日本文化の
入り口マガジン
3月1日(月)
恋しという気持ちは目の前にないものに対しておこるもの。
(古今和歌集岩波文庫脚註より)
日本文化の入り口マガジン 和樂web
日本文化の入り口マガジン 和樂web
2月25日(木)

恋しという気持ちは目の前にないものに対しておこるもの。
(古今和歌集岩波文庫脚註より)

読み物
Travel
2021.02.07

JAPAN BLUEでうだつが上がった!暴れ川を味方にして栄えた藍の町「脇町」【徳島】

この記事を書いた人
この記事に合いの手する人

この記事に合いの手する人

「JAPAN BLUE」として知られる日本の藍(あい)。特に徳島産の藍は「阿波藍」として全国に知られています。美馬市脇町は、藍で財をなした豪商らが建てた商家が430mに渡り残っており、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。「うだつが上がらない」という言葉はよく知られてますが、脇町は藍でうだつが上がった町(一般的には「うだつが上がらない」という否定形で使われる)。“四国三郎” と呼ばれる暴れ川・吉野川の氾濫を味方にして藍栽培が行われたこの地で、かつての繁栄の歴史が感じられる町並みをご紹介します。

そういえば「うだつ」って何だろう?

うだつの町並み「脇町」

卯建とは

卯建(うだつ)とは二階の壁面から突き出た粘土質の土でできた袖壁のことで、もともとは江戸時代、隣り合った町家の防火の役割を担っていました。この辺りでは、169棟が焼失した文政12(1829)年12月の大火をきっかけに卯建を設ける建物が増えました。卯建を作るには相当な建築費がかかったといわれています。裕福な商家は競うように立派な卯建を上げ、卯建は次第に装飾的な意味を持つようになったのです。今でも「うだつが上がらない」という言葉が「出世できない」「成功できない」というような否定的な意味合いで使われるのは、このような立派な卯建がある家を建てる甲斐性がないということが由来となっています。

へぇ~! うだつって、富の象徴だったんだ!

通りを挟んだ町家の虫籠窓(むしこまど)から眺める卯建

脇町の卯建が連なる風景

脇町の南町通りには、85棟の伝統的建造物が430mにも渡り残っています。建物の保存状態も良く、時代劇のセットかタイムスリップしたかのような光景は “うだつの町並み” として知られています。江戸時代から昭和初期にかけて、藍商、旅籠(はたご)、呉服屋、瀬戸物屋、油問屋、繭(まゆ)問屋らが軒を連ね賑わっていました。
古い建物は卯建だけではなく、虫籠窓や蔀戸(しとみど)※、あうんの開口鬼瓦、舌を出した鬼瓦など、デザイン性や遊び心を感じられる洒落た造りも見どころ。

※蔀戸:格子組の裏に板を張った板戸。外からの雨や風を遮断し、昼間に光を取り入れたい時は跳ね上げて使う

430mに渡る “うだつの町並み” は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている
時代劇の舞台みたい!

藍は暴れ川の氾濫がもたらした恵みだった

徳島では古くから藍が栽培されていましたが、戦国時代に藍の色の一つである「勝色(かちいろ)」が勝利につながる呼び名という縁起の良さから、鎧下(よろいした・甲冑の下に着るもの)を藍で染めようと、武士の間で藍の需要が高まりました。

武士のゲン担ぎになっていたんですね。知らなかった!

藍の葉は乾燥と発酵を経て “すくも” になり、それを固めた “藍玉” が吉野川の水運を利用して運ばれた

吉野川の流域は台風による水害に見舞われるため稲作には向いていませんでしたが、台風の季節の前に収穫を終える藍の栽培には適した土地でした。加えて、収穫後に訪れる台風による水害が藍畑に肥沃な土をもたらし、連作を嫌う藍の栽培を可能としたのです。
天正13(1585)年に蜂須賀家政(はちすかいえまさ)が徳島藩主となってからは藩の財政を支えるために藍の栽培を奨励。脇町は阿波藍の集散地として吉野川の水運を利用して発展を遂げます。藍の栽培が行われていた舞中島の対岸には立派な商家が立ち並び、今我々が目にする “うだつの町並み” が形成されたのです。

“うだつの町並み” と吉野川を挟んだ対岸にある舞中島は吉野川とその支流に囲まれた中島で、水害の度に客土が運ばれる肥沃な土地は藍の一大生産地となった

戦国時代に武士の間で高まった藍の需要は、江戸時代になると違った広がりを見せました。贅沢を禁止する奢侈禁止令(しゃしきんしれい)によって庶民には華やかな色は禁止されましたが、藍はこの制限を免れました。濃淡でさまざまな色合いを楽しめる藍染は、戦国時代の戦いのゲン担ぎとは異なった理由で、江戸庶民の衣服として着物や暖簾(のれん)など、町中で美しいブルーの景色を作ったのです。

もしや日本の「青」のイメージって、この頃にできたの!?

日本の藍のことを「JAPAN BLUE」と呼ぶことがありますが、これはイギリスの科学者ロバート・ウィリアム・アトキンソンが明治7年に来日した際に日本の町に溢れる青を見てそのように呼んだことが始まりで、明治23年に来日したラフカディオ・ハーン(後の小泉八雲)も日本を「神秘のブルーに満ちた国」と称賛しました。実際に徳島県では二人が来日した明治時代(明治36年)に藍栽培のピークを迎えています。

藍で栄えた時代の名残を見つける街歩き


実際に “うだつの町並み” を歩いて藍で栄えた名残を探してみましょう。南町通りで一番古い建物は、宝永4(1707)年に建設された国見家です。敷地は南町通りから当時の吉野川に達する広さで、石段でそのまま吉野川に出ることができたそうです。

脇町一の豪商で寛政4(1792)年創業の藍商「佐直(さなお)」の吉田家住宅(市指定文化財)は、当時の暮らしと商いの様子を再現し公開されています。約600坪の敷地には母屋、質蔵、中蔵、藍蔵、離れなど5棟が中庭を囲むように建ち、一部の蔵は改装され、現在はショップとカフェに。特に週末は観光客で賑わいます。

国見家と同じく吉田家屋敷裏も吉野川に面し、船着き場からはすぐ船を出すことができました。

なんだかちょっと懐かしい風情。行ってみたい!

吉野川と平行に走る南町通りから吉野川方向に抜ける小路には、吉野川を往来していた帆掛け船の船板を再利用した「船板壁(ふないたかべ)」の小路が残り、水運で栄えた時代の名残が感じられます。当時はここまで吉野川の水が来ていたのだとか。

この “うだつの町並み” と、藍の栽培地だった舞中島、藍玉を運搬する帆掛け船が行き来した吉野川を見て回るには、徒歩だと厳しいですがレンタカーを借りるほどでもありません。おすすめは、ブロンプトンというイギリス製のコンパクトな折りたたみ自転車でのんびりと巡る「脇町うだつの町並みポタリングツアー」。この地に魅せられた移住者やゲストハウス運営者、阿波弁ペラペラのアメリカ人ら個性豊かなツアーガイドによる説明に耳を傾けながら、吉野川を中心とした歴史と文化を体感できます。ツアーガイドによってはクイズやスイーツタイムなんかもあって、かなり自由な内容。本や資料を読んで知識を得るよりも、体験しながら得る知識は理解度や感動が格段に違いますので、子ども連れにもおすすめしたいツアーです。

吉野川に架かる潜水橋(沈下橋)。“うだつの町並み” がある脇町と、かつて藍の栽培地であった舞中島を結ぶ。橋と川を隔てる欄干がないので川を近くに感じられる。
自転車なら密も避けられるし、運動にもなるし、何よりすっごく気持ちよさそう!

阿波藍で栄えた “うだつの町並み” の今

かつて豪商が軒を連ね商いが盛んに行われていた南町通り。現在いくつかの商家はカフェやショップ、レストラン、工房、町家ホテルなどに姿を変え、若者を中心に賑わいを見せています。“うだつの町並み” は昔っぽく作られた町や古民家風の建物ではなく、吉野川の水運を利用し藍の集散地として栄えた、本物の歴史が感じられる町。この地に魅せられた移住者や観光客が自然と集まる脇町。ぜひ実際に訪れてその魅力を肌で感じてみてください。

取材協力:一般社団法人そらの郷

書いた人

生まれも育ちも大阪のコテコテ関西人です。ホテル・旅行・ハードルの低い和文化体験を中心にご紹介してまいります。普段は取材や旅行で飛び回っていますが、一番気持ちのいい季節に限って着物部屋に引きこもって大量の着物の虫干しに追われるという、ちょっぴり悲しい休日を過ごしております。

この記事に合いの手する人

大学で源氏物語を専攻していた。が、この話をしても「へーそうなんだ」以上の会話が生まれたことはないので、わざわざ誰かに話すことはない。学生時代は茶道や華道、歌舞伎などの日本文化を楽しんでいたものの、子育てに追われる今残ったのは小さな茶箱のみ。旅行によく出かけ、好きな場所は海辺のリゾート地。