生まれ育った京都を離れて、はや4年。
この歳月が短いのか長いのかは、いささか迷うところ。
これまで生きてきた年数を考えると、もちろん短いのだが。仕事で京都に帰り、観光化された路地裏を目にした時は、ふと、浦島太郎のような気持ちにもなる。
ただ、京都の町全てが様変わりしたかというと、そうでもない。そもそも、同じ「京都」であっても、自分と関わりがない場所を知る機会など皆無。変わったねえなどと感想を持つ以前に、元の町の様子さえ知らないのだから、その前提が欠ける。
逆をいえば。
自分の行動範囲の町ならば、細部まで熟知しているといえるのかも。誰しも幼き頃に一度は経験するであろう「大冒険」。見慣れない通りを進み、発見したばかりの細い路地に入って、町の隅々まで探索する。もちろん、かくいう私もその1人。
特に、「伏見(ふしみ)」は生まれ育った町。
だから、知らないワケがない。見過ごすなど到底考えられないのである。
それなのに。
京阪電鉄「墨染(すみぞめ)」駅のすぐ近く。
なんでも、住宅街のど真ん中に、木造の大きな大仏様が鎮座されているというではないか。
今回は、そんな信じられない光景を伝えるべく、新緑の「欣浄寺(ごんじょうじ)」へとお邪魔した。
まさかとは思っていたが。
実際にその目で確かめると、ホントに言葉が出ないほど。
久しぶりに、取材先で愕然としたのはいうまでもない。加えて、いつもの如く、予想外の出会いもあり、大いなるパワーも頂く結果となった。
それでは、早速、ご紹介していこう。
じつは道元禅師ゆかりの寺?
今回訪れたのは、京阪電鉄「墨染」駅の踏切を少し下った住宅街。徒歩2分と予想外にも駅近の場所にある「欣浄寺(ごんじょうじ)」だ(※拝観には予約が必要です)。
お話を伺ったのは、欣浄寺の僧侶、横井慎秀(しんしゅう)氏。
「当寺には、曹洞宗の道元禅師(どうげんぜんじ)様でお参りされる方もいらっしゃいますし。もちろん、大仏様でお参りされる方も。深草の少将関連で来られる方もいます」
じつは、コチラのお寺。曹洞宗の開祖である道元禅師と深い関りがあるのだとか。
「道元禅師様は、『久我(こが)』のお生まれ。ここから西に車で5分、10分行けば『久我』なんですが。そこに『誕生寺(たんじょうじ)』というお寺があるんです。そこは道元禅師様がお生まれになった辺りで」
まずもって、出生地が京都という事実に驚いた。どうしても、「曹洞宗」と「道元禅師」という言葉からは、大本山永平寺のある福井県をイメージしてしまう。しかし、京都だったとは。それだけではない。宋(当時の中国)へと渡り、日本へと戻られたのちに閑居された場所も京都。そして、その場所となったのが欣浄寺なのだとか。
「厳密にいいますと、ここよりも少し北にあった庵なんです。中国からお帰りになり、たまたま伏見に空いているお堂があると。京の都で流布したかったんでしょうね。養生しながら、臨済宗など他の宗教が強い京都で、どうやって曹洞宗を広めていくかと、練られるワケですよ」
庵の名は「竹林山安養院(あんよういん)」
「道元禅師様はカリスマ性がある方なので、どんどん修行僧が増えた。大きくしないと住めないと、その境内地もしくは隣にお寺を建てる。それが『興聖寺(こうしょうじ』(※現在は宇治市にあります)です。有名になり過ぎて、あまり他の宗派からよく思われなかったと。一説には天台宗からの焼き討ちに遭われたというお話もあります」
異なる宗教間での争いなど、現在の日本ではあまりピンと来ない。しかし、かつての日本では、信仰が相容れない、信者を奪われるなど、様々な理由で激しい対立もあったようだ。ちなみに、この安養院も興聖寺も被害に。
「安養院にあった仏具などを、この欣浄寺に持ってきたんです。簡単にいうと、吸収合併みたいなものです」
当時の欣浄寺は、違う名前で呼ばれていたのだとか。
「『極楽寺』や『安養院別院』など、呼び方は色々。『欣浄寺』に変わったのは、江戸時代くらいやったかなと。欣浄寺は、『欣求浄土(ごんぐじょうど)』という名前から来ているんですよ。これは『曹洞宗』ではなくて、違う宗派が使う言葉なんです」
ちなみに、コチラの石像は、当時の「安養院」から移されたものだとか。
「木造だったので、ほとんど焼失していて。残っているのは、道元禅師様の石像。これは、道元禅師様の自刻像で、安養院にいらっしゃったときに、養生しながらご自分で彫られていたそうです。それくらいしか、今は残っていなくて」
なお、寺の記録によれば、欣浄寺の宗派は1つではない。
当初は「真言宗」。その後、京都を焼き尽くした「応仁の乱」のあとで禅宗(曹洞宗)に。天正・文禄年間(1573~1592)年では浄土宗となり、文化年間(1804~1818)年の江戸時代に再び禅宗(曹洞宗)に転じたという。こうして現在は、曹洞宗の大本山永平寺の末寺となっている。
誰が?何のために?深まる「伏見大仏」の謎
そんな欣浄寺の見どころといえば、やはり、本堂に鎮座されている大仏様。通称「伏見大仏」であろう。
「今はこっち(東の方向)を向かれてますけど、先々代住職の頃までは向こう(西の方向)を向かれていたんです」
つまり、現在とは180度向きが違うということか。
欣浄寺の本堂の裏手には駐車場があるのだが、元々はそちらの方向に向けて鎮座されていたことになる。
これは、当時の地理的状況と関係があるのだとか。欣浄寺の西側には師団街道(しだんかいどう)が走っており、当時はこの道がメインストリート。そのため、師団街道側から入るのを予想して、ちょうど大仏様が正面となるように置かれていたのだとか。ただ、本堂建て直しの際に、東向きに変えたという。
それでは、ここで待ちに待った大仏様のご登場である。
早速のご拝顔。
「大仏様は木造で、表面は和紙。彫刻師の方がみると、もともとは(和紙を)貼っていなかったんじゃないだろうかと」
実際に近くまでいって観察すると。
確かに、表面がなだらかではない。ところどころ、ぶわっと盛り上がっている部分も。ただ、それが立体的ではないのだ。質感からして、これが紙なら頷ける。
「大仏様を簡単に修復するとき亀裂部分に(紙が)貼ってあることが多いので、隠すためとか。一部、経本が貼ってある部分もあるので、願掛けとか何かを施してあるんじゃないかとか言われてます。ただ、当時は紙が貴重だったので、やむなく経本を使ったのかもしれませんけど。そういった部分も見受けられるので、もともとは普通の木像の大仏様だったと思いますね」
じつは、「伏見大仏」の存在を初めて知ったとき、何故だかもっと小さいお姿の大仏様だと勝手に思い込んでいた。だからこそ、驚いた。まさか、よもやこれほどまでとは。私のちっぽけな想像を遥かに超えるスケールだ。
「いや、日本の中では、木造でさらに大きい大仏様は他にまだあると思うんですよ。こちらの大仏様は、『最大級』という位置に属します」
よくいわれる「丈六(じょうろく)の大仏」様。それは、その仏様の立ち姿の大きさなのだとか。つまり、身長が一丈六尺あるという意味。だいたい4.9~5.2mの大きさの大仏様を指す。ただ、コチラの「伏見大仏」はというと。
「座っている状態で、既に一丈六尺あるんですね。そういう意味では、木造では『最大級の大仏』だと言われています。もちろん、近年ではもっと大きい大仏様も建立されているだろうし。ただ、当時では最大級やったと思いますね」
ちなみに、「当時」とはいつ頃かというと。
なんと江戸時代中期。
それにしても、浮かぶ疑問はただ1つ。
一体、誰が。
そして、何のために造立したのかというコト。
この欣浄寺にも幾つか言い伝えはあるのだが。どれが事実でどれが正しいのか、定かではないという。学者によっても内容は様々。欣浄寺のご住職も、大仏様のいわれねえと、少々戸惑った様子。
そのうちの1つをご紹介しよう。
「大仏様が造られた理由というのは…。私が聞いているのは、そこに『橦木町(しゅもくちょう)』という町内があるんです。昔、遊郭(ゆうかく)だったと言われた場所で、今も大門の柱の跡があるんですけれども」
遊郭とは、簡単にいえば幕府公認の遊女屋だ。京都市歴史資料館の情報によれば、慶長9(1604)年に橦木町遊郭が開設されたという。赤穂浪士でおなじみの大石良雄(通称は内蔵助)も敵方の目を欺くためこの地で謀議したとも。
「その橦木町に大日如来のお堂があったんですね。それが壊されることになって、それで師団街道側にはそういうものがないからと。大日如来のお堂をこちらへ建てようかと話があったと」
なお、ご住職の話では、この大日如来像も欣浄寺にあるのだとか。ただ、詳細は口伝として残っているのみ。そのため、現在安置されている大日如来像が、実際に持って来られたのか、元々あったのかは分からないという。
「じつは『大仏』様を『毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)』と言いますけどね。昔は同じように『大日如来』と言っていたんですよ。今は、宗教的観点から言い分けていますけどね。だから、大日さんというイメージで、こちらに、その毘盧遮那仏を建てるといった話があったと聞いています」
こんなにも、ご立派な大仏様だというのに。確かな経緯が分からないとは、歯がゆい限りである。話を聞けば聞くほど、その謎は深まるばかり。
そんな私に、極めつけのご住職の一言。
「ここは秀吉のお膝元ですから」
確かに、生前の豊臣秀吉は、えらく大仏建立にこだわっていた。
おっと。まさかの、ここで秀吉なのか?
「秀吉さんの大仏を建てる願い、伏見の方で動いて建てたんじゃないかという話もあったりして。ただ、これも記録がないので、口伝とか噂とか、色んな学者さんの話とか。特にこれっといった確実な履歴はないんです」
「深草の少将」に「龍神の池」?見どころ満載の欣浄寺
「伏見大仏」のミステリーに痺れつつ。
いやいや、欣浄寺のみどころは1つで終わらない。
「当寺は『深草の少将』の邸宅の跡地といわれています。話では、絶世の美人として名高い『小野小町(おののこまち)』に恋し『百夜通い』をするも、実らぬ恋で終わるというのが定番で。これも、話す人によって幾つか結末が違ったりして」
ご住職曰く、じつに「百夜通い」の話には、3、4種類の結末があるという。
「もともとは99日目か100日目で、『小野小町』の元へと通う道中で凍死されるとのお話で。ただ、死んだとなると、子どもたちにあまり影響が良くないからと、なかには『振られた』という結末もあります」
偶然にも、深草の少将の代わりにその日だけ使いの者が行き、これまた偶然にも、いつもは部屋から出てこない小野小町が、その日だけ姿を見せる。そうして、これまで自分の元に通っていたのは使いの者だったのかと思い込み、あっさり振ってしまうという筋書き。どちらかというと、自然に抗えない凍死よりも自業自得感満載のこちらの方が、個人的には無念さが増すように思うのだが。
「東北にも小野小町伝説が残っていて。じつは東北に深草の少将をお祀りしているお寺もあるんです。ただ、最終的には悲恋モノで、どの結末でも幸せにはならなかったみたいです」
そんな悲しき恋の負け組となる深草の少将にちなんで、「少将の通い道」なるものがあるのだとか。訴訟のある者は、この道を通れば願いが叶わないとも。ただ、ご住職に確認すると、つれない返事が。
「少将の通い路? 私も聞かされていましたけど、もうないんです。たかだか100日間歩いただけですからね。今はもう住宅街ですし」
ただ、欣浄寺の境内に立ち、悲恋話のヒーロー的存在たる深草の少将に思いを馳せることはできる。この場所に邸宅が…と、想像するのも楽しみ方の1つだろう。
さてさて、欣浄寺の境内には、他にもおススメの場所が。
「小野小町が来られた時に鏡の代わりに姿を映した『姿見の池』です。先代の時に(池を)小さくして、今は庭園のようにしていますけど。私が子どもの頃はもっと大きくて2倍くらい。池の先の方は崖みたいになっていて。自然のため池だったんですね」
信じられないが、先々代の頃には、本堂の裏側にある駐車場の辺りまで池が広がっていたのだとか。
「池の中にぽつんと寺があって。金閣寺みたいな感じだったんですよ。ほとんどの敷地が池やったんですね。池を歩いてるのか、石畳なのかわからんくらいで」
池の中に浮く本堂。
聞いだだけで、もう空想が弾け飛ぶ。なんとも幻想的な景色だったに違いない。
さらにさらに。それに加えて、コチラの池。
じつは、龍神様がいらっしゃるのだとか。
「ある日突然、大阪から風水師の方が来られて。風水を頼りにこの場所を探し当てられたみたいで。その方がいうには、この龍神の池は強力なパワースポットだそうです」
私事で恐縮だが。何故か最近、龍神様にお会いする確率が高いと感じる。
つい先日も、偶然立ち寄ったお寺が、なんと龍神様と深い関わりがあると知って驚いたばかり。別に狙ったワケではないのだが。結果的に、何度もお会いすることが多いのだ。それも自然にである。
そして、今回の取材である。
全くもって予想外の出会い。だからこそ、余計に有難さが増幅する。
欣浄寺を訪れた際は、是非とも龍神様のパワーに触れて頂きたい。
(※欣浄寺の拝観は、予約が必要となります)
最後に。
今回の取材後記は、ご住職の話。
「もともと『深草』は、地名の通り草が生い茂っていた場所。住職がいなくなったところに新しい住職が入って。それも違う宗派だから、寺の宗派が変わる。簡単にいうと、途中何代かで絶えてるんですよ。古い書物がないのもそれが理由だと。だから正確に私が何代かは分からない。曹洞宗からだと10代以上は続いています」
ご住職の場合、先代はお父上なのだが、その先々代はお父上の師匠の師匠。血縁関係はないのだとか。仏の道を目指されたのも、比較的早い時期からだという。どちらかというと、進路に迷うような時間的余裕もなく、お父上の代わりにと、自然に決まっていったそうだ。
「迷ってはいない。ただ、進みたいっていう意気込みはなかったですよ」と話すご住職。
つい、言葉通りの意味に捉えがちだが。ここで、1つの言葉を教えて頂いた。
「威儀即仏法 作法是宗旨(いぎそくぶっぽう、さほうこれしゅうし)」
「『威儀』とは身なりのコト。身なりを整えたら仏法が勝手についてくる。よく分からないが、分からないなりに作法を行っていたら、仏教の宗旨がついてくる。形からやっていれば、勝手に自ずから全部ついてきますよっていうコトです」
なるほど。いつもながら、仏教の言葉には、つい唸ってしまう。
確かにそうだ。最初は形から。なんならワケが分からずに真似るだけでも、次第にその本質が見えてくることがある。目の前にあったモヤモヤした霧が、一気に晴れるその瞬間。そうだったのかと、頭ではなく身体が理解するような感覚といえばよいのか。
ご住職は「得度(とくど)」を小学生の頃に終え、大学生時に休学して永平寺で修業されたとか。復学してからは、大学の講義と寺でのお参りという二足の草鞋(わらじ)生活。卒業してからは、ここ欣浄寺をお一人で守られているのだそうだ。
「『得度』は、お坊さんになりますっていう式。だから、そういう気持ちはあったんだろうなと。その時は余りにも小さかったので、私も鮮明には覚えていないんです」
先ほどのご住職の言葉が甦る。
迷いも意気込みもない。それは、単純に「能動的でない」という意味合いではない。あまりに自然な流れで、仏の道へと人生が形作られていたというコトなのだろう。
幼い頃は分からずとも、身に付けた作法をただひたすら繰り返す。いつかは分からない。ただ、それは確実に、仏の教えに結び付く。
そうして。
知らず知らずのうちに、自ずと道が開けるのかもしれない。
基本情報
名称:欣浄寺(ごんじょうじ)
住所:京都市伏見区西桝屋町1038
※欣浄寺拝観の際には、予約が必要となります。