焼き芋って、日本人の冬のおやつの代表と言ってもいいですよね。ところが、そんなに昔からあるおやつではない。庶民がさつまいもを口にするようになったのは江戸中期以降だって知っていました?
そして今では「焼き芋」といえば、さつまいもを1本焼いたものが共通認識にありますが、丸焼きが全国区になったのは江戸中期よりもさらに後の時代らしい。なんと江戸と上方では焼き芋の食べ方が違っていたそうで!
どんな形で食べられていたの? と思ったあなた。少なくとも京都では「輪切り」だったようなんです。ところが困ったことにその記述はあっても、その形状が書かれた歴史的資料には、どこにもない。現存する京都の焼き芋屋さんにもその姿はなかった…(2021年秋、筆者調べ)。
しかし記録はなくても、人々の記憶の中には「輪切り」の姿がある。ところが記憶だけじゃなかった、実は”焼き芋を模した”お菓子として今の時代に残っていた…! という「日本の焼き芋史」史上、壮大な発見を伝えるのが今回の試みなのです。
話の主役となるのは、京都の老舗和菓子店「鍵善良房」の冬の名物菓子「おひもさん」。
「おひもさん」を追いかけてみたら、日本の焼き芋史だけでなく、わたしは日本の和菓子の歴史でも大事なエピソードを知ることになったのです!
ということで、まずは日本人がさつまいもを常食できるようになった時代へタイムスリップしてみましょう。
芋は芋でも日本人のおやつは、あるときまでは里芋だった
さつまいもが食べられる前は、日本人にとって「芋」といえば里芋や八つ頭。これらをゆでて、塩をつけて食事にも間食としても食べられていたとか。十五夜(旧暦8月15日)のころにはちょうど芋の収穫と重なるので、里芋を供えたそう。十五夜には「芋名月」の別名もあるぐらい、日本の暮らしには里芋がなじんでいました。
その一方でさつまいもは慶長10(1605)年、中国・福建省から琉球王国(沖縄)に渡り、琉球王国から薩摩藩へ伝わって薩摩藩で栽培が始まります。
そして教科書でおなじみ、青木昆陽が江戸でさつまいもの試作に成功したのが享保20(1735)年。ここから本格的に江戸幕府はさつまいもの栽培を推奨。さつまいもは甘みが多く栄養価も豊富。これは美味い! ということで、老若男女の心をつかんで大流行していきました。
焼き芋が史料に書かれた最古のものは、享保4(1719)年に来日した朝鮮通信使の記録です。江戸に向かう一行が京都から大津へ向かう途中で「酒、餅、煎餅、焼き芋」が売られていた情景が描かれていたとか。江戸でさつまいもの栽培が始まるよりも前に、もう焼き芋は存在していたんですね!
寛政1(1789)年には大坂でさつまいものレシピ集『甘藷百珍』が出版されるほどに。この中に「塩焼き芋」「塩蒸し焼き芋」のレシピもあり、さつまいもの定番料理のひとつとして焼き芋があったことがうかがえます。どんな形だったかわからないのが残念…。
焼き芋を「八里半」「十三里」と呼ぶ江戸時代の言葉遊び
「八里半(はちりはん)」。これはその当時、焼き芋もにつけられた呼び名。栗を「九里(くり)」にたとえて、「焼き栗にはおよばぬ美味しさ」として半里(「里」は距離を表す尺度で、一里は約4㎞)引いちゃったんですね。「八里半」のキーワードは文化9(1812)年に出版された式亭三馬の小説『浮世風呂』の会話のくだりにも描かれており、当時の焼き芋人気を語ります。
言い伝えですが、焼き芋の専門店が最初にできたのは京都だという説も。キャッチフレーズ「八里半」のシャレが江戸に伝わり、勝気な江戸っ子は「栗(九里)より(四里)うまい十三里(九里+四里)」として、江戸では「十三里(じゅうさんり)」という名前で焼き芋が売られるようになったとか。
ここで紹介するのが広重の描いた浮世絵。焼き芋が江戸で「十三里」と呼ばれていた証拠があるんです!
冬に「山くじら=いのしし」を食べて暖をとっていた日本人の食文化を語る一枚として有名な作品ですが、今回見て欲しいのはこっち!!
「十三里」の看板のそばには、かごに山盛りになったさつまいも。江戸の焼き芋は最初はほうろくで焼かれたそうで、瓦に置いてみたり、のちに大きな竈(かまど)に平鍋を置いて焼くようになったとか。「○焼き」とは1本を丸ごと焼いたものってことでしょう。
ちなみに江戸には治安維持のために町の出入り口に木戸が設けられていて、その脇に木戸番と呼ばれる役人が住む番屋があったとか。木戸番は木戸開閉の傍らで、焼き芋や雑貨、駄菓子などの販売を内職にしていたそう。この絵に描かれているのは江戸時代のキオスク、簡易版コンビニというわけです。
話が脇にそれましたが、栗に似た味わいのさつまいもを「八里半」として焼き芋を売り出すところがシャレてる。それを受けて「十三里」と名付けるのも「座布団一枚!」というところ。こんな呼び名がつくほど、庶民に愛されていたのが日本人の焼き芋なんですね。
京都で好まれた輪切りの焼き芋。焼き芋屋さんから姿を消すも、和菓子店に残っていた!
いよいよ本題に入ります。江戸の焼き芋は丸焼きが普及したが、上方、少なくとも京都では「輪切り」が定番だったよう。というのも、今回紹介する「鍵善良房」の「おひもさん」に添えられる口上にこんな一節が書かれている。寄稿したのは映画監督・吉村公三郎さん。
当今、余り見掛けなくなったが、京の街の方々に焼芋屋があった。東京風の石焼芋じゃない。底の浅いデッカイ鍋で、塩を振って輪切りの薩摩藷を蒸し焼きにする。
焼上ってパッと蓋を取った時、立上る湯気といっしょにたゞよう香しいかおりが懐かしい(原文のまま)
「鍵善良房」15代当主・今西善也さんに聞くと、この口上が書かれたのが昭和50年代とのこと。そしてご自身の記憶にも「輪切り」の焼き芋があるという。
「焼き芋の専門店でなくても、冬になれば果物屋や八百屋の片隅に輪切りにした焼き芋が売られていたのがあたりまえのようにあったんですけどね。いつからか見なくなったなぁ」(今西さん)
輪切りにして焼くのは手間がかかるし、場所もとるし。1本焼の方が効率がいいので姿を消してしまったのか。この機会に京都に残る古い焼き芋専門店や八百屋などのぞいてみたが、どこにも輪切りの焼き芋は見当たりませんでした(もし、まだやっているお店があればご一報ください)。
どうにかして裏をとりたいわたくしは、ひとつの記述にたどり着きました。昭和49(1974)年に出版された加太こうじ著『食いたい放題 東の味西の味』の「おやつの楽しみ」にこんな一節が。ちなみに著者は東京を拠点に食を語っています。
昭和初期の焼き芋には丸焼きのものと、適当に切ったものと、やや薄く切ってゴマ塩を振った西京焼きとがあった
この「西京焼き」と呼ばれるものが、もしかしたら「輪切り」の焼き芋なのかも? わざわざそんな名前が付いているぐらいだから、東京の人にとっては区別して認識していたことが想像できます。やっぱり、、、輪切りで食べたほうが品はいい。
京好みの焼き芋屋さんは消えてしまったのは残念ですが、和菓子の世界で生きているのが興味深いと思いませんか? 京都には「十三里」と呼ばれるさつまいものお菓子がまだあるのをわたしは知ってます。実は鍵善の「おひもさん」も、昭和50年ぐらいまでは「十三里」の名で販売されていたとか。
鍵善の冬の名物「おひもさん」の製造過程を見てきたよ
ということで今回も工場に潜入させてもらいました。主役のさつまいもは、徳島産の鳴門金時「里むすめ」。今のところは、これ一択だそうです。
水にさらしたさつまいもを大きなセイロで蒸します。蒸し上がりをチェックすると同時に芋の水分量も確認。「農産物なので水分量はそのつど変わります。いもの水分を把握して、”芋あん”の仕上げ方を想像します」と教えてくれたのは入社5年目になる長谷川由佳さん。
そしてわたしは驚く光景を目にします。蒸しあげたさつまいもを”芋あん”に仕上げる前の大仕事! 動力を使わずに「人力」でさつまいもをこすのですが、、、。
こし器に入れた芋を、ギュッと通す長谷川さん。
最後は全身の力を使って、ギュー。すごい力です!
さらに驚いたのは、そぼろ状に出てきた芋を手を使ってなめらかに整える作業。このあと、白あんとあわせるときに芋がスムーズに混ざるようこの工程が生まれたのだとか。長谷川さん、ここまでずっと素手なんですけどー? 湯気が立つほどアツアツなのに!
白あんに蒸しあげたさつまいもに、バターを入れて”芋あん”を練り上げます。
「昭和の初め、”和製のスイートポテト”とうたって売り出していたそうです。もうスイートポテトっていう呼び名も昭和の産物で、現代の若い子には通じないかもしれませんが」と苦笑いを浮かべる今西さん。
「あるときから上質なバターをたっぷり入れるように変更しました。材料が少ないだけに吟味してつくっているんですよ」。
焼き上げる過程に神業あり! 生菓子をつくる技が「おひもさん」にも生きていた
生地ができあがったら、次は焼く工程にバトンタッチ。この日「おひもさん」の焼き場を担当していたのは入社4年超の山下泰寛さんと入社4年半年ぐらいの千葉洋海さん(同期のようでちょっと違うそうです。山下さんが先輩)。オーブン担当の山下さんは手だけの登場です。
さて、ほぼほぼ手作業ですべてのお菓子を仕上げる鍵善において(あんを練る機械を除く)、「おひもさん」だけに使われる機械を発見。本来は饅頭生地を押し出すものだそうですが、、、。機械を使うことで「おひもさん」の端正な姿が生まれるんですね。
ほっこりした味わいだけに、見た目をキリッと仕上げるところに名店の美意識を感じます。そう、「おひもさん」は手土産になる芋菓子なんです。
この機械を使うことによって外側が薄いクッキー生地、内側が芋あんという構造の生地ができあがります。棒状で出てきた生地にシナモンをまぶす作業は、和菓子づくりで鍛えられた賜物? 手で適当な分量をまとわせるこの微妙な加減、写真で伝わるでしょうか?
シナモンをまとったクッキー生地の部分が焼きあがるとさつまいもの皮に見えるという「見立て」。初めて口にした人はここに気がついたときに笑顔になってくれるんです。よくできたお菓子でしょう?
輪切りにするのも手作業で。「同じ大きさに切っているつもりでも、手作業なので若干の形の違いは出るんです」と千葉さん。皿にのせたときの姿の愛らしさも、少しのばらつきがあってこそ。焼き芋だって、選ぶときに形を見るのが楽しいんだった、と思い出しました。
切り分けられた「おひもさん」は卵黄にみりんを混ぜた液を表面に塗って、オーブンへ。上下、じっくり火を当てて焼きます。
焼き上がりの香りのいいことといったら! そして焼いた芋あんのほっくりとした甘みは寒いこの時期だからこその味。日本茶はもちろんのこと、コーヒーやホットミルクにもあう。家族みんなで楽しめるお菓子なんです。
京都の和菓子屋も昔はケーキも焼き菓子もつくっていたんです。「おひもさん」は京菓子の歩みを語るお菓子でもあった
今でこそ洋菓子専門店があんや抹茶、柚子といった和の材料を使うことはあたりまえ。和菓子屋にも「和風シュトーレン」なるものが店頭に並ぶ時代です。和菓子と洋菓子の世界が混じり合ってきている現代ですが、長い間、京都の老舗和菓子界では「京菓子」の線引きをしっかりしていたような。京菓子の世界に「洋」のものが入ることは御法度だった記憶があります。
そう考えると鍵善の「おひもさん」は今では違和感はないけれど、昭和にできたころには異端の和洋菓子だったのではないかしら? そんな疑問を今西さんにぶつけると「昔は和菓子屋だってオーブン菓子をつくっていたんです」との答えが。
「うちの店もウエディングケーキを荷台にのせて運ぶ写真が残っているもん」。ええー!
「かしこまって”京菓子”とか言うようになったのは戦後からじゃないかな。それまではどこの和菓子屋でも焼き菓子はやっていたんです。洋菓子店の数が圧倒的に少なかったから、求められればつくっていたんでしょう。今でも京都の和菓子屋でカステラとか売っているのはその名残り。うちの『おひもさん』もそのひとつなんですよ」(今西さん)
昭和のあるときまで京都で食べられていた輪切りの焼き芋。その記憶を伝える「おひもさん」。この焼菓子には京都における、いや日本における和菓子屋の進んできた道も映し出されていたのでした。
お菓子にまつわるこんなストーリーを語らいながら、お茶を飲むのもいいですね。
「おひもさん」は5月大型連休のころまで販売し、新芋が収穫される秋の時期からまた店頭に並びます。日持ち5日間。お取り寄せもどうぞ。
撮影/宮濱祐美子