未知との遭遇。知らない言葉との出合いにはとても興味をそそられる。頭の中は?マークでいっぱいになり、ワクワク感が止まらない。B型射手座の性分なのか、ライターのさがなのか、追求したくてたまらなくなる。食べ物ならばなおのこと。
今回のお題は「ぶんたこ」。知的好奇心を道連れに、「ぶんたこ」求めてLet’s go!
なぞの食べ物「ぶんたこ」の正体を探る
Facebookで「ぶんたこ」を知る
それはFacebookの友達の投稿で始まった。その友達とは「たねのしずく研究所」代表の山田泰珠(やまだ たいじゅ)さん。山田さんは故郷である岐阜県揖斐川町に拠点を置き、同町春日地区で収穫した在来茶(もともとその土地に自生していた茶の木)の実をはじめ、日本各地の無農薬栽培の休耕茶園の実から搾油した茶実油(ティーシードオイル)やその関連商品などを販売している。
さて、そんな山田さんが名古屋にいる親しい友人への手土産として紹介していた食べ物が「ぶんたこ」である。
ぶんたこ? なに、それ…私も長いこと岐阜県の西濃地方に住んでいるが、聞いたことがない。
しかも1年のうち、この時期にしか(投稿は3月下旬だった)作らないのだという。そこでさっそく山田さんに詳細を聞いてみた。すると山田さんのお母さん(揖斐川町出身で92歳)が昔、よく「ぶんたこ」という言葉を口にされていたそうで、山田さんはとても印象深いとのこと。本巣市の道の駅「織部の里もとす」では、ぶんたこと草餅を並べて販売しているらしい。
ちなみに織部とは、戦国時代末期の武将茶人で漫画「へうげもの」(「講談社」週刊モーニングで連載されていた)の主人公・古田織部のことだ。本巣市は織部の生誕地とされている。はたして織部もぶんたこを食べていたのだろうか…。
和菓子屋「餅松」で「ぶんたこ」に出合う
山田さんがいつもぶんたこを買いに行く店は、揖斐川町のお隣、池田町の和菓子屋「餅松(もちまつ)」。そこで、さっそく「餅松」を訪ねてみた。すると、表のガラス戸に「ぶんたこ」の貼り紙が!
喜び勇んで店内に入り、「ぶんたこありますか?」と聞くと、残念ながら今日はないという。いたみやすいので、基本的に受注生産だそう。
少量でもOKとのことだったので、注文して後日再訪。
そしてやっと巡り会えたぶんたこは
草餅(よもぎ餅)…いや、餅ではない。米粉を使ったよもぎ団子なのだという。
一般的には団子の原料はうるち米などの穀物を“粉”にしたもの、餅はもち米などの穀物を“粒”のまま蒸して作ると定義づけられているが、団子と餅の境界線は非常にあいまいだ。私の周りでは団子はうるち米、餅はもち米が原料と解釈している人が多く、あえて形状が粉なのか粒なのかを意識している人は少ないように思う。
「餅松」のおかみさんに製法を聞いたところ、まずヨモギを茹でてすりつぶす。米粉に湯を加え、練って蒸し上げたものの中にすりつぶしたヨモギをいれてよく混ぜ、その後木型に入れ、丸く平べったい形にしたものの真ん中にあんこを乗せて半分に折るとのことだった。
まったくの無添加・無着色・無香料のため、「できるだけ今日中に食べてね」と念を押され、帰宅後さっそくいただいた。春の野原を思わせるヨモギ独特の風味ととともに、昔のことを思い出した。そういえば子どもの頃、この時期にうちでもヨモギを摘んできて、よもぎ餅を作っていたなあと…あれも餅ではなく、団子だったのかもしれない。
Facebookでぶんたこリサーチ
いったいぶんたこという言葉はどのエリアで使われているのだろうか。とりあえず、Facebookでリサーチしてみた。
ぶんたこという言葉を知っている人は「いいね」押してねと呼び掛けてみたところ、13人から反応があった。個別に詳しい聞き取りをしたわけではないが、有力な情報を下さった方もあった。岐阜市内の老舗餅店では“よもぎ餅”といわずに今でもぶんたこというお店もあるそうだ。しかし、若い人は知らないだろうとのこと。山田さんからはさらに、揖斐郡大野町、八百津町、可児市という有力情報をいただいた。
ネットでぶんたこをググってみると、なんと「クックパッド」に「岐阜県川辺町の伝承料理 ☆農休みの料理☆ 全国農業新聞」として紹介されていた。ここでは米粉以外に片栗粉と白玉粉を使うとある。
加茂郡白川町の「白川菓匠 大黒屋」のHPには春の和菓子として「草餅 ぶんだこ」として紹介されていた。
また、土岐市にある石黒商事という会社の「くろちゃんだより」には、次のようにぶんたこのことが紹介されていた。
さて、3月は春の訪れを感じられる季節ですが、春を感じる和菓子の一つにヨモギを使った「草餅」があります。
この地方では、春先に新芽の出るヨモギを米粉に入れて蒸した「ぶんたこ」という草餅を食べていました。
残念ながら、今では「ぶんたこ?何それ?」という方が多くなってしまいましたが、「ヨモギの緑色、米の粉の歯切れのよいお餅」は、懐かしいおばあちゃんの味です。
「くろちゃんだより」を担当されている仙石さんに電話でお話を聞いたところ、かつての土岐市内には多くの「窯焼きさん(美濃焼の窯元)」があり、10時のおやつに姉さま(窯元の奥さん 土岐市では年上の女性のことを尊敬の念を込めてこのように呼ぶ)手作りのぶんたこを食べるのが楽しみだったという。
また愛知県一宮市にあるわらび餅で有名な「明や(あけや)」では、餅生地でずんだ餡(あん)を包んだ「枝豆ぶんたこ」という和菓子が5月半ば~8月いっぱい製造販売されているそうである。ずんだとは枝豆またはそら豆をつぶして作る餡のことだ。
ぶんたこいろいろ
それではここで、いくつかぶんたこの写真を紹介しよう。
ぶんたこの形も半月型のものや団子状のもの、あんこを入れた生地を裏でひねって留めたものなど、地域によって異なるのも興味深い。もしかして形にも意味があるのだろうか。
「ぶんたこ」のルーツを探る
ヨモギとぶんたこの関係
「明や」の枝豆ぶんたこの例もあるので、ぶんたこ=よもぎ餅(草餅)・よもぎ団子とはいえない。しかし、圧倒的にヨモギを使ったものが多い。ヨモギはキク科の多年草で、全国各地に広く自生している。民間では古くから血止めの薬として用いられ、食物繊維やビタミンKを多く含むため、便秘の解消やデトックスにも効果があるとされている。ヨモギの葉の裏側についている細かい毛はお灸の材料になる艾(もぐさ)である。
実はもともと草餅に使われていた草はハハコグサであった。ハハコグサは春∼初夏にかけて黄色い粟粒のようなかわいらしい花を咲かせる野草である。茎や葉は白い綿毛で覆われ、春の七草の一つ(御行 ごぎょう)として数えられている。それがいつのまにかヨモギに変わった。3月3日はひな祭り、桃の節句として親しまれているが、本来は上巳(じょうし)の節句と呼ばれ、強い生命力を持ち邪気を払うとされるヨモギ入りの草餅をひし形にしたものを食べるのが始まりだったという。
「蓮如さま」ゆかりのぶんたこ 各務原市の河野西入坊(かわのさいにゅうぼう)
それではいったい、ぶんたこはどこで生まれたのだろうか。
興味深い事実が「国立国会図書館」が運営するレファレンス共同データベースからわかった。提供元は岐阜県の「各務原市立中央図書館」である。
岐阜県各務原市詩下中屋町の河野西入坊の祭り「蓮如(れんにょ)さま」で、「ぶんたこ」といわれる草餅を食べるが、「ぶんたこ」という名前の由来を知りたい。
これに対する答えとして、
蓮如上人の好物であったと伝えられているよう。
とあり、「金沢市図書館」のレファレンス事例紹介に
『蓮如さん 門徒が語る蓮如伝承集成』(11826350)p.96
「村の山から取って来たモチグサで団子餅をこしらえ、小豆餡や黄粉でまぶした草団子をつくって蓮如さんをもてなしたところ、蓮如さんは大変喜ばれたという。これに因んで、二俣では蓮如忌には、各家々で草団子をつくって仏壇に供え(後略)」
『金沢市史 資料編14 民俗』p.293
「各家では蓮如さんダゴを作る。糯米粉に草入りのダゴ、小豆をまぶした丸型、黄粉の長丸型を作っていたが、現在は総て丸型である。」
『同上』p.302
「屑米粉に蓬を入れて搗いたダゴに小豆をまぶした「蓮如さんダゴ」を作った。」
とある。この「蓮如さんダゴ」がぶんたこなのだろうか?
とにかく河野西入坊に連絡し、4月24、25日に行われた「蓮如さま」に伺った。
6歳で母と生き別れ、4人の妻に先立たれ、苦難の果てに浄土真宗をV字回復させたスーパーリーダー蓮如さん
その前に、蓮如さんについて少し触れておこう。
「蓮如さま」とは浄土真宗中興の祖といわれる蓮如上人(1415~1499)の遺徳を称える法要のことだ。真宗門徒は親しみを込めて上人を蓮如さんと呼んでいる。
現在の浄土真宗の門徒数は真宗大谷派(東本願寺)、浄土真宗本願寺派(西本願寺)合わせて1200万人を超える。浄土真宗には十派あるので、合計するとさらに増えるだろう。しかし、蓮如さんが生まれた室町時代の中期には、本願寺(この頃にはまだ東西に分裂していなかった)は天台宗の末寺とみなされるほどで、衰退の極みにあった。
蓮如さんは浄土真宗の開祖・親鸞(しんらん)聖人から数えて8代目にあたる。蓮如さんが6歳の時、生母は突然姿を消し、その後二度と会うことはなかった。生母は「ここにあるべき身にあらず」と言い残し、6歳の蓮如さんの像を絵師に描かせた。これは「鹿(か)の子(こ)の御影」と呼ばれ、その写しが今も残っている。生母は蓮如さんの祖父に仕えていたとされ、この頃、蓮如さんの父の存如上人が正妻を迎える話が具体化してきたことから、ひそかに身を引いたのではないかとする説が有力である。二度と会えない我が子の絵像を胸に抱きしめて、どこへともなく去ったのだろう。
蓮如さんは若い頃から父を助け、北陸や東国に布教に出かけた。43歳で本願寺第8代を継承。51歳の時には延暦寺の衆徒により大谷廟堂(親鸞聖人の遺骨が祀られている所)を破壊され、4年後に吉崎(現福井県あわら市)へ赴き、北陸教化の拠点とする。吉崎は今でも吉崎御坊と呼ばれ、真宗門徒にとっての聖地の一つになっている。周辺には蓮如さんゆかりの伝説がたくさん残っており、一番有名なものは嫁脅しで知られる「肉付きの面」の話だろう。
文正2(1467)年には京都で応仁の乱が起こり、時代は戦国乱世へ突入する。
61歳で吉崎を退去した蓮如さんは文明11(1479)年に山科(やましな)本願寺の造営を始める。さらに最晩年の82歳の時には大坂に坊舎(お寺)を建立。これは後世に石山本願寺として、織田信長と対立を深めていく。
84年間の生涯で蓮如さんは4人の妻に先立たれ、5人の妻との間に27人の子どもをもうけた。おそらく蓮如さんがいなかったら、浄土真宗は瓦解し、本願寺の再建は困難だっただろう。V字回復できたのは、蓮如さんの教化力と組織力の賜物である。
蓮如さんの書いた手紙は「御文(おふみ)さん」(真宗大谷派ではこう呼ぶが、浄土真宗本願寺派では「御文章」)と呼ばれ、法要やお葬式には必ず読まれている。今でいうならメールである。蓮如さんは弟子や信徒に宛てた手紙の中で浄土真宗の教えをわかりやすく説き、また「講」と呼ばれる阿弥陀如来の教えを聞法するための集会を開くことを奨励した。御文さんの数は現在知られているだけでも二百数十通に及んでいる。「講」は時として真宗教団を経済的に支える基盤としても機能した。さらに村落には「道場」と呼ばれる宗教施設がつくられ、人々の信仰生活の拠点となっていった。
さらに蓮如さんは「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の六字名号を数多く書いて弟子に授けた。後に石山本願寺となった大坂の坊舎は、堺の豪商らの協力と共に名号を授けた人々の冥加金によって建立されている。蓮如さんは弟子に
「おれほど名号かきたるひとは、日本にあるまじきぞ」 『真宗再興の人 蓮如上人の生涯と教え』東本願寺より
と述懐したという。
また蓮如さんは同時代を生きた一休さんと仲がよかったとするエピソードもいくつか残っているが、また後日機会があれば書いてみたい。
春の風物詩「蓮如さま」 ぶんたこはお参りに来るお客さんをもてなすために、各家で作られていた
それでは話を河野西入坊に戻そう。
河野西入坊は各務原市の南部、木曽川の堤防を走る道路の下にある。同市川島町を挟んで隣は愛知県一宮市だ。蓮如さんゆかりの真宗大谷派のお寺とあって本堂の前には蓮如さんの像が立っている。境内に立つ大イチョウは蓮如さんの杖が根付いたものと伝えられている。
「蓮如さま」は毎年4月の第四土日にお勤めされる。各務原市秘書広報課が編集・発行している『ディスカバー各務原』によれば、「蓮如さま」はまさに春から初夏に季節が移ろいゆく時季の風物詩であるようだ。春の行事の中では比較的遅く行われることから「蓮如さまが遊びじまい」といわれ、また寒の戻りの頃にあたるところから「蓮如さま」を待って地元ではサツマイモなどの植え付けを行ったという。「蓮如さま」にお参りに来て互いに見染め合う男女もあり、「蓮如さまの見合い」とも呼ばれていた。「蓮如さま」が恋のキューピッド役を果たしたのである。
本堂には門徒さんが多数集まっておられ、午前中の法要が終わったところで、さっそくぶんたこについてお話を聞かせていただいた。ぶんたこはやはり蓮如さんの好物だったと伝えられているようである。小島勤さん(95歳)によると、ぶんたこは「蓮如さま」のお参りにやって来る親戚やお客さんをもてなすために、各家々で作っていたのだそうだ。「昔はお寺の前の道が参詣の人でいっぱいになって、身動きがとれんほどやった」と懐かしそうに目を細める。「蓮如さま」の日には参道に露店が軒を連ね、たいそうにぎわったという。
ぶんたこの作り方も各家庭の好みに合わせて少しずつ違っていた。ヨモギを入れるのは同じだが、生地に入れる餅米や米粉、小麦粉の配合や分量が異なる。田植えの時のお茶菓子としてぶんたこを作ったという話も聞いた。小島政喜さんは平成15年に失われゆく郷土食「ぶんたこ」を復活させようと、地域の女性たちと一緒にぶんたこづくりをされた。その時のレシピを見ると主な原材料は、ヨモギ・アズキ(餡用)・米粉である。餅米や小麦粉は入っていない。
親鸞聖人、蓮如さんゆかりの河野九門徒と河野西入坊
河野西入坊は河野九門徒(かわのくもんと)と呼ばれる九つのお寺の一つである。
鎌倉時代、関東から京都に戻る途中の親鸞聖人が三河国矢作(現愛知県岡崎市矢作町)の柳堂(天台宗柳堂薬師寺)で布教した際、美濃・尾張・伊勢の天台宗の僧たちが多数聖人に帰依(きえ:信じて拠り所とする)した。そのうちの1人、尾張国葉栗郡門真荘(かどまのしょう 現在の岐阜県羽島郡笠松町)の河野道勝(かわの みちかつ)らが「木瀬の草庵」を結び、地域における信仰の拠点とした。これが河野九門徒の起こりである。
ところがこの辺り一帯は木曽川の氾濫でたびたび洪水が発生し、木瀬の草庵も流失してしまう。後世、草庵を再興したのが蓮如さんだった。この時、蓮如さんの片腕となって活躍した一人が河野西入坊の行念。現住職の小島秀斈(しゅうがく)さんによれば行念は2m近い大男で、蓮如さんを慕い、毎月京都まで教えを聞きに行っていたとのことである。河野西入坊には蓮如さん真筆の十字名号が遺されている。
河野西入坊はじめ河野九門徒(後に河野十八門徒となる)は蓮如さんの美濃・尾張教化の足掛かりとなった。
可児郡御嵩町の「ぶんたこぼち」
河野西入坊と蓮如さん、そしてぶんたこの関係はわかったが、なぜぶんたこというのかはいまだ謎のままである。
さらに調査を進めると、『聞き書 岐阜の食事』(農山村文化協会)に興味深い記事が掲載されていた。それは岐阜県可児郡御嵩町(みたけちょう)に伝わる「ぶんたこぼち」というお菓子である。以下、引用。
ぶんたこぼち 米の粉でつくるよもぎもちのことで、田植え休みなどにつくって食べる。よもぎは炭酸(重曹)を少し入れて色よくゆで、水にさらす。十分水を切って包丁で細かく切る。さらに包丁でとんとんたたくか、すり鉢ですりつぶるようにして細かくする。米の粉を湯でかいて、一度蒸す。蒸しあがったら細かくしたよもぎを混ぜて練り上げ、適当な大きさに丸める。これを平たい楕円形にのばし、片方に寄せてあんをのせ、三日月形に皮を折り、両方のふちを合わせる。あんは小豆のつぶあんである。疲れた体を休めるために農繁期が終わると一月がかりでつくって食べる。
このぶんたこぼちは池田町の「餅松」のぶんたこと、形も材料も製法もほぼ同じである。
ぼちは岐阜県の方言で、米粉で作っただんごのことだ。
羽島市竹鼻町の「みそぎ団子」
羽島市竹鼻町では毎年夏が近づく頃になると「代々(だいだい)祭」という祭礼が行われる。町内に祀られている屋根神さまの神事で、暑い夏を無事に越えられるようにと願うものだ。6月30日には竹鼻の氏神である八劔(やつるぎ)神社ではみそぎ神事が行われるが、この時期に合わせて「みそぎ団子」と呼ばれるお菓子が売り出される。大粒の米粉だんごを扇形に割った竹串に刺し、火であぶり焼きにして甘い味噌をつけて食べる。これがこうばしくて実においしい。この竹鼻名物のみそぎ団子も、かつては「みそぎぶんたこ(味噌漬けぶんたこ)」と呼ばれていたことを知った。
方言から見たぶんたこという言葉
ぶんたこを方言という視点から見てみよう。岐阜大学教育学部の山田敏弘教授がまとめられた「岐阜県方言辞典」には、次のように書かれている。
ブンタコ 江戸時代の尾張藩藩学の総裁ともなった儒者 恩田蕙楼(おんだ けいろう)の『竈北鎖語(そうほくさご)』という語彙本に、「俗に、餅をぶんたくといふは、「餺飥(はくたく)」の音の転ずるなり」とあるとする。「はくたく」とは、小麦粉を水で練って切ったもので、平安時代に伝来した食べ物である。平安時代にはすでに「はうたう」と音便化して使われていたようで、これが山梨や長野で食べられているうどんに似た「ほうとう」になった。一方「ブンタコ」がどのような経緯で当地にことばとして、また、食べ物として伝来したかは不明である
とされ、例として
ぶんたこ/柏餅の一種【岐阜芥見】 ぶんたこ/(柏餅の一種【岐阜鷺山】 ブンタコ/餅菓子【八百津】
ブンタコ/よもぎ餅で鱈を包んだ大福餅【新修関】 ブンダゴ/ヨモギの餅をついて飽(ほう)を包んだの【美濃加茂】
【県外】記述は見られない。
が挙げられている。
「蓮如さま」や八劔神社の祭礼などの例からみると、ぶんたこは本来、仏事や神事と関係が深かったように思う。たとえばお寺や各家庭で仏様にお供えするごはんを浄土真宗では「おぶくさん」という。「おぶく」とは「お仏供」である。ぶんたことは神仏にお供えするだご(団子)だったのではないだろうか。
かつて京都ではお寺で行う仏事の際に、供養という意味でよもぎ団子を供える風習があったという。いつ頃の時代かはわからないが、それが岐阜に伝わったとしても不思議ではない。それを伝えたのが蓮如さんだったとしたらどうだろう。
木曽川流域に広がる独自の食文化 ぶんたこよ永遠に
最後に、ぶんたこの存在が証明できた地点を岐阜県の地図に落としてみた。興味深いのはその多くが木曽川流域に点在していることだ。木曽川は長野県にある鉢盛山の南を水源とし、岐阜・愛知・三重を通って伊勢湾に注ぐ。全国で5番目の流域面積を持ち、特に上流部の景観は変化に富んでいる。豊富な水量と広大な川幅を生かして水運が盛んであった一方で、周辺の人々は昔から洪水に悩まされてきた。河野西入坊の辺りもかつては尾張だったが、大洪水で木曽川の本流が変わったため、美濃に編入されたのである。揖斐川町、池田町、大野町は木曽川からはいささか遠いが、この地域は揖斐川が流れていることから水運つながりかもしれない。あるいは婚姻関係による広がりも考えられるだろう。
こうしたことから、ぶんたこは主に木曽川流域の人々によって育まれてきた食文化の一つではないかと考えられる。歳月を経て本来の意味が失われ、いろいろなヴァリエーションが生まれたのではないだろうか。あるいは土着することで元々その土地に根付いていた文化と融合して形を変えていったのかもしれない。
ぶんたこは高級な和菓子ではない。家族の好みに合わせて各家庭で作られる素朴なおやつだ。それは環境やライフスタイルと密接に結びつき、人々に愛されながらこれまで受け継がれてきた。しかし、今では家庭でつくられることも少なくなり、場所によってはもはや“絶滅危惧種”になっていると聞く。食文化としてのぶんたこを未来へ伝承するとともに、私たちの暮らしを見直す時期が来ているのかもしれない。
そしていつの日か、ぶんたこの語源が明らかにならんことを!
【取材協力・写真・情報提供】
河野西入坊 岐阜県各務原市下中屋町2丁目117-1
山田泰珠氏 たねのしずく研究所
小島政喜氏
餅松商店 岐阜県揖斐郡池田町青柳91
【参考文献など】
『真宗再興の人 蓮如上人の生涯と教え』東本願寺
『ディスカバー各務原』各務原市役所秘書広報課
『下中屋西入坊の歴史』各務原市歴史研究会 横山住雄氏
『岐阜新聞』2015年4月5日 フリージャーナリスト高橋恒美氏
『聞き書 岐阜の食事』農山村文化協会
『岐阜県方言辞典』山田敏弘編著 岐阜大学出版
レファレンス協同データベース
石黒商事株式会社「くろちゃんのブログ」
クックパッド
「白川菓匠 大黒屋」HP 和菓子
100%御餅ミュージアム(全国餅工業協同組合)
羽島市の民俗芸能 竹鼻の代々祭り 羽島市歴史民俗資料館・羽島市映画資料館