何気ないモノや事柄に、日本文化が発揮されている場合が多々ある。
たとえば、缶コーヒー。これは日本特有の文化が作ったものと言える。
缶コーヒーは日本独自の発明品、というわけではない。この記事は日本の「ガラパゴス進化」を論じる場である、と予め断っておきたい。インドのカレーと日本のカレーが全く異なる食べ物であるのと同様に、缶コーヒーも日本という名の国で奇妙な進化を遂げている。
今回は「何気ないモノ」の代表として、缶コーヒーを主役にしてみたい。
とある軍曹の絶賛
筆者の知り合いに在日米軍の軍曹がいる。
筆者も彼も同じカトリック信徒で、共に聖書の話をしたこともある。米軍内には従軍聖職者というものが存在するが、彼の場合はしばしばベースの外の教会に顔を出す。言い換えれば、一般の日本人信徒と共に膝を台に乗せているのだ。
その軍曹がある日、筆者にこう言った。
「日本の缶コーヒーって、びっくりするほど美味いんだけど」彼曰く、日本の缶コーヒーはバリエーションも豊富で下手な喫茶店よりは遥かに美味とのこと。彼の故郷には、そのような缶コーヒーはないらしい。
実は後日、これとほぼ同様の話をネットで見かけた。つまり日本の缶コーヒーに心奪われ、その魅力を周囲に言いふらす米軍人は彼だけではないということだ。
コーヒーは「座って飲むもの」
日本以外の国では、コーヒーは「座って飲むもの」である。
州を問わずアメリカ人が仕事の合間に休憩を取る時は、ゆったり座れる椅子に腰を下ろしてから飲み物を口にする。職場の近くのカフェに行くこともあるだろうし、そのカフェからコーヒーをテイクアウトすることもある。だがいずれにせよ、そのコーヒーを歩きながら飲み干すということは絶対にしない。
他の国でも同様だ。筆者はしばしばインドネシアに渡航するが、この国の人々はランチとアフタヌーンティーだけは絶対に忘れない。タクシー運転手ならば、最寄りのワルン(キヨスクのような小規模小売店)の椅子に座ってコーヒーかお茶を飲む。この時間だけ、仕事のことは完全に忘却しようとしているようだ。
「24時間戦えますか」
一方で、日本の缶コーヒーは「歩きながら飲む」ことを考慮に入れている節がある。
要は栄養ドリンクと同等の位置づけだ。仕事の最中にサッと飲み干し、待ち構える次の業務へ向けた栄養補給のための飲み物。もちろん、カフェインを「栄養」と言えるかどうかはまた別問題だが、「これを飲んで頑張ろう!」ということで飲んでいるのは間違いない。
日本人にとってコーヒーとは、「休息の飲み物」ではないのだ。
バブルの頃、とある栄養ドリンクのCMが「24時間戦えますか」というキャッチコピーを打ち出していた。今の時代に社長がそんなことを言ったら大問題に発展するだろうが、少なくとも80年代は「仕事があるのは幸せ」「たくさん働けば働くほど偉い」という風潮があったのだ。
そのような社会では、のんびり喫茶店でコーヒーを飲むこともできない。それをやったら「あいつはサボっている」と陰口を叩かれる。
歴史上の事件や事柄には、何でもプラス面とマイナス面が存在する。「24時間戦えますか」の意識が21世紀の今になって大きな歪みや非合理性を生み出しているのは事実だろう。
しかしその分だけ、短時間のうちに飲み干すことのできる缶コーヒーは特異な進化を遂げた。
百花繚乱の缶コーヒー
日本の缶コーヒーは、同じ銘柄でも様々な味が存在する。
ブラックからミルクを入れたものまで、さらには希少な豆を使用した商品もコンビニに並んでいる。もはや喫茶店など必要ないのでは、とつい考えてしまうほどだ。
あまり種類を多くするとその分だけ薄利になるはずなのに、実際には利益確保が実現している。ここまで缶コーヒー業界が発展している国が他にあるなら、ぜひ渡航してみたい。
それと同時に、メイド・イン・ジャパンの缶コーヒーを海外に売り込む目的の展示会があればいいとも思ってしまう。もしそのような企画があるなら、筆者もぜひ取材者のひとりとして参加させていただきたい。