コロナ禍の社会の変容には明るさがない。ただ淡々といつ果てるともなく日常が壊れていっている。
「終わりなき日常を生きろ」といわれたボクらの世代だが、その日常もなくなっておる。
この世界的な激変はいわば、世界革命。革命は電撃的にやってくるものだといったのは誰だったか忘れたが、コロナ禍が新たなスタイルの革命だとすると、高揚感がないんだな。
一昨年に外山恒一が『全共闘以後』(イースト・プレス)を出版したおりに上京して来て会いたいというので、新宿の西武で久しぶりに歓談した。なんでも「以後」を書いたわけだが自分が下獄してた時期の事情がよくわからないというんだ。
ならばと記憶を頼りにあれこれと話した。もっとも十数年前のこととなればボクの記憶も怪しいもんだ。
それに濃厚な記憶は思想よりも体験。誰と喧嘩したとか、誰と誰が付き合って別れたとか個人的なことばっかりなんだな。もうボクが思想や現象を「批評」するヤツらに嫌気がさして「で、あなたはどうなのですか」と聞く十余年を過ごしてきたからなんだろうな。そんな歓談の最中に、ふとこれからの未来の話になったんだ。
もしやすると、明日の朝目覚めたら始まってるかも知れないのが革命なんだ。
じゃあ、もしもそうなっていたらどうすんだ。二人で一致したのは「まずは情勢を見守る」ってことなんだ。
そう、先人達は教えてくれる。最初から走ってしまえばジロンド派とかジャコバン派よろしく、一瞬だけ輝いて血祭りに挙げられるのが必至なんだな。ならば、じっくりと情勢を見極めて、よきところで「最初からいましたよ?」という顔で現れるのがよい。
戸締まりを用心してじっくりと高揚する革命を見守ろう……(このサイトでこんなこと書いているとバカかと思われそうだが、まあいいか)。
と、思っていたら現実は想像を遙かに超えるもんだ。コロナ禍という新たなスタイルの世界革命。高揚感などまったくなく、単に沈滞だけが続いておる。情勢を見極めようと家に籠もっているのも、そろそろ我慢がならん。
旧跡をめぐるばかりが歴史散歩ではない
ならばと高揚感を求め街に出よう。
街にはマスクをして下を向いて歩く人ばかりでも、ワクワクする手段はいくらでもあるんだな。
それは、街の記憶を辿る散歩なんだ。
いわば、歴史散歩というやつだ。
歴史散歩というと、なにか神社仏閣とか名所旧跡ばかりがテーマだと思っておるだろう。いやいや、たとえ去年の出来事であっても見ようによっては歴史なんだ。移り変わりの早い東京じゃ10年前は遠い過去になっておる。だから、もうみんなが忘れた時代の散歩は簡単なんだ。
案内してくれるのは今も発行されている雑誌『Hanako』1989年5月25日号。この号の特集「六本木バイブル」は、六本木を16のエリアに分類し181の店を紹介しておる。そこに紹介された店を訪ねて歩くのは、いわばバブルの時代の歴史散歩。この沈滞した時代に、世の中が確かに変わっていた、それも激変していたバブル時代を散歩するのは、とてもワクワクするではあるまいか。
六本木の常識。アマンドの前で待ち合わせなくてはならない?
六本木に街の記憶を辿るなら、どうあってもアマンドの前から歩き始めなければならぬ。今も昔も六本木の待ち合わせ場所の定番はここなんだ。あのバブルの時代には週末ともなれば、待ちぼうけを食わされた男たちが、足元いっぱいに煙草の吸い殻を落としていたのもいまでは懐かしい記憶だな。今は待つ人の手にあるのはスマートフォンに変わっておるし、路上には歩き煙草を戒める標識が描かれているんだから、随分と変わったもんだ。
でもバブル時代の定番風景であるアマンドの前で待ち合わせるは遊び慣れてない若者たちのやることだったんだ。ちょっと慣れた男女は喫茶店を待ち合わせに使うんだ。アマンドも喫茶店なんだが、そんな人だらけのところなど使わん。クローバーか貴奈あたりで、悠然と珈琲を飲みながら待つんだ。それも、男性が女性を待たせるなんてあり得ない。
悠然とデートの待ち合わせをできる者なんてのは限られていて、大抵はドキドキしていたものだ。中には見苦しいヤツもおったもんだ。当時、システム手帳は流行のアイテムだった。日本にシステム手帳が輸入されたのは、1984年にイギリス・ファイロファックス社のバインダー手帳が輸入されたのが始まりだ。この手帳は高級品でスタンダードが3万6000円。レディース2万8000円。トラベル2万4000円。さらに15万円もするヘビやトカゲ革の高級バージョンなんてのもあった。
それが大流行して文房具店なんかでは100を超えるリフィルが売られていたものだ。デートに慣れていない男子なんか、システム手帳に、本や雑誌で仕入れた情報をびっしりと手書きで書き込んでおった。どこどこのシェフが独立して始めた店だとか、こんな新しいコンセプトだとか、雑誌に書かれていたそのままの女のコにはどうでもよい蘊蓄を、語っていたんだな。
さて、六本木に話を戻そう。終戦後に次第に繁華になっていった六本木だが、バブルの頃までは街の規模は今よりもずっと小さかったんだ。六本木通りと外苑東通りが交差する六本木交差点を中心にした僅かな範囲だけが栄えておった。
狭いけど賑やかなものだから、とにかく人が集まる。若者や外国人でごみごみしてくると、必然的に喧噪から逃れようと街は外へと広がっていったんだ。こうして、街が広がっていった先が、まず芋洗坂だ。今は歩道も整備されているが、バブルの頃には歩道もきちんと整備されておらず、もっと狭苦しかった。おまけに、その狭い通りを新宿から麻布十番を経由して田町へ向かう都営バスは駆け下りていたのだ。
このバス路線も大江戸線が開通する頃まであったが、よくもまあ、あんな狭い道をバスが走っていたもんだ。バスは走るし人は歩くしで次第に賑やかになっていく坂道に広がっていたのは、世界の様々な食のレストランだったんだ。評判の店はいくつもあった。ドイツ料理店「ドナウ」は、名指揮者のカラヤンも立ち寄った本場さながらの店。
イタリア料理の「ボルサリーノ」は『Hanako』曰く「30代のカップルが客層の中心という大人の店」。坂を下りきったところにあった、エスニック料理店「MAGIC」は、芸能人をよく見かけることで知られておった。そんな、店は、今はもう跡形もなくなってしまった(今回訪ねたら、建物も消滅して更地に)。
『Hanako』が綴るオープンしたての店を推す言葉も、今はむなしい。
今となっては目立つのはコンビニエンスストアに、お仕着せな飲食店ばかりだ。挙げ句に、シャッターが降りたままの建物も目立つようになった。どこのビルも看板を見ると、すべてのフロアが埋まってはおらず、空きテナントが目立つのだ。それが、今の六本木の偽らざる姿といえるだろう。
芋洗坂を下りたら、もう目の前は麻布十番。大江戸線と南北線が開通するまでは都内の陸の孤島の代名詞だったところだ。それでいて、隠れてない隠れ家的な店が多い高級感のある街だった。六本木からはゆっくり歩いても15分ほどなんだが、バブルの頃は、これを歩くのがおっくうで、タクシーを求めて右往左往するのが日常だったもんだ。容易につかまらないのがわかってるんだから、歩いたほうが早いのはわかっておる。それでも、タクシーに乗らなくてはいけない。そればバブル時代ならではの感覚だったのだ。
深夜にアイスクリームを食べるのもバブルから
今度は鳥居坂を上って、再び六本木方面へ歩いて見る。国際文化会館や東洋英和女学院のあたりは、バブル以前から変わらぬ風景が広がる場所だな。繁華な通りから、僅かな距離に、そんな地域が隣接しているのが六本木の不思議なところでもあるんだ。
外苑東通りに出て、ロアビルの斜め向かいのカドには「ハンバーガーイン」があった。ここは1950年に進駐軍の将校がオープンしたアメリカンスタイルのハンバーガーショップなんだ。ジュークボックスも置かれた正統派スタイルの店だった。土曜は朝の8時まで営業していて、遊び疲れた若者の喉や腹を満たしておったもんだ。
ちょっと方向を変えて飯倉片町方面へ歩くと、真新しいビルが建っている。少し前まで長らく駐車場だったところだ。ここには「鳥居坂ガーデン」という、若者がひっきりなしに集まるスポットがあった。テラス席の置かれた中庭をぐるっと平屋の建物が囲み本格フランス料理の「モンダルジャン」や中華料理の「露天」などの店がならんでおった。中でも若者の人気が高かったのは「ハーゲンダッツ」だ。酒を飲んだ後、深夜に食べるアイスクリームの美味さを教えてくれたのは、ここだという人も多い。アイスクリームを深夜に食べるという文化もバブルの頃まではなかったものだ。
さて、引き返して六本木方面へ向かうと少しだけ平屋の店が残っている一角がある。ここは僅かに残ったバブル以前の六本木なんだ。六本木交差点に張り付くような僅かな繁華街を抜けると、通り沿いに平屋の商店が目立つ下町が現れるというのが、もともとの六本木だったんだ。今は後ろにホテルが建設されて綺麗に改装されているけれども数年前までは、後ろは整備されてない空き地で明らかにバブル期の地上げから難を逃れた風景だった。
バブルの頃の裏通りはヤバかった
そう、この下町には寺もあって墓地と家とか隣り合っているような風景も当たり前だったものだ。「ハンバーガーイン」の跡を曲がると突き当たりは、今でも墓地になっておる。このあたりは、バブル時代も遊び慣れた者しか近寄らなかったちょっと危険な場所だった。酔っ払いのケンカや薬物の取引も行われている危険な一角だったんだ。今でこそ、飲み屋で酔っ払いが喧嘩をする風景もほとんど見かけなくなったものだが、バブルの頃はまだ喧嘩は日常だったんだ。
そんな風に裏通りは危険な香りもあったが、隠れ家的な大人の店も多かったものだ。
モダンな雰囲気の「カフェルマン」。アルゼンチンタンゴのライブレストラン「カンデラリア」などなど……。このあたりはディスコの広がる一体から見ると、崖の下。今でもある階段を上り下りする手間が、いかにも隠れ家に向かっているようで面白がられておったんだ。殆どの店舗は入れ替わったが、現在でもその雰囲気は残っておる。
そのあたりの階段を昇っていった崖の上はディスコが集中するエリアだった。10階建てのフロア、ほぼすべてがディスコの「スクエアビル」を中心としたバブル時代の中心地。「キャステル」「ネペンタ」「ギゼ」「キサナドゥ」といくつものディスコがあった。そんなにいくつもディスコがあって客が入ったんだろうかと思うが、入っていた。それぞれが独自のコンセプトで客を集めていたんだ。カリビアンリゾートがコンセプトで、音楽どころか料理もすべてスパイシーなカリブ料理という「ジャバ・ジャイブ」なんて、今聞いても、かなり尖ったコンセプトだな。
そんな派手なビルも駐車場を経て、現在はホテルになってしまった。はす向かいにはイタトマこと「イタリアントマト」があった。今も各地にある、このチェーン店はバブル時代には、若者たちがとりえあず集う定番だった。ここに、ディスコに向かう当時流行の女子大生たちがたむろっておったんだ。
1990年代に入ると文化の担い手は女子高生へと移るわけだが、1980年代はもっぱら女子大生だった。この背景には男女雇用機会均等法ができたりして女性の社会進出が進み、社会の中で女性が存在感を高めたことも無縁ではあるまい。
そうそう、彼女らのファッションのことも忘れてはいけないな。
バブルというと若い女性のファッションはなにかとボディコンだったと記憶されているのではあるまいか。ボディコン。すなわち女の子の身体にピチッとはりつくボディコンシャスファッションが登場したのは1986年の春頃からだったな。出始めの頃は、男性たちはがエロい目線で「ほお〜っ」とか「ヒューッ」と感嘆したものだ。
このボディコンの前にはお嬢様ファッションというのが栄えておった。お嬢様ファッションが、ルーズウエストとロングスカートを基本にしていたので、ボディコンはその逆張りをしたものといえる。
ウェストを絞める太いベルトと膝丈のタイトスカートを基本としたスタイルは、新鮮そのものだったんだ。バブルを通じて女性がみんな着ていたような印象のあるボディコンだが最盛期は意外にも1988年の夏である。この夏には超ミニで肩や背中も超露出した女性たちが闊歩して「街を歩く水着」なんていわれたものだ。でも、夏を過ぎると突然、ボディコンは減少しパンツルックが流行するようになっていく。やっぱり、今ほど地球が温暖化していなかったから寒かったんだろうな。
そして、このあと1990年代にかけて女子のファッションは生足を堂々と見せるスタイルとパンツルックとが交互に栄えていくようになる。
この頃、ボディコンを好んでいた女性たちによって、つくられた新たな生活習慣が朝のシャンプーだ。
「ワンレン・ボディコン」という言葉で知られるように、女性のヘアスタイルはワンレングスが定番だった。
ワンレングスのロングヘアを寸部の隙なく手入れして、セットするには朝のシャンプーは欠かせなかったのである。
これを契機として、女性の朝のシャンプーの習慣は、幅広い世代へと広がっていった。それを見た資生堂が発売したのが朝のシャンプーに適したことをうたう「モーニングフレッシュ」だ。斉藤由貴が出演する、この商品のCMで使われた「朝のシャンプー」という言葉から「朝シャン」という言葉が生まれておる。この「朝シャン」は1987年の新語・流行語大賞にも選ばれ、資生堂が受賞をした。補整下着も、この頃から普及し始めたものだが、これまた関連がないとはいえない。
再びディスコエリアへ戻ろう。
ディスコが集まるエリアの一角に「日拓ビル」というのがあった。ここは「エリア」と「シパンゴ」が入っておった。とりわけ前者は、黒とゴールドを基調にした豪華で広い人気店。ここで目立てば六本木のディスコクイーンにもなれると噂された名店だった。跡地にできた映画館「シネマート六本木」もなくなったが、その隣にある「香妃園」はバブル時代からの食事の定番だった。以前は六本木通りに面した場所にあって、シメにここで鶏ソバが定番だった。
中華料理といえば、もう一軒、外苑東通り沿いに今もある「新北海園」も美味かった。こちらでは、10万円もする北京ダックを当たり前のように注文できるのがひとつのステータスだった。
でも、六本木で本当に遊び慣れたヤツらはディスコなんかは、とっくに卒業しておった。大人になった世代は、ディスコの集まるエリアを素通りして突き当たりのほうへと歩いた。ここに今でも、小さな店がいくつも入るビルがある。だいたいが、女将さんが一人でやっているカウンターだけの小さな店。一見さんはお断りの店で、静かに飲むときに若者たちは大人になったことを実感したのだった……。
人気ラーメン店だった廃墟は今も残る
再びアマンドの前に戻って、六本木交差点から西へ。「東京ミッドタウン」はかつての防衛庁。「新国立美術館」のところには、東京大学生産技術研究所があった。このあたりはバブルのあおりで店が増えていった一画だ。外苑東通り沿いにはホテルもあって、ディスコでナンパした女のコを連れ込む定番スポットになっていたんだ。その近くのビルの地下には、裏カジノがあって、客は堂々と現金を賭けてバカラに興じていた。地下とはいえ目抜き通りで堂々と営業していたのも、バブルの勢いゆえだったとしかいいようがない。そんな通りを左に、天祖神社方面に入るところに、一軒の廃墟がある。ここが「大八」という名前のラーメン店。
バブル時代にも既に古ぼけていたカウンターだけの店は、深夜まで営業している人気の店だった。バブル時代に六本木でラーメンといえば、この店と乃木坂下の「かおたんラーメン えんとつ屋」。こちらは今も健在だが、バブル時代には着飾った人々が深夜に列をつくっていたもんだ。古ぼけたラーメン屋に着飾った男女が行列してラーメンを啜るというのも、バブルの偽らざる風景だったんだ。
もはや、バブルの香りを残す店も六本木からは消え失せた。とりわけ「六本木ヒルズ」は、街を地形から変えた。麻布十番方面へ抜けるトンネルがあったことや、バブルとは無縁の下町が広がっていたことは、もはや想像することもできなくなってしまった。テレビ朝日に通じる通りに沿って商店街があったことを覚えている者も少ないだろう。そう、六本木ヒルズの中でもノースタワーだけは、もとの名前は「東京日産ビル」といって、バブル以前の1971年に建設されたビルなんだが、どこにもバブルの残り香はないんだ。
小生、以前よりなぜかバブル時代への興味が尽きない。数年前には『1985-1991 東京バブルの正体』(マイクロマガジン社)なんて本も書いたりしているんだが、この時代は知れば知るほど興味深い。バブル時代というと、なにかとカネと欲とに溺れた時代だったとか、今では反省の言葉と共に語られることばかりだ。でも、その一方でなんだかよくわからない勢いはあった。時代勢いは、バブルの恩恵を受けている、受けていないにかかわらず「なんでもアリ」を社会の常識にさせておった。変わったことも突拍子もないことも、みんな躊躇なくやり遂げるダイナミズムがそこにはあった。なにかと小さくまとまることが美徳になってしまった時代である。そんな時代を打ち破るためにも、もう一度バブルの時代に学びたい。そのために、さああなたもバブルの歴史散歩へ……。
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