災害に見舞われてきました。時にそれは自分たちを見失ってしまうほどの苦しみを与えるものです。しかし、小さな一口のパンが心を支え、人々を明日に向かうエネルギーへと変えてくれることがあります。

敷島製パンが創業した100年前、現代と同じような社会環境がありました。創業2年前の第一次世界大戦の最中には、スペイン風邪が発生し、世界的なパンデミックが起こります。大正8年(1919年)の春の第3波の感染では、日本もその被害から免れることができず、45万人の方が死亡したと伝えられています。

「アンパンマン」の作者、やなせたかしがアンパンをヒーローとして描いたのは、飢えに苦しんだ自身の戦争体験が元となっているからだと言われています。戦争は多くの人々を貧困と飢えへの恐怖に陥れ、食べられない苦しみは人々から笑顔を奪います。

「人のために」がパン作りの原動力だと語った盛田善平の想いもそこにありました。今は新型コロナウィルスで、全世界が非常事態に陥っている中、不安や恐れから、ややもすると他人を思いやる心を忘れがちです。大変な時こそ、支えあい、国を超えた友情で人々を笑顔に変えることができる。そんな思いをパン作りの開発ストーリーに垣間見たような気がしています。

Pasco敷島製パン 公式サイト
現在、700種類にも及ぶパンを製造販売している敷島製パンでは、2030年までに社内の国産小麦の使用比率20%を目指しています。焼成後冷凍パンにより、人手不足への対応、フードロス削減に貢献。さらには、海外へメイドインジャパンのパンをお届けする取り組みなどを展開していきます。