2013年の「新語・流行語大賞」に選ばれた「お・も・て・な・し」。日本のおもてなし文化は、現代に限ったことではありません。戦国時代にもおもてなし精神を遺憾(いかん)なく発揮した武将がいました。それは織田信長です。
永禄10(1567)年、稲葉山城(後の岐阜城)を手中に収めた信長は、それまで井口(いのくち)と呼ばれていた町に岐阜と名前を付け、天下統一の拠点とします。そして岐阜を訪れる有力な大名や公家、商人たちを手厚くもてなしました。そのひとつに、長良川で行われていた鵜飼(うかい)見物があります。
ですよね。鵜飼って聞いたことはあるけれど、直接見たことはないという人も多いはず。本来の鵜飼は日本古来の伝統漁法のひとつで、かつては全国各地の河川で行われていました。
長良川流域の鵜飼は1300年以上前に始まったとされ、現代では観光鵜飼として多くの人々に愛される一方で、古式ゆかしい漁としてのかたちを色濃く残しています。
この記事では長良川流域に残る「ぎふ長良川鵜飼」(岐阜市)と「小瀬(おぜ)鵜飼」(関市)の魅力や楽しみ方をたっぷりとご紹介します。
これだけは知っておきたい!長良川の鵜匠と鵜のヒミツ
二つの鵜飼を体験する前に、知れば鵜飼が10倍楽しくなる「5つの基礎知識」を教えましょう。
1.全国唯一! 長良川流域の鵜匠(うしょう)は宮内庁式部職
鷹狩りで鷹を飼育し、訓練する人を鷹匠(たかじょう)といいますが、鵜飼を職業とする人を鵜匠(うしょう)と呼びます。長良川流域には現在「ぎふ長良川鵜飼」6人、「小瀬(おぜ)鵜飼」3人の合わせて9人の鵜匠がいますが、彼らは全員、公務員。「宮内庁式部職(くないちょうしきぶしょく)鵜匠」というのが正式の役職名です。
「宮内庁式部職鵜匠」は全国で岐阜県の9人だけ。長良川では今も「御料鵜飼(ごりょううかい)」と呼ばれる皇室に納める鮎を捕る鵜飼が、長良川の2ヶ所で年に8回行われています。
2.「鵜吞みにする」でおなじみ!鵜は凄腕ハンターだった
視力に優れたハンターの鵜。多い時には60〜100匹ぐらいの魚を捕獲するといわれ、咬まずに丸呑みするところから、“鵜呑みにする”(鵜が獲物をかまずに丸呑みすることから、言われたことが正しいかどうか調べたりせず、そのまま受け入れること)という言葉が生まれました。
ちなみに、鵜飼で活躍する「鵜」はカワウ(河川に住む鵜で、留鳥)ではなく、ウミウ(海に住む鵜で、本来渡り鳥)。茨城県十王町の伊師浜(いしはま)海岸のみが捕獲地と決められているんです。
3.2羽で1組!鵜は気の合う「バディ」で行動する
鵜匠は気の合う鳥同士をペアで飼育しますが、このペアを“カタライ”といいます。鵜匠は捕獲された鵜が送られてくると、鵜どうしを組み合わせてカタライを作ります。いったんカタライとなった鵜同士はとても仲良くなり、鵜飼の時だけでなく、日常生活でも行動を共にするそうです。
4.寿命も伸びる!?鵜と鵜匠はかけがえのないパートナー
鵜と鵜匠は操る者、操られるものという間柄ではなく、かけがえのないパートナー。鵜匠たちは常に鵜の体調管理や健康状態に気を配りますし、鵜飼のシーズン前後には鵜の健康診断と予防接種は欠かせません。鵜飼のある日にはその日の鵜の健康状態をチェックして、鵜飼に連れて行く鵜を選びます。漁の後には鵜を鵜籠(うかご)に戻しますが、食べ足りない鵜にはエサを与えることも。年を取って漁ができなくなっても、最期まで鵜匠は鵜を大切にして世話をします。
5.ロマンチック?鵜飼は満月の日がお休み
長良川流域の鵜飼の期間は毎年5月11日から10月15日まで。大雨で増水したり強風が吹いたりした場合などは、そして9月か10月の中秋の名月の頃の1日はお休みです。(ぎふ長良川鵜飼の場合)。なぜ、満月には鵜飼が休みになるのでしょうか?
いえいえ。正解は、満月には鮎があまり捕れないからです。鵜飼は川底で寝ている鮎を篝火(かがりび)の灯りや舟端を叩く音で起こし、寝ぼけてあたふたしているところを鵜に捕獲させる漁法です。ですから満月で明るい夜は篝火の効果がなく、鵜飼には向かないのです。昔は月が明るい夜は月が沈むのを待って鵜飼をしたそうです。
いよいよ体験!「ぎふ長良川鵜飼」
「ぎふ長良川鵜飼」の乗船場は長良橋のたもとにあり、ここから南西へ延びる街並みを通称川原町(かわらまち)といいます。この辺りはかつて長良川の川湊(かわみなと)でした。水運を利用して運ばれる美濃和紙や材木など長良川流域の特産物が集積し、各地へと運ばれる一大拠点だったのです。
うなぎの寝床のような奥行きのある細長い町家や格子戸のある古い街並みには、町家を活用したレトロモダンなカフェなどが軒を連ね、新たに若者を引き付ける魅力あるスポットとなっています。
出船前には鵜匠が鵜飼を解説
日が落ちて出船時間が迫ってきました。舟溜(ふなだ)まりにはたくさんの屋形船が停泊しています。この日は乗船前に山下哲司(やました てつじ)鵜匠によって、長良川鵜飼の歴史や鵜匠の装束の意味、鵜飼の手順などについて解説が行われます。
篝火の火の粉が中に入るのを防ぐため胸当(むねあて)をし、下半身が冷えないように腰蓑(こしみの)をつけます。頭に巻くバンダナのような布は「風折烏帽子(かざおりえぼし)」という風流な名前。黒または紺の麻布でできており、火の粉で髪や眉毛が焼けるのを防ぐのだそうです。
芸妓 さんに会える! 長良川の船遊び
午後6時、出船の時間となりました。船頭さんのあいさつの後、船は長良川を上流へとゆっくり進んでいきます。
かたわらを鵜匠を乗せた舟が追い越していきました。鵜舟は「まわし場」と呼ばれる鵜匠や船頭たちの待機所へと向かいます。“まわし”とは岐阜弁で“準備する”という意味です。舟や道具の“まわし”はすでに午前中から始まっています。その日連れて行く鵜はおなかをすかせておくためにエサをやらずに籠へ入れておき、鵜匠は早めに夕飯を済ませて川の上流にあるまわし場で待機。出漁間際になるとくじ引きをして、その日の漁の順番を決めます。
川面(かわも)を渡る夜風はとても心地よく、昼間の猛暑がうそのよう。やがて観覧船は長良川の中ほどにある広い川原に着岸しました。正面には、岐阜城を頂く標高329mの金華山がぬっとそそり立っています。
船の上では喜久次さんが長良川鵜飼にゆかりのある『かざをりゑぼし』の舞を披露。続いて芸妓(げいこ)デビューして一年という多満次(たまじ)さんの『鵜飼して』が始まりました。芸妓さんをこんなに間近で見るのは初めて!
花火を合図に鵜飼がスタート!
ヒュルヒュルヒュル ドーン! 空に大きな花火が打ち上がりました。鵜飼の開始を知らせる合図です。やがて川上から篝火をともした鵜舟が1隻ずつやってきました。鵜舟は6隻。それぞれの舟に鵜匠を含めた3人が乗船。観覧船は鵜舟1隻に並走する形で川下へと下っていきます。これを「狩り下り」といいます。
篝火に照らされ、間近で見る鵜飼に観客は目を奪われます。鵜匠は鵜を励ますために「ホウホウ」と声をかけながら10〜12羽の鵜を一人で操ります。ドンドンと舟端をたたき、篝火で水面を照らすことで眠っていた鮎が「何事か」と驚いて目を覚ましたところを、待ってました! とばかりに鵜がゴクンと呑み込むのです。鵜ののどと羽の下には、それぞれ「首結い(くびゆい)」・「腹かけ」という手縄が巻かれ、小さな魚は鵜の胃袋に収まりますが、大きな魚は喉元の手縄で止まります。
十数本の手縄を操りながら、鮎を丸呑みした鵜を舟に引き上げて鮎を吐き出させると、また鵜を水に放ちます。それぞれの鵜の体調に配慮して調整された手縄で、鵜匠さんとの信頼関係のもと、貪欲に獲物を追いかける鵜たち。小さな魚はおなかに入り、漁の間もエネルギー補給ができるようになっています。
フィナーレは全6艘打ちそろっての「総がらみ」
狩り下りが終了すると、鵜舟は再び川上へと向かいます。いよいよフィナーレ! 屋形船が乗船場手前の川岸で見守る中、6艘が横一杯に広がって魚を追い込む「総がらみ」がスタート。暗い水面に篝火が一筋の光の帯を描きながら動いていく様子はとても美しく、昼間見る長良川とはまた異なる魅力的な光景でした。
ぎふ長良川鵜飼 観覧情報
開催期間:2021年5月11日~10月15日 ※ただし、鵜飼休み(9月21日)及び増水等で鵜飼ができない日は中止となります。
開催時間:19:45頃 ※時季やイベントにより変動があります。
料金:平日大人3,200円〜、小人1,800円 ※詳細は公式サイトをご覧ください。
公式サイト:https://www.ukai-gifucity.jp/Ukai/
2夜目は「小瀬鵜飼」を体験!
岐阜市から長良川を遡るとそこは関市。刀工として有名な「関の孫六」などを輩出した日本有数の刃物の町です。関市を流れる長良川にかかる鮎ノ瀬橋(あゆのせばし)のたもとに、小瀬鵜飼を継承する3人の鵜匠の1人・足立陽一郎(あだち よういちろう)さんが経営する天然鮎料理旅館「鵜の家足立(うのいえ あだち)」があり、その前が乗船場です。
築300年余の古民家で鵜と暮らす「鵜の家足立」
宮内庁式部職18代目鵜匠である足立さんの先祖は足立新兵衛義利(あだちしんべえよしとし)といい、「小瀬鵜飼」の祖とされる人物。信州の朝日家(木曽義仲ゆかりの家柄か?)に生まれたと伝えられていますが、諸事情により美濃の小瀬に来て足立与三右衛門(あだちよざえもん)家の寄人(よりうど:職員)となり、代々足立新兵衛を名乗るようになったといわれています。
足立与三右衛門は美濃国の守護職・土岐氏から御用網漁を許され、小瀬付近一帯の漁業権を握っていた人物で、足立新兵衛は後に小瀬一帯の漁業権を彼から譲り受け、鵜匠たちによる鵜飼漁を統括するようになったようです。
「鵜の家足立」の母屋は築300年余の古民家。正面玄関から見たその堂々としたたたずまいに驚かされます。整然とした石畳、広々とした庭と美しく手入れされた庭の木々。皇族がお越しになったこともあり、15代目と親しかった日本画家・川合玉堂(かわいぎょくどう)なども何度か母屋を訪れ、四季折々の鵜の姿をデッサンしたとのこと。
20羽の鵜もここで暮らしています。広々とした中庭はこの家の中心。大きな松の木や鵜の水浴び用の広いプール、庭石などが置かれ、オフの鵜たちが思い思いに羽を休めています。
たくさんの人間たちに見つめられてちょっと落ち着かない様子の鵜たち。こちらもこんなにたくさんの鵜を一度に見たのは初めてで、ちょっと緊張しながら様子を見守っていました。その間も鵜を落ち着かせるためか、足立さんは常に鵜の首のあたりを愛おしそうに撫でています。鵜飼終了後には鵜に餌を与える様子を見学できるとのこと。鵜は鵜匠にとっては家族同然の間柄なのです。
鮎料理のフルコースを味わいながら、お座敷遊び初体験!
小瀬鵜飼では屋形船の大きさの関係で、船遊びはできません。そこで鵜飼の前に「鵜の家足立」で鮎料理のフルコースを味わいながら、岐阜市でもお世話になった「鳳川伎連」の喜久次さんと多満次さんによるお座敷遊びを初体験しました。
喜久次さんは10年ほど前に、江戸・明治から伝わる遊宴文化(ゆえんぶんか:岐阜の舞妓さん、芸妓さんたちと宴を催す文化)を後世に伝えたいと岐阜市で「鳳川伎連(ほうせんぎれん)」を立ち上げました。現在代表を務めるかたわら、幇間としてお座敷にも出ており、岐阜県で盛んな地歌舞伎(じかぶき:地元の人が役者になって神社の祭礼などで演じて来た歌舞伎)の振り付け指導なども行っています。幇間は全国で9人しかおらず、そのうちの2人が岐阜市にいます。
お座敷遊びなんてハードルが高くてとっても無理! それにマナーも知らないし……と尻込みしていましたが、心配は無用でした。料理が運ばれてくるのを見計らい、潤滑油のように座をなごませ、宴席でのマナーや常識、酒席を健康に楽しむためのコツをそれとなく教えてくれるのが喜久次さんたち芸者衆。「お座付き」といって芸者衆が食事の途中で披露する季節の舞や唄を鑑賞するなど、とても打ち解けた雰囲気で気楽に過ごすことができました。
喜久次さんたちは今後もお座敷遊びや船遊びを通じて、こうした岐阜ゆかりの物語を紡いでいきたいとも考えています。
闇の深さと静けさが最大の演出効果をもたらす小瀬鵜飼
楽しい宴席の〆は地元に伝わる『おばば』の唄。川岸から空を見上げると燃えるような夕焼け! 川面もばら色に染まっていました。まもなく乗船です。
小瀬鵜飼の漁場は鮎ノ瀬橋から北へ700mほど遡った角野(かくの)と呼ばれる淵の辺りまで。ここまでゆるやかに北上してきた長良川は角野でほぼ真北に進路を変え、郡上八幡方面へと続いています。この辺りは小瀬峡谷と呼ばれており、同じ長良川流域とはいえ、岐阜市とはまったく異なる世界が広がっていました。
河岸段丘(かがんだんきゅう:川の流れに沿って形成された階段状の地形)による独特の景観、川岸近くには荒々しい岩が連続模様のように続き、対岸には木が生い茂り、苔むした石垣のようなものが残っていて、川はところどころ小さな渦を巻いています。手つかずの自然の荒々しさそのままに、一昔前の素朴な鵜飼の形を今に伝える小瀬鵜飼こそ、信長、家康たちが愛した本来の鵜飼により近いと言えるでしょう。
小瀬鵜飼では、鵜舟も観覧船も100%手漕ぎ。心地よい揺れに身を任せ、耳を澄ますと聞こえるのはセミの声とキイ、キイという櫂(かい)の音、タプタプという船に当たる水の音だけ。漁場の周囲には人口の照明がほとんどなく、船の灯りも提灯のロウソクのみ。鵜飼の時は橋の照明も落としているのだそうです。
辺りが薄暮から真の闇に変わり、掌(てのひら)の筋が見えなくなったころ、川の中ほどにある浅瀬で待機していた遊覧船は上流から下って来た鵜舟について狩り下りを始めます。今日の鵜舟は2隻。小瀬鵜飼の鵜舟はぎふ長良川鵜飼のものより舟の反りが少し大きくなっています。これは小瀬鵜飼の方が上流にあって、急流での漁が多いからだそう。
鵜舟と観覧船の距離はとても近く、鵜匠の真剣な表情や鮮やかな手縄さばき、鵜が水にもぐって魚を捕る様子もはっきりと見えます。鵜飼はショウではなく、鵜匠と鵜と鮎の命を懸けた真剣勝負。一瞬たりとも気が抜けません。漁の成果もさることながら、それは命の危険にもつながります。
篝火が揺れ、火の粉が華のように舞い散って、松割木(まつわりき)の燃える匂いが漂ってきます。背景にあるのは漆黒の闇。それこそ小瀬鵜飼最大の演出効果です。
鵜飼が終わって足立さんは、ところどころに鵜の歯形がついた鮎を見せてくれました。鵜飼で捕られた鮎は鵜鮎(うあゆ)と呼ばれ、昔から高値で取り引きされる貴重品。市場に出回ることはまずありません。鵜に咥えられて一瞬で〆(しめ)られた鮎は鮮度が保たれ、身が引き締まってとてもおいしいのだそう。鮎を焼く時にじみ出る油も格別です。
乗船場に戻った時、多満次さんの目にはうっすら涙が浮かんでいました。「小瀬鵜飼を見ていたら、なんとなく芭蕉の『おもしろうて……』の句が浮かんで来たんです」と。実は私も同じ思いでした。
松尾芭蕉は生涯で4度岐阜県を訪れており、貞享5(1688)年の2度目の滞在中、長良川河畔で鵜飼見物をした芭蕉はこんな句を詠んでいます。
おもしろうて やがてかなしき 鵜舟かな
鵜飼の後に残るのは名残(なごり)惜しさと寂寥感(せきりょうかん)。そして生きるためには何かを犠牲にしなければならない、人間の業(ごう)に対する哀しみ……真偽のほどはわかりませんが、鵜飼見物以降、芭蕉は魚を食べなくなったという話も伝えられています。
小瀬鵜飼 観覧情報
開催期間:2021年5月11日~10月15日
開催時間:18時50分頃 ※時季やイベントにより変動があります。
料金:乗合大人3,400円、小人2,400円 ※詳細は公式サイトをご覧ください。
公式サイト:https://www.ozeukai.net/
9月・10月開催イベント「小瀬鵜飼幽景」
2021年9月から10月にかけて幽玄な小瀬鵜飼をより深く味わうことができる限定企画「小瀬鵜飼幽景」が開催されます。鵜匠が営む川沿いの料亭でのお座敷遊びや関の刃物を楽しむツアーの後は、この企画のためだけに誂えた観覧船に乗って、特別な鵜飼の夕べをお楽しみください。
※岐阜県に発出された緊急事態宣言を受け、9月12日まで「小瀬鵜飼幽景」で予定していた全てのイベント、シャトルバスの運行を中止いたします。何卒ご理解のほどよろしくお願い申し上げます。
公式サイト:https://ozeukai-yukei.net/
あなたもか!長良川の鵜飼を愛した偉人と歴史
二つの鵜飼、いかがでしたか? 現在、日本各地では十数カ所で鵜飼が行われていますが、長良川流域の鵜飼はその代表格! 都から遠く離れた美濃国の鵜飼が、なぜこれほど知られるようになったのでしょうか? それには戦国武将・織田信長の庇護(ひご)がありました。
鵜飼で細やかなおもてなしをした織田信長
手向かうものには容赦をしない残虐で冷徹なイメージのつきまとう信長ですが、一方でとても繊細な面を持ち合わせていました。永禄11(1568)年、信長の長男・信忠と武田信玄の娘・松姫との婚約が成立し、武田方の使者が贈り物を届けに岐阜を訪れます。この時、信長は使者を手厚くもてなし、岐阜滞在3日目に彼を鵜飼観覧に招待。使者が乗る船を信長の船と同様に仕立て、鵜飼で捕れた貴重な鮎を自分で選んで信玄に贈るなど大変心細やかな心遣いを見せています。そして漁師たちを「鵜匠」と呼び、禄米十俵を与えて彼らを保護したと伝えられています。
鮎鮨の味に惚れ込んだ徳川家康
元和元(1615)年、徳川家康と秀忠親子は大阪夏の陣の帰り道に岐阜に立ち寄り、鵜飼を観覧したと伝えられます。豊臣家を滅ぼしてやれやれといったところだったのでしょうか。
この時、家康は鮎鮨をたいそう気に入り、同年から鮎鮨の献上が始まりました。後に長良川は尾張徳川家の支配となり、鵜匠も尾張藩に属し、その庇護を受けるかわりに鮎を納めることになりました。鵜匠には給料として米が与えられ、川を自由に航行したり、鵜飼のシーズンオフには鵜を普段の漁場以外の川や湖などに連れて行って自由に魚を捕らせることが許されるなどさまざまな特権が与えられました。
鵜飼が見たくて再来日したチャップリン
明治に入り、江戸幕府の滅亡とともに長良川の鵜飼に対する保護もなくなり、鵜匠を辞める人も出てきました。しかし、多くの人々の尽力の結果、明治23(1890)年に長良川の鵜匠は宮内庁の直轄となり、同31(1898)年には観光鵜飼が本格化。国内外の高官や貴賓(きひん)も見物に訪れるようになりました。
太平洋戦争から5年間、観光のための鵜飼は中止されましたが、昭和22(1947)年には復活。観客も昭和30(1955)年には10万人を突破。同36(1961)年には喜劇王・チャップリンも鵜飼を見物に訪れています。
実は、チャップリンが鵜飼を見たのはこの時が初めてではありませんでした。初回は同11(1936)年。京都見物の帰りに岐阜に立ち寄り、結婚したばかりの妻とその母親とともに、大好きな天ぷらを食べながら鵜飼を見物したのです。彼は「Wonderful!」を連発し、鵜匠を“artist”と呼んで絶賛しました。この時の印象がよほど心に残ったのでしょう。25年後に再度、鵜飼を見に岐阜を訪れた72歳のチャップリンは「妻と子どもに美しい日本を見せたい」と語ったそうです。鵜飼は彼にとって忘れられない日本の美のひとつでした。
鵜飼の緊急課題は、船大工や船頭の育成
1300年以上の歴史があり、今もシーズン中は全国から十万人を超える人々が訪れる長良川流域の鵜飼ですが、いくつか解決しなければならない課題も残されています。
そのひとつは鵜舟を造る舟大工(ふなだいく)の後継者育成です。最近までは美濃市に住む那須清一(なす せいいち)さんという方が長良川流域で唯一の舟大工として長良・小瀬の鵜舟や屋形船、鵜飼以外の川漁師をさんの船をはじめとする数多くの注文を受けてきました。那須さんは昭和6(1931)年生まれ。今年で90歳! 高齢のため舟を造る事が難しくなりました。
中学生の頃から夏休みや日曜日などを利用して、船大工であった父の俊治郎さん(しゅんじろう)について少しずつ手伝いをするようになり、高校卒業と同時に父に弟子入りして本格的に船大工の修業を始め、一人で舟の注文を受けるようになりました。以来造った舟の数は約600艘! 子どもの頃から父と一緒に鮎漁をしていたことも鵜舟を造るのにとても役立ったといいます。鵜舟は使う人の体形や漁をする川の様子や流れの速さに合わせ、使い勝手のいいように一隻一隻工夫して造ります。すべてがオリジナルですから図面は存在しません。
鵜舟を造るのに最も重要なのは水漏れしないようにすること。そのためには「すり合わせ」や「木殺(きごろ)し」といった特殊な技術が必要になります。また鵜舟造りには独特の「かさ釘」と呼ばれる釘が必要ですが、最近は入手も困難になりました。
若い頃、若い頃那須さんのもとで修業した田尻浩(たじり ひろし)さんという人が、長良川上流の郡上市で船大工をしているほかは、那須さんの技術を受け継いで仕事をしている人はいません。
鵜飼に鵜舟は不可欠。鵜舟がなければ鵜飼はできません。平成29(2017)年には長良川の鵜舟の造船技術を記録・継承するため、「岐阜県立森林文化アカデミー」准教授の久津輪雅(くつわ まさし)さんが企画して、和船の研究者でもあるアメリカ人のダグラス・ブルックスさんらを中心に、那須さんの指導の下、「鵜飼舟プロジェクト」が発足。。1 艘の鵜飼舟を造り上げ、東京文化財研究所が一部始終を映像で記録し、完成後は「⾧良川うかいミュージアム」で報告会と進水式を行いましたが、後継者の育成にまでは至りませんでした。
このままでは鵜舟の製造技術が絶えてしまうことを心配した岐阜市は、那須さんに協力を依頼し、鵜飼の観覧船を手掛ける市営の造船所で鵜舟の新造に着手。途中から郡上八幡の船大工で那須さんの弟子にあたる田尻さんも応援に駆け付け、無事に完成。現在は予備の舟として保管されています。
今後はさらに後継者の育成に取り組むとともに、鵜飼に携わる船頭や鵜飼で使用する道具などの制作者も育成していく必要がありそうです。
近年、鵜飼を取り巻く環境はコロナ禍や地球温暖化などの影響を受け、大きく変化しています。しかし、これまでにも鵜飼を愛する多くの人々の努力で幾多の危機を乗り越え、今に至っています。長良川流域の鵜飼は鵜飼の関係者だけでなく、未来に遺したい日本の宝物。ぜひ、より多くの方々に鵜飼を見ていただき、その魅力にハマっていただけたらと思います。