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2019.08.21

75頭の鹿の首を捧げる「御頭祭」って? 縄文時代は終わったあともスゴかった!【長野】

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前回まで2回に渡ってお届けしてきた縄文時代の諏訪を巡る旅ですが、今回からは、縄文時代「終焉後の」諏訪についてお送りします。なぜなら、諏訪の縄文が本当に「すごい」のは、むしろ縄文時代が終わってからのお話だからです!

今からおよそ2500年〜3000年前、西日本に入ってきた「水田稲作」という文化は、わずか400年足らずの間に全国に広がっていきます。それに伴い、1万年以上もの間日本列島を覆ってきた「狩猟民的」縄文文化は、またたく間に「農耕民的」弥生文化に塗り替えられていきます

ところが諏訪は、日本がどんどん「弥生化」していく中にあって古い形の信仰を守り続け、独自の道を歩んでいたというのです。かつて「縄文銀座」とまで呼ばれた諏訪は、いかにして「農耕民的」弥生文化との共生を図り、日本列島のど真ん中で縄文スピリットを守り続けたのでしょうか? 縄文諏訪旅第3回は、代々諏訪大社の「狩猟民族的」祭祀の一切を取り仕切ってきた守矢家の敷地に建つ「神長官守矢史料館」、そして信濃国一之宮を誇る「諏訪大社」より、弥生時代以降、諏訪の地で静かに、しかしたくましく生き残ってきた縄文スピリットを紐解きます。


神長官守矢史料館。柱が屋根を突き抜けた大胆かつ生気あふれる建築は、まさに諏訪出身の「縄文系」(筆者定義による)建築史家、藤森照信先生の建築家デビュー作(!)です。見る度に必ず縄文心がざわざわ騒ぎ出します。

「神長官守矢史料館」に行ってきた!

守矢(もりや)家とは、明治期まで諏訪大社上社の筆頭神主「神長官」を務めてきた由緒正しきお家柄。その系譜はなんと神代まで遡ることができるといいます。守矢家の祖先神「洩矢神(モリヤガミ)」は縄文に起源を持つ狩猟の神とも言われ、古来よりここ諏訪の地で厚く信仰されてきました。「神長官守矢史料館」には、守矢家に古から伝わる諏訪神社の祭礼に関する古文書など、県や市の重要文化財にも指定される貴重な史料がたくさんあります。縄文好きが諏訪に行くなら間違っても外せない、マストビジット聖地の1つです。


史料館の裏手には藤森先生設計の茶室「高過庵」(写真)と「空飛ぶ泥舟」もあります!

中部・関東の縄文は頑なだった・・・!「縄文銀座」へ弥生文化が届くまで

大陸からもたらされたとされる水田稲作の文化は、非常に短期間の間に西日本、大阪平野の辺りまで広がっていきました。しかし、濃尾平野(三重県〜岐阜県)以東の東日本には水田にできない深い森が広がり、縄文人の人口密度も高かったために、弥生文化の広がりはここで一旦足止めを喰らいます。この「西の弥生、東の縄文」という文化の構図は、その後実に200年ほど続いたと見られています。


「弥生」の侵入を阻んでいたのは、濃尾平野以東に広がる深い森。

さらに驚きなのは、この構図がついに崩れるその時です。弥生文化はなんと中部・関東・北陸をスキップして、まず青森にもたらされるのです。それからまたたく間に南下していき、およそ2100年前、ついに中部・関東にまで達しました。中部・関東の縄文人、どれだけカタクナなのよ・・・と言いたいところですが、なにせこの地域は縄文時代に一大文化圏を築いていた「縄文大都会」だったわけですから(連載第一回参照)、外来文化をなかなか受け入れられなかったのだとしても、無理もありませんね。

諏訪で縄文文化を守っていたのは誰だ?

最後まで残った中部・関東地域で「縄文銀座」を守っていたのがどこの誰であったか、あるいはこの地に外来文化を持ち込んだのがどこの誰であったかは、もはや誰にもわかりません。しかし、諏訪に伝わる神話の中には、そのキーを握ると思われる神の話があります。その神こそ、守矢家の祖先神「洩矢神(モリヤガミ)」です。室町期に編まれた諏訪大社の縁起を記した書物、「諏訪大明神縁起絵詞」には、洩矢神についてこんな記述がされています。

洩矢の悪神神居を妨げんとせし時、洩矢は鉄輪を持して争い、明神は藤の枝をとりてこれを伏し給う。ついに邪輪を降し正法を興す(「諏訪大明神縁起絵詞」1356年より)

「明神」とは、現在諏訪大社の祭神「諏訪大明神」として知られる大変ありがたい神様、「タケミナカタノミコト」のことです。この神様、元々は出雲(現在の島根県)の神だったようで、その名は我が国最古の書物「古事記」にも登場します。天上の国を司る天津神(あまつかみ)が、出雲を統治する国津神(くにつかみ)のトップである大国主(オオクニヌシ)に国譲りを迫るシーンです。

国を譲るよう、天津神がオオクニヌシに迫ると、オオクニヌシが言うには「自分は構わないが、私の2人の子供がなんと言うか・・・」
そこで、くだんの2人に聞いてみたところ、1人目の御子、ヤヘコトシロヌシは快諾するが、2人目のタケミナカタは猛反対。無謀にも天津神を相手に戦いを挑む。(かくかくしかじかあった後)結局力敵わず、天津神に負けてしまったタケミナカタは東へ東へと逃亡し、ついには「洲羽(すわ)の海」まで追い詰められてしまう。そして、今後「諏訪から決して出ない」ことを条件に命拾いをする。

・・・というお話です。(だいぶ端折りましたが)「諏訪大明神縁起絵詞」に出てくるタケミナカタのお話は、他でもない、この古事記のエピソードの後日談というわけです。「洲羽の海」でタケミナカタを待ち受けていた洩矢神は、「鉄輪」を持って戦いますが、タケミナカタの「藤の枝」の前に負けてしまいます。それからのち、タケミナカタは諏訪大社の祭神「諏訪大明神」として君臨した、とあります。

諏訪にはこの神話を裏付けるように、天竜川を挟んで諏訪側に「洩矢神社」が、そして西側に「諏訪明神入諏の地」として伝わる「藤島神社」があります。ちなみに、「鉄輪」と「藤の枝」だったらどう考えても鉄のほうが強そうですが、この「戦い」は武力争いではなく、呪術比べだったと言われています。

以上が、嘘か真か、伝説あるいは神話の中のお話。しかし「神話なんて、古代人の考えた絵空事」と一掃してしまうのは、あまりにも早計です。諏訪は縄文時代、人とモノが集結する大都会だったのであり、弥生時代に入っても洩矢神に象徴される「洩矢族」をトップに、巨大な「縄文文化圏」を守っていたのだとしても不思議ではありません。タケミナカタに象徴される何者かがこの地になんらかの「異文化」を持ち込み、新しい文化形態が生まれたと考えるのはそれほど荒唐無稽な話ではないかもしれません。


長野県の遺跡を示した図。(尖石縄文考古館)明らかに目立つ赤い点々が縄文時代の遺跡。諏訪湖を中心に「大都会」が築かれていたことがわかります。

さて、タケミナカタに負けてしまった土着の神「洩矢神」ですが、実はそこで滅ぼされてしまったわけではありません。なんと諏訪では、相反する2柱の神が潰し合うことなく共存することで、独特の文化の形を築いてきたというのです。

諏訪大社の二重体制に見る「縄文」と「弥生」共生の姿

洩矢神に象徴される「縄文」文化と、タケミナカタに象徴される「弥生」文化共存の姿は、神道としてはちょっぴり風変わりとも言える諏訪大社の体制に見ることができます。諏訪大社は、全国に数万社あるとも言われる諏訪神社の総本社であり、信濃国一之宮を誇る日本最古の神社の一つでもあります。

諏訪大社は大きく上社と下社に分かれ、諏訪湖を挟んで南側に上社(前宮と本宮)が、北側に下社(春宮と秋宮)があります。これら4社を合わせて「諏訪大社」というわけですが、その祭の性格は上社と下社で全く違い、上社が「狩猟民的」であるのに対して、下社は「農耕民的」であると言われています。つまり、諏訪大社は一つの神社の体制の中に、相反する2つの文化を内包しているわけです。


諏訪大社上社前宮

また、「狩猟民族的」祭を行う上社には、明治時代まで、下社にはない独特な「二重神職体制」がありました。通常、神道では祭を取り仕切るのは神職の長(諏訪大社の場合「大祝《おおほうり》」と言います)の仕事ですが、諏訪大社上社の場合、大祝に次ぐ神官「神長官(じんちょうかん)」守矢氏が実質全ての神事を取り仕切ってきたというのです。

神話では、洩矢神はタケミナカタに祭政権を譲ったのち、今後その身をタケミナカタの祭政するために捧げると誓ったことになっています。この神話をなぞるかのように、諏訪大社上社では洩矢神(神長官守矢氏)とタケミナカタ(生き神=大祝)が「祀る側と祀られる側」として、代々共存してきたのです。

諏訪大社上社の奇祭「御頭祭」とは

では、守矢氏が代々取り仕切ってきた諏訪大社上社の「狩猟民的」祭りとは、いかなるものだったのでしょうか。「神長官守矢史料館」の展示から、ほんの一部をご紹介しましょう。史料館の入口をくぐるとすぐに眼前に現れる、度肝を抜かれる展示のハイライトです。はいこちら。

このエキセントリックな展示は、古代より諏訪大社上社の例大祭として執り行われてきた「御頭祭(おんとうさい)」のジオラマです。江戸時代に諏訪を旅した博物学者にして旅作家、菅江真澄(すがえ・ますみ)のスケッチを元に再現されたといいます。記録によると、当時の御頭祭では75頭分の鹿の首が神饌(しんせん・神に供える食物のこと)として捧げられ、胴体部分は人間が食す神人共食(神と人とが同じ食物を味わうこと)の形をとっていたとか。血を穢れとする神道にあって、獣を神饌とする珍しい「狩猟民的」祭であるばかりか、75頭の首をそのままの形で供える生々しさに原始的自然信仰の形が伺えます。


祭では鹿の頭だけでなく、イノシシの脳みそや、白ウサギなどの小さな獣、サギやキジなどの鳥類、鯛や海老などの海鮮物など様々なものがことごとく奉られたといいます。

現在でも毎年4月15日には、5頭分の鹿頭の剥製を供える縮小バージョンの祭が行われていますが、本来の御頭祭は、「廻り湛(まわりたたえ)」と呼ばれる神事に出かけていく童子を送り出す祭でした。「廻り湛」とは、これまた上社独特の古い古いお祭りで、この祭では選ばれし諏訪明神の代役となる6人の童子が、神の依代となる木や石を回り、縄文に起源があるとも言われる精霊「ミシャグチ」を地上に降ろしたのだといいます。


古代の神事「廻り湛」でミシャグチ神の依代とされてきた木や石は、「七木湛(しちぼくたたえ)」あるいは「諏訪七石」と呼ばれています。図は諏訪大社前宮の奥にある、七木湛の一つ、「峰たたえ」です。

縄文人の祈りをつなぐ精霊「ミシャグチ」とは

諏訪の縄文を語る上で、「洩矢神」と共に覚えておきたい神、あるいは精霊の名が「ミシャグチ」です。ミシャグチは、古代より長野県を中心に、主に中部〜関東で信仰されてきた神様で、そもそも諏訪大社上社の「狩猟民的」祭の根幹にあるのは、このミシャグチ信仰なのだとも言われます。

現在、ミシャグチは「子孫繁栄」のご利益があるとされることが多いのですが、そもそもは「石の神」だったとも、「蛇の神」だったとも言われています。ところで「石の神」「蛇の神」「子孫繁栄」と聞いて、思い出すものがありませんか。そう、連載第1回の「尖石縄文考古館」で見た、諏訪の誇るエキセントリックな土器「蛇体取手土器」です。


蛇体取手土器。「蛇体」装飾部分拡大。(全て尖石縄文考古館蔵)

蛇体取手土器は縄文時代中期に諏訪のあたりで生み出されたと見られ、中部〜関東まで派生していったスタイルの土器です。尖石縄文考古館の山科先生によると、この蛇体取手土器が生み出されたすぐ後に、縄文人のマツリの道具「石棒」も大量に作られるようになったのだそうで、両者は元々同じ動機から作られたのかもしれないのです。すなわち、蛇の「多産」と、脱皮をする「再生」の能力、また石棒に象徴される「子宝」と「再生」への願いです。


縄文中期の石棒と石皿。(全て尖石縄文考古館蔵)石棒は男性器の象徴、石皿は女性器の象徴とされています。

ミシャグチの起源が、縄文時代の蛇体取手土器、あるいは石棒や石皿にあるとする説は全く推測の域を出ません。しかし現在分布するミシャグチ信仰の根強い地域と、縄文時代に「蛇体取手土器」によって築かれていた一大文化圏は、非常に奇妙な一致を見せています。また、現在ミシャグチを祀る神社はその御神体として、縄文中期の石棒と石皿を祀るのが典型的なのだそうです。縄文人が蛇体取手土器や石棒に託した祈りが、形を変えつつ現在までつながってきたのだとしても決して不思議ではありません。

中部〜関東のミシャグチ文化圏を守ったのが洩矢神?

呼び方は、ミシャグジ、ミサグジ、ミサクチ、など地域によって様々ですが、ミシャグチを祀る神社は全国におよそ2000社あると言われています。そしてその総本社の形をとっているのが、諏訪大社上社の前宮です。上社前宮は諏訪大社4社の中でもっとも成立が古く、また古代「洩矢族」の本拠地であったと考える研究者もいます。そもそも、諏訪大社上社の神事を神長官守矢氏が取り仕切ってきたのも、守矢氏がミシャグチ信仰に関する一切の権限を有する司祭であり、ミシャグチ神を降ろす秘法もまた、神長官のみが行うことができるとされてきたからです。

もしかしたら守矢氏の祖先神「洩矢神」とは、蛇体取手土器、あるいはのちに石棒・石皿、あるいはその後ミシャグチとなる縄文的祈りでつながった中部〜関東の縄文文化圏を守る神だったのかもしれませんね。


守矢家の敷地に祀られるミシャグチ「御頭御射宮司総社(おとうみしゃぐちそうしゃ)」

諏訪に逃げてきたのはタケミナカタだけではない?!

古代、「農耕民的」弥生文化が全国を覆い尽くしていく中で、なぜ、諏訪には古い「縄文的」信仰の形が残り続けたのか? その答えはひとえに、誇り高き土着の神「洩矢神」に連なる神長官守矢氏が守り続けた祭祀の形にあるような気がします。そしてそれを可能にしたのは、諏訪大社の4社体制、すなわち上社と下社の「異文化共存」の姿勢にありました。

神話の中でタケミナカタは、「以後、絶対に諏訪の地から出ないことを約束するから許してくれ」と懇願します。実はこうして諏訪の地にやってきた神はタケミナカタだけではありません。「伊勢国風土記逸文」によると、天津神によって伊勢の国を追われた神、イセツヒコもその後「信濃の国に住んだ」とあります。また他でもない諏訪大社上社の大祝家、神(ミワ)氏もまた、元々は奈良の大神(オオミワ)神社を祀っていた氏族だったとする説もあるのです。

もしかしたら諏訪は、弥生時代以降、古代を生きた縄文人の「駆け込み寺」的な役割を担っていたのかもしれません。独特な信仰形態により「縄文スピリット」を保ってきた諏訪は、「銀座」だった時代をすぎても、縄文人にとっては文化のふるさとであり、祈りのふるさとであり続けたのかもしれません。

「縄文銀座」諏訪へのいざない《全4回目次》

第1回 縄文人の芸術の都編〜尖石縄文考古館より〜
第2回 縄文時代の銀座編〜黒耀石体験ミュージアムより〜
第3回 弥生時代以降も守られ続けた縄文文化編〜神長官守矢史料館&諏訪大社より〜
第4回 縄文銀座の歩き方:現代に残る縄文スピリット編

取材協力

神長官守矢史料館
開館時刻:午前9時〜午後4時30分
休館日:毎週月曜日(月曜日が祝祭日の場合は、その翌日)と祝日の翌日
入館料:大人100円
〒391-0013長野県茅野市宮川389-1
電話: 0266-73-7567

諏訪大社
上社本宮  長野県諏訪市中洲宮山1電話:0266-52-1919
上社前宮  長野県茅野市宮川2030 電話:0266-72-1606
下社春宮  長野県諏訪郡下諏訪町193 電話:0266-27-8316
下社秋宮  長野県諏訪郡下諏訪町5828 電話:0266-27-8035

尖石縄文考古館
〒391-0213 長野県茅野市豊平4734-132
電話:0266-76-2270
開館時刻:午前9時〜午後5時(入館の最終受付は午後4時半)
休館日:毎週月曜日(月曜日が祝祭日の場合は、その翌日)と祝日の翌日

書いた人

横浜生まれ。お金を貯めては旅に出るか、半年くらい引きこもって小説を書いたり映画を撮ったりする人生。モノを持たず未来を持たない江戸町民の身軽さに激しく憧れる。趣味は苦行と瞑想と一人ダンスパーティ。尊敬する人は縄文人。縄文時代と江戸時代の長い平和(a.k.a.ヒマ)が生み出した無用の産物が、日本文化の真骨頂なのだと固く信じている。