奈良県桜井市にある聖林寺の十一面観音立像は、8世紀後半の奈良時代につくられたと推測されています。本来仏像は鑑賞するためではなく拝むものですが、この十一面観音は、優雅な表情、均整のとれた体軀、姿勢やしぐさの美しさが、人々の信仰を集めてきたことに間違いはないでしょう。
アメリカ人の美術研究家であるフェノロサや、著作家の白洲正子など、様々な人々がその美しい姿に心酔しました。彼らは、十一面観音に何を思ったのでしょうか。
撮影/土門 拳 昭和39(1964)年に撮影された、土門拳の仏像写真を代表する1枚。
美術研究家・フェノロサ
明治になって廃仏毀釈を逃れるように聖林寺におさまった十一面観音立像。秘仏とされていたこの仏像の美しさが世に知られたのは明治20(1887)年のことです。アメリカ人の哲学者で美術研究家でもあるフェノロサによって禁が解かれ姿を現しました。
このときフェノロサは「この界隈にどれ程の素封家(資産家)がいるか知らないが、この仏さま一体にとうてい及ぶものでない」と語ったとか。
以降、その魅力はあまたの作家や芸術家を魅了してきました。
文学者・和辻哲郎
大正8(1919)年、古寺ブームの先駆けとなった『古寺巡礼』を出版した、文学者であり哲学者であった和辻哲郎(わつじてつろう)はこう書いています。
きれの長い、半ば閉じた眼、厚ぼったい瞼、ふくよかな唇、鋭くない鼻、―すべてわれわれが見慣れた形相の理想化であって、異国人らしいあともなければ、また超人を現わす特殊な相好があるわけでもない。しかもそこには神々しい威厳と、人間のものならぬ美しさとが現わされている。(和辻哲郎『古寺巡礼』より―初出『思潮』大正7年10月号)
著作家・白洲正子
昭和7、8年ごろ、和辻の『古寺巡礼』をたよりに聖林寺を訪れたのは白洲正子(しらすまさこ)です。当時この十一面観音は本堂の端で厨子ともいえないような板囲いの中にあり、住職が奈良盆地を見下ろす東側の雨戸を開けた瞬間の驚きはこうでした。
さしこんで来るほのかな光の中に、浮び出た観音の姿を私は忘れることが出来ない。それは今この世に生れ出たという感じに、ゆらめきながら現れたのであった。その後何回も見ているのに、あの感動は二度と味えない。世の中にこんな美しいものがあるのかと、私はただ茫然とみとれていた。(白洲正子『十一面観音巡礼』より)
写真家・土門拳
最後に紹介するのは、やはりこの十一面観音に魅せられた写真家、土門拳(どもんけん)の言葉です。古寺の伽藍や仏像を独特の目線でファインダーにおさめた写真集『古寺巡礼』に、彼はこう書き残しました。
わたしは、聖林寺十一面観音を何時間もみつめているうち、フト、これは三輪山の神大物主の化身ではないか、と思えて仕方がなかった。それは菩薩の慈悲というよりは、神の威厳を感じさせた。(土門拳『古寺巡礼』より)
聖林寺十一面観音立像 国宝 天平時代(8世紀後半)木心乾漆造 漆箔 像高209.1㎝
あまたの作家たちが賞賛した天平の美仏。その美しい姿を拝見しに、聖林寺を訪ねてみませんか?