縄文人もミーハーだった!縄文中期の最前線トレンドは「信州ブランド」の黒曜石【長野】

縄文人もミーハーだった!縄文中期の最前線トレンドは「信州ブランド」の黒曜石【長野】

目次

長野県諏訪地方が、ちまたで「縄文銀座」と呼ばれているのをご存知でしたか。かつて・・・といっても5,000年ほど前ですが、日本の大都会は長野〜山梨に渡って横たわる巨大な火山地帯、八ヶ岳の山麓にありました。諏訪には縄文中期の遺跡が集中し、その数は3,000件以上にも及ぶといいます。これは全国的に見ても、二位の東京都を大きく突き放す圧倒的な数字です。八ヶ岳山麓は、縄文時代中期、まさに人とモノが集結する大都会「銀座」だったのです。そして八ヶ岳に大量の人々を呼んだ理由は、おしゃれなカフェでもイケてるデザイナー服でもなく、八ヶ岳特産の美しい宝石、黒曜石(こくようせき)でした。

全国で約170ヶ所の産地があるといわれる黒曜石ですが、その中でも信州産のものは大ブームを引き起こしたようで、なんと南は奈良から北は北海道まで流通していたのです! 長野の黒曜石の何がそんなに特別だったのか? 大変な長旅をしてまで、なぜ縄文人は「信州産」にこだわったのか?

「縄文銀座」諏訪へのいざない、第2回は、縄文人の「黒曜石鉱山」に建つ「黒耀石体験ミュージアム」より、まさにこの地が「銀座」と化した理由、縄文中期の最新トレンドの実態をレポートします!


黒耀石体験ミュージアム。ミュージアムの建つ「星糞峠」からその麓一帯には、縄文時代の黒曜石の流通に関係した遺跡がいくつも残されています。

縄文人のマストハブアイテム、黒曜石とは?

黒曜石とは、火山から噴き出すマグマが急速に冷却されることでできる、天然のガラスです。抜群の切れ味を持ち、しかも加工が容易な黒曜石は、古くは旧石器時代から人々の生活を支えてきました。縄文人は、時には石鏃(せきぞく・石でできた矢尻のこと)として、時には調理具(包丁など)として、あるいは裁縫道具(穴を開けるキリ)として、またある時は工具(石を割るノミ)として、生活のあらゆるシーンで黒曜石を活用しました。縄文時代に暮らすなら、一つは持っておきたいマストハブアイテム、それが黒曜石なのです。


左は、取材にご協力いただいた学芸員の村田弘之(むらた・ひろゆき)さん。館内には、星糞峠からそのままの形で移設してきた黒曜石採掘跡の実物が展示されています。

「ストーンロード」が張り巡らされた黒曜石狂時代

信州が生んだ偉大な考古学者、藤森栄一は、縄文時代前期〜中期を指して、縄文人が「黒曜石に狂っていた時代」、「黒曜石狂時代」と称しています。この時代の遺跡をたどっていくと、日本中に黒曜石を巡るネットワーク「ストーンロード」が張り巡らされていたことがわかるからです。

黒曜石は、火山さえあればどこでも採れるというわけではありません。有用な黒曜石の採れる産地となると全国でも数箇所に限られ、それら限られた原産地から全国へと供給していました。この黒曜石を巡るストーンロードはどうやら当時全国を網の目状に覆っていたようで、巨大な原石を保管する「元締め」のような集落や、加工済の製品を大量に保管する「中継所」としての集落が各所に存在していたと見られています。縄文遺跡を掘り起こすと、原産地から遠く離れた場所でもザクザクと黒曜石が出土するのです。そう、まるで全ての縄文人が黒曜石収集に夢中になっていたかのように、です。黒曜石が日本列島の経済を支えていた、まさに「黒曜石狂時代」です。


黒曜石を採掘する縄文人。(黒耀石体験ミュージアム)

縄文人の謎のこだわり、信州産黒曜石

縄文時代には、(たぶん)誰もが欲しがった黒曜石ですが、しかし黒曜石であればなんでもよかったというわけではなかったようです。不思議なのは、縄文人が「ムダに」産地にこだわっていた、ということです。

良質な黒曜石の採れる「名産地」と呼ばれる場所は全国に数箇所あり、どこで採れたものであったとしても、黒曜石の実際的機能に違いはありません。どこのものでも、問題なく石鏃にも包丁にも加工でき、切れ味に違いがあるということもありません。にもかかわらず、なぜか縄文人は「信州産」の黒曜石をこぞって欲しがったというのです。ここでは、学芸員の村田さんに聞いた信州産黒曜石の「ブランド化」のお話をご紹介します。

①ムダに黒曜石を取り寄せる奈良の縄文人

縄文時代に活躍した刃物はもちろん黒曜石だけではありません。実際、刃物といえば「東の黒曜石、西のサヌカイト」という構図があったと村田さんはいいます。サヌカイトとは、鋭い切れ味を持つ岩の一種で、弥生時代には戦争に使う武器として全国的に流通しました。黒曜石のあまり採れない西日本では、このサヌカイトが黒曜石と同じような役割を果たしていたようです。しかし不可解なのは、まさにサヌカイトの原産地であり、黒曜石を利用する文化のない奈良県でも、信州産の黒曜石が出土しているということ。(!)奈良の縄文人は、生活に必要のない黒曜石を、わざわざ遠く信州まで取りにいっていた、あるいは取り寄せていたということです。


サヌカイト(Wikipediaより 吉田有岐撮影)

②地元にもあるのに、なぜか信州産が欲しい北海道と青森の縄文人

日本で黒曜石の採れる火山は、無論八ヶ岳だけではありません。むしろ、国内最大規模の産出量を誇るのは北海道なのです。にもかかわらず、信州産の黒曜石は、600km以上離れた青森県でも、なんと北海道でも出土しています。青森なら、どう考えても北海道のほうが近いですし、北海道にいたっては、国内最大規模の採掘地が目と鼻の先にあるのにもかかわらず、です。


北海道産黒曜石で作った石鏃。右は村田さん製作、左は私、笛木が作りました。(照)

③単なる実用品を超えた「ブランド品」

北海道産の黒曜石は、量、質と共に国内ナンバーワンですが、実は縄文人にはあまり人気がなかったようで、東北以南では見つかっていません。一方信州の黒曜石は、北は北海道から南は奈良まで、黒曜石を必要としない地域にまで広く流通しているのです。もし、縄文人にとって黒曜石が単なる実用品にしかすぎなかったのだとしたら、産出量と流通量はある程度比例してもいいはずです。縄文人が、海を超え、山を超え、苦労してでもどうしても手に入れたかった信州の黒曜石は、実用を超えた「ブランド品」としての価値がついていたのかもしれません。

信州ブランドは何がすごいのか

村田さんは、八ヶ岳の黒曜石が「特別」であったとしたら、その理由はひとえに「質がいい」ことと、「色が美しい」ことの2点に限る、と言います。質がいい、というのは、混ざりものが少ないということ。黒曜石は天然鉱物ですから、黒曜石になりきれなかった「ただの石」や気泡がその中に混ざっている場合が多いのですが、「質がいい」黒曜石にはそのようなことが少ないといいます。純度が高い巨大な原石が採掘できれば加工もしやすく、加工がしやすければ様々な用途に応用できますから、縄文人が重宝したのも納得です。


星糞峠の黒曜石。(全て黒耀石体験ミュージアム蔵)手前の小さな原石は、質が悪いために縄文人が捨てたと思われる黒曜石。

しかし、良質な黒曜石が採掘できる主要産地は八ヶ岳だけではありません。日本最大の黒曜石鉱山を誇る北海道木古内でも、純度の高い黒曜石は豊富に採れたはずです。と、すれば、残された可能性はただ一つ、「見た目のよさ」です。


長野県産の黒曜石。(全て黒耀石体験ミュージアム蔵)


長野県外の黒曜石。(全て黒耀石体験ミュージアム蔵)

こちらは、各地で採掘された黒曜石を並べた図です。うん・・・? 漆黒の石が並べられている中、長野県産のもの、特に星ヶ塔や星糞峠のものだけ様子が違うのがおわかりでしょうか。黒曜石なのに黒くない、いやむしろ透明に近いのです。

ここで村田さんが、縄文人が長野県産の黒曜石で作った石鏃をみせてくれました。


縄文人製作の石鏃(全て黒耀石体験ミュージアム蔵)

いかがですか、この美しさ、この透明度・・・! 目に入った瞬間、思わずため息が出ました。黒曜石が「生活道具」である前に、まごうことなき宝石なのだと実感させられる美しさです。縄文人は、宝石で石鏃を作っていたのです。この、水晶のような神秘的な輝きに縄文人が見出していたであろう人智を超えたパワーや呪術性を垣間見た気がしました。少なくとも、これらがただの狩り道具ではなかったことは確実です。この透明度の高さ、幻想的な美しさが、縄文人を「狂わせるほど」夢中にし、信州産黒曜石を余所のものと一線を画する「ブランド品」にまで押し上げたのかもしれません。

銀座への憧れは、いつの時代も変わらない?

諏訪が「縄文銀座」といわれる所以、それは縄文時代の中でもっとも時代特有の文化が花開いたと言われる縄文中期に、人やモノがこの地域に集結し、巨大な集落をいくつも築いていたからです。


各地から八ヶ岳山麓に届けられた品々。(全て尖石縄文考古館蔵)右上のコハクは千葉県産、右下の水晶は山梨県産だと見られています。左の緑色に輝く石は、これまた縄文人憧れの品、新潟県産のヒスイです。

なぜ、人々はこぞって八ヶ岳山麓に集まったのか? その問いの答えは決して1つではないはずですが、なにせ時は「黒曜石狂時代」です。全国の黒曜石の中でも一際美しく輝く信州産黒曜石が人々の興味を駆りたて、人が人を呼んでいたのだとしても決して不思議ではありません。

たとえ地元が黒曜石の一大産地だったとしても、たとえどの黒曜石でも機能が同じだったとしても、またたとえ、自身の生活には必要のないものであったとしても、信州ブランドの黒曜石は実利を超えて人々を夢中にさせたのです。いつの世も、若者というのはブランド品に憧れを持つもので、また大した理由もなく都会に行きたがるもの、ということなのかもしれませんね。

「あれ、おまえの石鏃、それもしかして信州産?」
「あ、気付いちゃった? いや、自慢するわけじゃないけどさ、こないだ信州から来た子にもらっちゃって(照)」
「これが憧れの信州産黒曜石か・・・話には聞いてたけど、やっぱ羨ましいぜ」
「今八ヶ岳お祭り騒ぎだってよ、黒曜石鉱山でひと旗あげようって移住する奴も多いらしいよ」
「そりゃあ黙っちゃいれねぇな! よし俺らも自信作の土器を土産に行ってみようぜ!」
「え、ど、土器持ってくの・・?」

・・・こんな会話が、その昔あったかもしれませんね。(なかったかもしれませんね)


「阿玉台式土器」(全て尖石縄文考古館蔵)茨城県など東関東地方で流行したスタイルの土器。完成度の高さから、この辺りの人々が作ったのではなく、東関東からわざわざ運びこまれてきたとみられています。土器そのものが運ばれたのか、中に何かが入っていたのかはわかりませんが、どちらにしても、たとえば茨城から長野まで運ぶには相当な労力を要したはずです。

ブームなんかじゃ終わらない! 諏訪に残る濃すぎる縄文色

ブームはいつか終わるのが世の常というもので、黒曜石で一世を風靡し、いつか「銀座」と呼ばれた八ヶ岳山麓の人気も、時代が下るにつれ下火になっていきます。そして長かった縄文時代もまた、今から2,500〜3,000年ほど前、大陸からやってきた水田稲作という文化が全国的に広がりを見せることで終焉を迎えました。弥生時代に入ると一転、文化の中心地は西日本へ移り、まもなく日本にも邪馬台国をはじめとするクニグニが生まれ、古墳時代には前方後円墳でつながった「国家」という単位を作っていくことになります。

しかし縄文文化はそこで途絶えてしまったわけではありません。東日本、特に長野県諏訪地方では、どうやら時代がどんなに下ろうとも、頑なに縄文スピリットが守られ続けたらしいのです。縄文時代終焉後、「縄文銀座」はどのように弥生文化を受け入れ、共生を図ったのか? 全国的に「弥生化」していく中で、諏訪はいかにして「縄文」を守ったのか? 次回「諏訪へのいざない」第3回は、諏訪大社の神職を明治時代まで務めた守矢家の史料館、「神長官守矢史料館」より、縄文時代終焉後に諏訪で生き残った縄文スピリットについてレポートします。いよいよ天下の諏訪大社も登場します! お楽しみに!

「縄文銀座」諏訪へのいざない《全4回目次》

第1回 縄文人の芸術の都編〜尖石縄文考古館より〜
第2回 縄文時代の銀座編〜黒耀石体験ミュージアムより〜
第3回 弥生時代以降も守られ続けた縄文文化編〜神長官守矢史料館&諏訪大社より〜
第4回 縄文銀座の歩き方:現代に残る縄文スピリット編

取材協力

黒耀石体験ミュージアム
〒386-0601 長野県小県郡長和町大門3670-3
電話:0268-41-8050
開館時刻:午前9時〜午後4時30分(入館の最終受付は午後4時)
(黒曜石の石鏃を自分で作れます! 体験メニューの最終受付は午後3時)
休館日:毎週月曜日(月曜日が祝祭日の場合は、その翌日)

尖石縄文考古館
〒391-0213 長野県茅野市豊平4734-132
電話:0266-76-2270
開館時刻:午前9時〜午後5時(入館の最終受付は午後4時半)
休館日:毎週月曜日(月曜日が祝祭日の場合は、その翌日)と祝日の翌日

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